●はじめに
本書は『泰平組合カタログA』と『同カタログB』の“復刻”をもとに、品目および図面を追加し、解説を加えることで、火器本体の他に付属品、器具、器材を含めた総合的兵器集を意図したものです。
日本には戦前、「泰平組合」という兵器輸出団体がありました。これは大手商社3社の共同出資になる国策会社で、当初は余剰兵器を、のちに現制式兵器をも世界各地に売り込んでいました。この会社が発行した取扱製品カタログが、この『泰平組合カタログA』と『同カタログB』です。
泰平組合は明治41年6月、寺内正毅陸軍大臣の時、三井物産、大倉商事、高田商会3社の共同出資により設立されました。日露戦争後、次々と新式兵器が制式化され、旧式の小銃や火砲が大量に余ってきたため、これらの不要兵器を先の3社が払い下げを受けて外国、特に中国に売り込むのが目的でした。
当時、中国は世界各国から兵器を輸入しており、とりわけドイツから多く輸入していました。その後、第1次世界大戦が始まると、欧州諸国からの供給が途絶えたため、中国は日本に注文を出すようになりました。注文の主力は小銃でした。当時、日本には三五式小銃という新品同様の中古品が余っていました。これは海軍向けに作られた小銃で、その直後に三八式が制式化され、海軍もこれを採用したがったため、大量の三五式小銃が余っていたのです。これらは7.92mmモーゼル弾用に改造されて輸出されました。
また交戦国でも兵器の不足が深刻となり、イギリス、ロシアは日本に小銃を発注しました。この時の輸出数は合計100万挺を越えると言われています。
大正5年の第三十七議会で“泰平組合の不当利益”が取りあげられました。陸軍が安い値段で中古兵器を払い下げ、利益の一部が政府の運動費として寄付させられている疑惑がもたれたのです。一時はシーメンス事件の陸軍版とも騒がれましたが、陸軍は「軍機に触れる」として回答せず、この件はうやむやとなってしまいました。
第1次世界大戦後は、旧交戦国の余剰兵器の乱売、世界的な軍縮ムードなどにより、日本からの兵器の輸出は困難となりました。さらに一時は有望であった中国市場もドイツに占有されてしまいました。泰平組合は設立当初は10年契約、その後数回5年契約を更新して、支那事変の頃まで存続していました。
昭和14年4月には高田商会が抜けて三菱商事が加入して、新たに“昭和通商”が設立されました。その設立目的は「兵器工業の維持と健全な発達、陸軍所要の海外軍需資源の一部輸入、国産兵器の積極的海外輸出と、陸軍所要の外国製兵器の輸入など」となっていました。泰平組合は民間主導の余剰兵器の販売代理店でしたが、昭和通商の方は陸軍主導の代行商社でした。
泰平組合に関して関係者自身の証言はほとんど残っていません。公刊された文献では唯一、南部麒次郎中将がその自伝(『或る兵器発明家の一生』)の中において数カ所でこれに言及しているのみです。以下に整理してみますと、
●泰平組合の設立経緯については、明治40年12月、南部が中国に出張し、「三井、大倉、高田の三会社が各々独自に競争して兵器を売り込むため、この間、外国に漁夫の利を占められる懸念があるので、その実地調査を」行なった。この時の彼の調査結果に基づき、「三会社が兵器売り込みの競争を廃して、三社合同の泰平組合が組織せられ、将来の協力発展が期待されることになった」という。つまり南部によれば、当時すでに日本の商社は中国に武器を輸出していたし、彼の発案によって泰平組合が作られたことになる。
●売り込みに関しては、大正4年7月には第2回目の中国出張が命じられ、「目的は上海、南京、漢口、北京、奉天などの各地で三八式銃を紹介し、その採用を慫慂するにあった」という。同書ではこの出張で彼が得意になって三八式歩兵銃の紹介をする様子が描かれている。だがその後、売れたかどうかについては触れていない。
●南部銃製造所の設立時には、「いよいよ会社を設立する運びとなったが、資本主を誰にするかが問題となった。……大倉商事、泰平組合より出資することに決定した」という。
