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●目 次

再刊に寄せて(坂井三郎)
1 硫黄島上空、1対15の激闘 
2 無敵の神話をつくった零戦
3 零式艦上戦闘機の誕生 
4 きびしい試練
5 むかうところ敵なし
6 大空の勝者「零戦」
7 南太平洋航空決戦 
8 終 幕 
 資料 零戦各型諸元表 
 訳者あとがき(加登川幸太郎)
 解説 日本人にとっての零戦(戸高一成)


●再刊に寄せて 坂井三郎

 このたびマーチン・ケイディン氏の著作『ZERO FIGHTER』が三十年ぶりに再刊されると聞いてうれしくなった。同氏はパイロットの免許も持つ、米新聞界の人気の高い航空・宇宙専門記者だったが、残念なことに一九九七年三月、癌のため六九歳で他界された。
 ケイディン氏の零戦への造詣は深かった。戦後、旧日本海軍の友人たちや、この飛行機を設計した三菱の技術者などの協力をえて、一九五六年にはじめて零戦の総合的な本を書かれたのである。
 また同氏は、五七年に出版された私と零戦を描いた本『SAMURAI!』の共著者のひとりでもある。日米両方からの資料をもとにつくられたこの本は、当時、三十カ国以上で翻訳されミリオンセラーとなった。いずれにしてもケイディン氏は、零戦の#歴史的意義$を世界中に詳しく紹介した人物として長く記憶されるべきであろうと信ずる。
 事実、零戦が太平洋戦争で演じた役割はすばらしいものがあった。
 一九四○年七月、中国大陸の漢口で衝撃的なデビューをして以来、太平洋戦争の緒戦から終盤まで零戦は日本海軍のエース機として活躍したのである。
 零戦は美しく、強かった。
 そして零戦がたどった運命そのものが日本の運命そのものだった。
 第二次世界大戦で活躍した航空機はさまざまあるが、とくに戦闘機ではいろんな特徴があり、一概にどれがすばらしかったとはいえない。しかし性能の中で最も重要な点は航続距離である。
 その点、零戦は当時にしては画期的な航続距離を誇っていた。その距離は実に三一○○キロメートル。太平洋戦争直前に私が計測した滞空時間も、実に十二時間五分。戦闘機としては当時の世界記録だった。
 とくに太平洋の大海原で戦うためには、この航続距離が不可欠であった。そしてこのおかげで私は今日まで生き延びれたのである。
 ドイツ機(メッサーシュミットやフォッケウルフ)のような高馬力でスピードを持つ戦闘機も名機ではある。だが、航続距離がなかった。太平洋戦争は、ヨーロッパ戦線のように陸続きで、陸地で補給してすぐに邀撃(ようげき)に上がるといった戦いではなかった。
 エンジンが止まり、飛べなくなった航空機は、危険きわまりない物体であり、地上にある航空機などは残骸と同じである。飛べること││それがパイロットにとって最大の魅力である、と私は考える。
「よく零戦の最大の特長はなんだったか」という質問を受ける。
 たいていの人は優れた格闘性能や二〇ミリ機銃などの武装のことを取り上げるだろう。確かに徹底した軽量化と、主任設計者堀越技師が苦心した昇降舵に施された剛性低下方式の効能は、空戦時、ピタリと決まる操舵応答の利き味を操縦者に供したすばらしいものであった。
 しかし、私に言わせれば、まず第一に長大なる航続距離こそが零戦の最大の特長であったといえる。
 事実、制式採用される直前の模擬空中戦では、格闘性能において零戦は九六艦戦に破れている。二〇ミリ機銃も携行弾数が少なく、実戦ではなかなか当てることが難しかった。
 だが、零戦の持つ航続距離が、一九四○年九月、中国重慶での大戦果を、また翌年一二月の太平洋戦争に突入した初日、台湾の陸上基地からのフィリピン攻撃を可能にさせた。
 太平洋戦争の緒戦において、日本海軍は太平洋からインド洋にいたる全域を制したが、この快進撃の根源をなしたのが零戦の持つ航続距離だといっても過言ではあるまい。
 米国情報部が、当時、中国大陸で指導教官をやっていたフライング・タイガーズのシェンノート飛行隊長の「零戦という新鋭機が衝撃的なデビューをした」という報告をまともに受けとっていたら、緒戦での米英蘭豪の航空戦力の壊滅は防げたかもしれない。結果的に米軍より「積乱雲と零戦は避けて飛んでよい」とまで恐れられた零戦隊の活躍はなかっただろう。
 南方における緒戦の零戦の驚異にたいし、米軍関係者は「日本は、いつのまにこれだけのすばらしい戦闘機を何百機、いや千機もよく揃えたのだろうか」と感嘆したという。
 米軍側は実際の数の約十倍の零戦が南の島のいたるところに配備されているとして、#空の要塞$B17で血眼(ちまなこ)になって探した。
 また、現在でも米国防省には零戦の行動を記録した『モリソン報告書』なるものが存在する。その報告書には、「日本軍の、マニラ空襲、スラバヤ空襲、チモール島のクーパンからのポートダーウィン空襲、ガダルカナル空襲は空母を使用してなされた」とあり、現在までも訂正されていない。零戦の作戦行動は当時のアメリカのカーチスやグラマンの持つ航続距離では、どうしても考えられないというのがその理由だそうである。なぜならそれらの戦闘機の航続距離は零戦の半分だったからである。
 これらのエピソードからしても零戦の航続力がいかに当時、すばらしかったかといえるだろう。
 ただし零戦にも欠点はあった。この長大な航続力を生みだすために徹底した軽量化が行なわれ、防御がおざなりになったことであった。中期以降は米軍側も徹底的にこの弱点をつくために、強力な対抗機の開発に力を注いだ。
 零戦は、大戦中、六年の長きにわたって第一線機として酷使された。その間、十数回にわたる改造がなされたが、改良には決してならなかった。むしろ航続距離は落ち、零戦のもつ軽快性は失われていった。
 その結果、最後には本来の目的ではない特攻機として二五○キロ爆弾を抱いて敵艦船めがけて突っ込む悲劇の戦闘機になってしまった。まさに開戦初期の大戦果に慢心し、次期戦闘機の開発を怠った日本海軍首脳陣の無能と怠慢によるものである。
 現在、私の手元にその零戦の破片が届けられ、大切に保管されている。破片は九四年にガダルカナル島で発見された機体の一部であるが、驚くべきことに機体番号V‐103は、何と私の愛機であった。私が負傷し、内地送還になったあとに、同僚の搭乗員がこの機体で戦死していたのだ。操縦席付近からは大腿骨が見つかっているが、近い将来、慰霊祭を行なう予定である。
 また私がニューブリテン島のガスマタに残した機体V‐173が、十年以上かけて完全復元され、オーストラリアのキャンベラ戦争博物館に展示されることになり、一九九九年六月、記念式典がとり行なわれた。
 このように戦後、半世紀以上たった今でも、私は零戦との運命的な結びつきのようなものを感じざるをえない。
 いずれにしても零戦は、その最大の武器である長大な航続力をもって生まれた、大戦初期においてすでに完成された名機であったことは間違いない。そしてあの美しく強い戦闘機、零戦こそはわが愛機なのである。
(構成・世良光弘)

 
●訳者あとがき 加登川幸太郎

 本書の「南太平洋航空決戦」のころ(昭和十八年)、この戦域の日本軍は、じつによくがんばっていた。将兵は故国を遠くはなれ、補給もとだえがちな南海の辺境で苦闘していた。この年も終わり近く、戦勢の転換がようやく、あきらかとなったころ、私は新たに西部ニューギニア方面を担当することになった第二方面軍(司令官、阿南惟幾大将)の参謀として任務についた。このときの作戦は、ニューブリテン島から東部ニューギニア方面が、連合軍に突破されるのは時間の問題であるという前提のもとに、これに対処するため後方を固めようとするものであった。ラエ、サラモアをはじめニューギニアの日本軍基地は、ジャングルのなかの孤島であった。補給も原始林にはばまれ、海上からするよりなかったのである。したがって、制空権の確保が勝敗のカギであった。戦闘機の戦いに敗れるとなれば、B17やB24などの連合軍爆撃機の傍若無人の活躍をゆるし、し
いては日本本土を指向する、いわゆる「蛙とび作戦」も思いのままとなる。精鋭をもってなる陸海軍部隊も、たちまちにして孤立してしまうのである。そしてそれは事実となってあらわれた。腕のふるいようも、力のためしようもない。三〇年たったいまでも、連日のP38やB24の来襲は、私には悪夢のような思い出である。
 どうしてそうなったのか。日本軍はいかに戦ったのか。本書は、きわめて明確にときあかしてくれる。外国の人で、よくぞここまで調べあげ、まとめられたものと感歎にたえない。読者には、こうしたすぐれた飛行機をつくった日本の技術を、あらためて見なおす人もあろうし、また底の浅かった日本産業の力や、戦争指導者を非難する人もあろう。翻訳し終わって、私は、空に敗れ、海に敗れ、つぎつぎと南海の辺境に孤立し、散っていった将兵を、いまさらながら思いだし、すまないことであったと、ふかく頭をたれる思いである。
 訳出にあたって、原文にある注と訳者の注を、それぞれ( )と〔 〕で区別した。(昭和四十六年)
 