さて本書の元となった『泰平組合カタログA』と『同カタログB』には、昭和10年頃の最新兵器の鮮明な写真が収録されています。それは本体のみならず、属品、弾薬箱、駄載具なども完全な状態で収められています。また兵器といっても火器だけに限定せず、観測具、さらには手動式ポンプにまで及びます。写真はクリアーで、鹵獲品のような破損、欠品もなく、またマニアのコレクションのような補修や仕上げもありません。
アメリカではかつてカタログAだけが復刻されたことがあります。『(Japan)Arms & Ammunition : Catalogue A』(edited
by Fred L.Honeycutt,Jr.)という本で、1979年に出版されました。この序文によれば「アメリカでは戦時中、米陸軍がこれを借り受け、このカタログの写真を複写して各種のマニュアルに転載した。もちろん終戦まではこのカタログは“秘”および“部外秘”として扱われた」とあります。
この『泰平組合カタログ』は商品の性格上発行部数は少なく、しかも外国に配ったものなので、国内に現存するものは非常に少ないと言われます。
本書はこの貴重なカタログ(国内で入手した原本)を日本語訳するとともに、英文説明を採録したうえで、復刻したものです。
さらにカタログ写真と説明だけでは各兵器の概要が把握できないので、【追記】として解説を追加しました。諸元は旧軍マニュアルから、解説文中のデータは旧軍諸学校の月報などから転載しました。旧軍兵器はできるだけ旧軍資料で解説するようにしました。また解説にあたっては、できるだけ当時の状況(たとえば列国の動向)の中での位置付けを明確にしようとしました。それにより従来の後知恵による紋切り型の批判とは違った世界が見えてくるからです。
この『泰平組合カタログ』は発行が昭和10年前後ですから、九六式以降の兵器は当然含まれていません。またいくつかの兵器は意図的に収録されていません。例えば手榴弾、擲弾筒、速射砲などです。さらに、すでに最新型(例えば九二式重機関銃、九二式歩兵砲など)があったにもかかわらず、旧型が収録されているものもあります。本書ではスペースの許すかぎり、オリジナル・カタログに収録されていない兵器についても【補遺】として解説しました。
●解 題
本書は、旧日本陸軍の武器輸出機構であった「泰平組合」が、おそらくは昭和10年頃に制作した、“ARMS & AMMUNITIONS Catalogue
A”および“Catalogue B”の二冊セットの海外向け販促資料を底本とし、その写真、ならびに英語の説明原文を縮小転載(英文には翻訳を添記)した上に、さらに新たな解説を加え、一冊本として出版するものである。
原本の書誌的データを記すと、“Catalogue A”、“Catalogue B”ともに、サイズはA4判変型(天地300mm、左右230mm)で、クロース表装。表紙にTAIHEI
KUMIAI HEAD OFFICE, MARUNOUCHI, TOKYO, JAPAN.と金箔されている。
本文はアート紙で、その片面(開いて右側のページ)のみに鮮明なモノクロ写真と英文が印刷されており、ページ全体は赤い罫線で囲まれて、罫の下傍のセンターに、同じ赤インキで
TAIHEI KUMIAI の文字も刷り込まれている。
ノンブルは、右下隅に、Catalogue No.A…1 のように示され、左側空白ページはカウントされていない。
“Catalogue A”は小火器・機関銃と平射歩兵砲と観測器具等を載せ、トビラと目次を除いた本文ページは75ページ。主に大砲を載せる“Catalogue
B”の方は、73ページである(AとBの通しのノンブルではない)。
表紙、トビラ、目次、本文ともに、日本語の印字はひとつもない。
英文の内容を見ると、旧軍の典範類を参考にしている跡が窺えるが、直訳にはこだわっていない。タイプには稀に凡ミスも認められる。
印刷の日付を示すような文字情報は皆目、見当たらないが、トビラには、当時、泰平組合を構成していた二つの商社名が載っていて、カタログの制作者に関しては疑念の余地は少ない。
・本書の企画の経緯について