●解説 日本人にとっての零戦 戸高一成

 本書の「南太平洋航空決戦」のころ(昭和十八年)、この戦域の日本軍は、じつによくがんばっていた。将兵は故国を遠くはなれ、補給もとだえがちな南海の辺境で苦闘していた。この年も終わり近く、戦勢の転換がようやく、あきらかとなったころ、私は新たに西部ニューギニア方面を担当することになった第二方面軍(司令官、阿南惟幾大将)の参謀として任務についた。このときの作戦は、ニューブリテン島から東部ニューギニア方面が、連合軍に突破されるのは時間の問題であるという前提のもとに、これに対処するため後方を固めようとするものであった。ラエ、サラモアをはじめニューギニアの日本軍基地は、ジャングルのなかの孤島であった。補給も原始林にはばまれ、海上からするよりなかったのである。したがって、制空権の確保が勝敗のカギであった。戦闘機の戦いに敗れるとなれば、B17やB24などの連合軍爆撃機の傍若無人の活躍をゆるし、し
いては日本本土を指向する、いわゆる「蛙とび作戦」も思いのままとなる。精鋭をもってなる陸海軍部隊も、たちまちにして孤立してしまうのである。そしてそれは事実となってあらわれた。腕のふるいようも、力のためしようもない。三〇年たったいまでも、連日のP38やB24の来襲は、私には悪夢のような思い出である。
 どうしてそうなったのか。日本軍はいかに戦ったのか。本書は、きわめて明確にときあかしてくれる。外国の人で、よくぞここまで調べあげ、まとめられたものと感歎にたえない。読者には、こうしたすぐれた飛行機をつくった日本の技術を、あらためて見なおす人もあろうし、また底の浅かった日本産業の力や、戦争指導者を非難する人もあろう。翻訳し終わって、私は、空に敗れ、海に敗れ、つぎつぎと南海の辺境に孤立し、散っていった将兵を、いまさらながら思いだし、すまないことであったと、ふかく頭をたれる思いである。
 訳出にあたって、原文にある注と訳者の注を、それぞれ( )と〔 〕で区別した。
(昭和四十六年)
「ゼロセン」という響きは、日本人にとって特別なものがある。
 それは、日本政府の政策の破綻がもたらしたものとはいえ、過去の日本が世界を相手に戦い、一時的とはいえ零戦が世界最強の戦闘機として太平洋に君臨した歴史をもっているからであろう。
 しかし、はじめからゼロセンの名が国民に知れわたっていたわけではない。極度に秘密主義であった日本海軍は、長く零戦の名を公表せずに、時折り発表される写真にも、単に「海軍新鋭戦闘機」とし、名前は明かさなかったのである。このために、ほとんどの国民は新鋭戦闘機の存在は知っていたが、零戦の名を知らなかったのである。
 零戦の名がはじめて公表されたのは、実に昭和二十年春であり、雑誌『航空朝日』の二月号に、海軍が発表した新鋭機名称として、ようやく「戦闘機零戦」の名が明かされたのである。しかし、すでに戦局は崩壊状態にあり、零戦の全盛期は遥かに過ぎ去っていた。戦場はレイテから本土周辺に移り、現実の戦場では、零戦はその優美な機体に二五〇キロ爆弾を吊って敵艦に体当たりするという無惨な戦いに終始していた。
 そして、零戦の名前の公表からわずか半年ほどで日本は敗戦を迎え、零戦の名も人々の記憶から薄れていったのである。
 日本の主な都市が、米軍の激しい爆撃によって廃墟にされてから七年、ようやく焼け跡から復興の兆しが見え始めたものの、まだ現実の生活は打ちひしがれていた昭和二十七年の暮れに、一冊の本が書店に並んだ。零戦の主任設計者である堀越二郎と、元海軍中佐奥宮正武の共著の『零戦』(日本出版協同株式会社)である。占領下、基礎研究をも含み一切の航空事業を禁止されていた日本も、サンフランシスコ講和条約により独立を果たし、禁止されていた航空関係図書の発行も自由になったための出版だったのである。
『零戦』は好調な売れ行きを示した。多くの国民は、この本によってはじめて秘密のベールに覆われていた零戦の実体を知ったのである。そして、ほぼ同時に発行された零戦空戦記の傑作『坂井三郎空戦記録』と相まって、戦後の永い零戦ブームの基盤が完成したのである。
 絶大な権力で日本人を支配している米軍を、一時的とはいえ圧倒した零戦の存在は、敗北感に叩きのめされていた日本人にとって、「廃墟となった日本を復興させ、再び技術的にアメリカに追いつくことも不可能ではないのだ」という心理的なバネとして大きな力になっていたのである。
 以来、零戦に関する図書は数え切れないほど出版され、写真集、資料集などのほかに、吉村昭『零式戦闘機』などの完成度の高いノンフィクション作品をも生み出してきた。
 本書『零式艦上戦闘機』も、多くの零戦に関する本の中の一冊であるが、ほかの零戦関係図書の中にあって際立った特長をもっている。それは、著者マーチン・ケイディンが日本の本にはほとんど現われてこない、「零戦と戦った男たち」のインタビューを入念に取り込んでいることなのである。さらに、ケイディン自身パイロットであり、自らも操縦桿を握った男としての「感覚」をもっていることが、強みとなって、リアルな表現を可能にしている。このあたりに関しては、単なるライターの遠く及ばないものがある。
 日本人は、先の『零戦』において設計者の証言から、零戦開発の経緯を知り、元海軍航空参謀の記録から海軍航空戦史の概要を知ったといえる。しかし、戦いには相手がある。相手を無視した戦いの記録は、いわゆる大本営発表に過ぎない。
 ここに本書『零式艦上戦闘機』の存在価値がある。ケイディンは多くの関係者から集めたインタビューをもとに、日米双方から見た「ゼロセン」の実体に迫っている。それは、#悪魔のように無敵の戦闘機$が#いとも簡単に撃墜できる時代遅れの戦闘機$に落ちぶれるまでの栄光と敗北の記録になっている。
 読者は、ケイディンの本書を読むことによって、零戦の「客観的事実」を知ることができるのである。その意味において、本書は零戦を知るための貴重な基本的な文献の一つということができるのである。
 そして、ケイディンは、本書の最後をつぎの言葉で締めくくっているのだ。
「しかし、短期間であったにもせよ、零戦は、これと戦った人びとから、全戦闘機の中で最高のもの、との称賛を得たのであった」
 この言葉こそが、戦うために生まれた飛行機、零戦にとって最大の賛辞であるといえよう。