主著者である宗像和広氏は、年季の入った旧軍関係の古書コレクターとして、われわれミリタリー・ライターの間では知られていたが、このカタログは、その氏にとっても未知であった。たまたま立ち寄ったサープラス・ショップに現物が出ていて、落手できたということだ。その時期は、平成7〜8年頃だろうか。
内容は見ての通り、戦前の米軍が秘蔵し珍重したというほどの、驚くべき資料価値の高いものであるから、爾来、氏はこの原本を何とか復刻し、再び陽の目を見せんものとの高志を抱いた。そして軍事分野では定評ある版元を得て、まさに氏の宿願は、叶おうとしていた。
ところが何たる不幸ぞ、“Catalogue A”の訳文と解説文の著者校訂を終えたところで、宗像和広氏は、一朝病痾にみまわれ、遂にそのまま、平成10年12月に、かえらぬ人となってしまったのだ。
その結果、“Catalogue B”は、まったく手つかずのまま、個人の筐底に残された。
平成11年9月、版元より、故人を識る兵頭が正式の依頼をうけ、及ばずながら“Catalogue B”の訳文と追記解説文を担任することになったのである。
・本書の編集スタイルについて
「カタログA」(本書9〜83ページ)については、基本的に宗像氏が脱稿した訳文と【追記】解説文には、添削をしない方針とした。
原本の英語解説文には、「年式」は一切出てこない。たとえば「四四式騎銃」は単に“Carbine type A”、「三八式騎銃」は“Carbine type
B”とあるのみだが、編集部において、“44 Nen Shiki”、“38 Shiki”と変更し、補った。本書を研究目的で利用される方は、注意されたい。
「カタログB」(本書85〜150ページ)の訳文と解説文は、「四一式山砲」の追記のみを除いて、すべて兵頭が書き起こした。よって、その用語や記述に不適切な箇所があるとすれば、すべて兵頭の無知・不勉強からである。
英文の処理は、「カタログA」に準じている。
なお宗像氏の当初計画では、「カタログB」も、独自の【補遺】で充実させた形で世に問うつもりであったと想像されるが、兵頭にはとてもその意志を代行する力量は無いため、オリジナル・コンテンツにないアイテムを「カタログB」に加えることは控えた。
・泰平組合とは?
宗像氏も巻頭で説明を加えているが、改めて略解すると、泰平組合は、明治41年〜昭和14年の間、陸軍砲兵工廠の過剰生産品を、ドイツの武器商社がほぼ独占していた中国市場へ売り込んでいくため、それまでバラバラだった大倉組、三井物産、高田商会の三大兵器商社の輸出営業活動を統制した、国策兵器交易カルテル会社である。
その設立の背景には、一般には拳銃の設計家としてしか知られていない、南部麒次郎の構想と運動があった。このことを最初に世に知らしめたのは、『軍事史学』誌上に数度にわたり掲載された芥川哲士氏の論文である。
泰平組合を構成する二大武器商社(高田商会は大正末に脱落)は、グループ内に、有力な陸上兵器メーカーを持たなかった。そのため、昭和12年に支那事変が勃発するや、泰平組合には、政略輸出に回せるような兵器の在庫が瞬時になくなってしまった。
さらには、兵器のグレードの問題も出てきた。たとえば陸軍は、汪兆銘政権には94式軽装甲車を、日本がそのコメを必要としたタイ国には95式軽戦車を、それぞれのちに輸出もしくは供与しているのだが、こうした高度技術兵器を支那事変勃発以後に用意できたのは、軍工廠(造兵廠)ではなく、民間の三菱重工だけであった。
国家総力戦の幕開けとともに早くも機能停止に陥った泰平組合に代わり、武器商社としては三井より後発の三菱商事が、系列の重工を強みとして、泰平組合の機能を代行するようになった。
かくして昭和14年、泰平組合は正式に解散され、代りに、三菱商事を中核とする「昭和通商」が結成された。“昭通”は、欧州の枢軸国、中立国などにも活動拠点を置き、昭和20年まで日本の兵器国策の一翼を担い続けるのである。
なお以上の流れは、四谷ラウンドから出版されている拙著『たんたんたたた――機関銃と近代日本』(1998)、および『イッテイ――13年式村田歩兵銃の創製』(1998,兵頭・小松直之共著)の二冊の巻末年表を付き合わせると、ほぼフォローされているので、併せ参照されたい。
・「泰平組合カタログ」の制作年はいつか?