 なお、本書は昭和四十六年にサンケイ新聞社出版局より発行されたものだが、今回再刊するにあたり、新たに若干の訂正を加えた。本書の特色となっている写真に関しては、原書の写真解説には不備なものが多かったので、大幅に訂正を加えたが、本書の内容の価値にかかわるものではない。したがって、この点に関しては、原書をさらに訂正した形になっている。

 最後に、「零戦」の読みについてお断りしておきたい。文中「零戦」と表記しているが、言うまでもなく漢字としての「零」はレイ、であってゼロという読みはできない。しかし、「零戦」はゼロセンなのである。もちろん制式採用当初の名称は、「零式艦上戦闘機」(レイシキ・カンジョウ・セントウキ)であり、多くの場合「レイシキセン」あるいは「レイセン」と呼ばれていたのは間違いない。
 しかし、空母や陸上部隊において「ゼロセン」の呼び方が使われていたことも事実であるので、ここでは一般的な呼び方として「ゼロセン」を採っている(原題もゼロ・ファイターであり、今や世界共通語でもある)。この呼び方にかんしては、ゼロかレイかと気にする向きもあるようだが、現実には「両方とも使われていたので、あまり気にする必要はない」というのが正解ということになるだろう。


●マーチン・ケイディン(MARTIN CAIDIN)
米国UPI通信社航空専門記者として活躍。“Flying Forts !”“A Torch to the Enemy”など宇宙・航空関係の著書は70册以上にのぼる。またパイロットの免許をもち、第2次大戦の4発爆撃機、ドイツBf108戦闘機から超音速機まで数々の飛行機を操縦した。1997年死去。
●加登川幸太郎(かとがわ・こうたろう)
1909年生まれ。陸軍士官学校42期、陸軍大学校卒、陸軍戦車学校教官、北支方面軍参謀、大平洋戦争開始のとき陸軍省軍務局軍事課員、第2方面軍、第35方面軍、第13軍参謀として、ニューギニア、レイテ、仏印、中国を転戦、終戦時中佐。1947〜50年、GHQ戦史課勤務。1952〜67年、日本テレビ勤務、編成局長。主な著書に『三八式歩兵銃』『戦車』、訳書に『ドイツ機甲師団』がある。1997年死去。
●戸高一成(とだか・かずしげ)
1948年生まれ。多摩美術大学卒。財団法人史料調査会理事を経て、現在「昭和館」図書情報部長。『日本海軍全艦艇史』(KKベストセラーズ)編集委員。『日本海軍史』(財団法人海軍歴史保存会)共著。