宗像和広氏が発掘した原本“Catalogue A”および“Catalogue B”には、制作年・配布年が記されていない。よってこれは、掲載されているアイテム等から推理するしかない。
カタログA、Bを通じて一番新しいアイテムは、「九四式拳銃」である。
同拳銃は、中央工業(南部麒次郎が設立した私企業)で試製されたのが昭和8年9月、制式制定されたのは昭和10年9月である。陸軍から開発を指示された段階では「将校用拳銃」としか呼ばれず、昭和9年、つまり皇紀2594年になって、プロジェクト通称として「九四式」の名が定着したと思われるから、この“Catalogue
A”の印刷をそれ以前と考えることは無理となる(なお“Catalogue B”の最新アイテムは「九〇式野砲」である。高射砲を牽引している六輪トラックの写真が「九四式自動貨車」かどうかは、確かな同定ができない)。
これと、先述せる如く、支那事変の勃発とほぼ同時に泰平組合の機能は事実上の停止に追い込まれたこととを較案すれば、原本の制作・配布年は、昭和8年以前でも、昭和13年以降でもあり得ないということができよう。
なお、このカタログが数年がかりで増綴されていったものと想像することは不可能だ。それならば最も新しい「九四式拳銃」などは最終ページに付け足された感じで載っているのが自然であろうが、原本は、そうはなっていない。
・昭和10年頃の時代背景
この昭和10年頃の、日本内外の事情はいかなるものだっただろうか。
国内的には、東北地方は昭和9年の冷害で娘が身売りされ、すでにロンドン軍縮条約からの脱退が決まっていたが、高橋是清蔵相は軍の予算をできるだけ圧縮しようとしていた。昭和11年になるとすぐ二・二六事件が起きる。日本が最も暗かった日々といっていい。
国外では、陸軍に限れば、なんといってもソ連軍の大増強が最大の関心事であった。
ソ連軍は、航空機・火砲・機械化装甲化地上戦力において、唖然とするほかない躍進ぶりを誇示していた。1935年(昭10)には、有名な「キエフ演習」が公開され、のちにノモンハンで関東軍を悩ませることになるBT(高速)小型戦車と中型戦車、計数百両が、招待の外国武官らの目の前を故障なく疾走した。昭和12年には、ソ連はトラック生産台数で欧州の第一位にものし上がる。
満州事変(昭和6年)でナショナリズムに目覚めた中国も軍拡中であった。国産が容易な小火器(拳銃、小銃、機関銃、機関短銃)については、欧米から技術指導を仰いで工場を次々に立ち上げていた。国産困難な戦車、装甲車、トラック、大砲、高射機関砲、航空機などは、手当たり次第に外国商社から買っていた。
売り手の最有力国はドイツであり、これには陸軍省も困惑した。たとえば支那事変の一年目(昭和12年)、日本陸軍はドイツ製「1号戦車」を複数鹵獲したが、その写真の公表を検閲で禁じた痕跡がある(当時のグラフ雑誌の検閲用の試し刷りと思われる束を兵頭は某フリーマーケットで落手したのだが、試し刷りの方には載っている、「1号戦車」の上で日本兵たちが万歳をしている一葉が、実際に販売された号では、見当たらない)。
ドイツ製武器といえば、モーゼル98k小銃が中国内で本格的に量産され始めたのも、昭和9年であった。
・掲載アイテムに現われた特徴
この、泰平組合のカタログ原本は、小火器中心の“Catalogue A”と、大砲中心の“Catalogue B”の二冊に分かれているが、小火器のアイテム数は相対的に少ないためか、“Catalogue
A”の後半に「十一年式平射歩兵砲」とか、砲兵用の観測器具が多数入っている。
これまた、「はじめに」で宗像氏も指摘しているが、時期的に当然記載されていてよいはずのアイテムの欠落も目立つ。すなわち、昭和9年制定の「九四式拳銃」が掲載されているのに、それ以前の制定の兵器で、原本に掲載のないアイテムが少なくない。
具体的には、「二十六年式拳銃」(関東大震災以降も製造され続けた)、「鉄兜」(支那事変以降は「鉄帽」と改称)、「十年式軽擲弾筒」(“軽擲”として昭和期にも輸出された)、「十年式曳火手榴弾」、「八九式重擲弾筒」、「九二式重機関銃」などである。
これらは、いずれも泰平組合の扱いで多数が中国その他に向けて売却されたことが、陸軍省密大日記などの史料から確実なのだが、そうした新品払い下げ品(陸軍省は必ず商社に「払下」の形式をとっていて、直接商売はしない)の数々が、カタログ原本には含まれていないことの理由は、不明である。
また、昔から日本の武器商社が扱ってきた得意品目である、廃用ストック小銃(この時期ならば、三十年式歩兵銃/騎銃以前の全型式)も含まれていないが、こちらの方は、ブランド・イメージを考慮したと解釈するのに困難はない。
「三年式重機関銃」の先代モデルである「三八年式機関銃」が載っていない理由は、芥川哲士氏の先行研究のおかげで想像ができる。それは、ホチキス社から同機関銃の輸出がライセンス契約違反にあたる、と警告されたからである。
さらに想像すれば、南部麒次郎が、ホチキスのパテントに一切抵触しない「三年式重機関銃」を完成するのをまって、はじめて日本陸軍は胸を張って、武器は日本からだけ買うように、と「対支21ヵ条要求」の中に書き入れることができたのだ。
・「泰平組合カタログ」は誰向けに作られたか?
原本の使用言語は英語であるが、当時から国際貿易の契約言語は英語であったから、それだけでは、この輸出カタログがそもそも何処向けに制作されたのであるかの推理はできない。
そこで、過去の日本の武器輸出の実績から推理してみることにすると、主な可能性は、中国の各軍閥、暹羅(タイ)国、そしてメキシコやペルーなど中南米諸国、の三方面に限られる。
中国は日本からの武器輸出実績は最も早くから存し、しかも、規模としても三方面のうちでは最大の海外市場であった。
しかし私は、このカタログが中国向けであった可能性は低いと見る。理由は、原本の英文表記には、中国のバイヤーには不要の配慮がしてあるからだ。
たとえば三八式野砲は“Field gun of artillery type A”と表記されているが、三八式野砲はそのままの名前で中国大陸にはずいぶん輸出されたもので、“type
A”ではむしろ分かりにくくなったろうと思われる。
忖度するに、掲載アイテムのうち、明治の元号に基づく型番は最も若いものが「三十年式銃剣」であり、おしまいが「四四式騎銃」だが、その次の大正年間の製品は逆に番号の数字が明治後半制定の兵器よりも若くなる(最小が「三年式重機関銃」、最大で「十四年式拳銃」)。これが、東洋の元号事情などには疎い欧米系の外国人バイヤーには、無用の混乱を与えるおそれありと判断されたのではなかろうか。
中国向けではないとすれば、しからばタイ(暹羅)国向けか。
タイ国からの武器注文はそもそも明治35年から始まっており(『発言者』1999年11月号の兵頭連載記事を参照)、日本陸軍にとっては中国につぐ伝統ある輸出市場だった。
しかし、防衛庁防衛研究所戦史部図書館に所蔵されている戦前のタイ陸軍のパレードの写真アルバムを見ると、どうして、彼らは最新鋭の兵器ばかりを揃えていたことが分かる。
イギリス製の軽戦車、装軌式装甲車、スウェーデン製の機械牽引砲、見たこともない大型擲弾筒……。規模は小さくとも、否、規模が小さいからこそ、タイ国軍は、新兵器を好んで買ったものと思われる。
そんな相手に、三八式野砲だの十一年式曲射歩兵砲だの、廃品に等しい兵器が載ったカタログを見せても、商売上のプラスはなかったように思われてならない。
もうひとつの可能性は中南米であるが、日本からこの地域に輸出された兵器に関する史料や先行研究は、まことに少ない。
わずかに分かっているところでは、陸軍は、第一次大戦直前にメキシコに三八式歩兵銃を輸出し、また、昭和8年には、ペルー陸軍に大砲や鉄兜を輸出したことぐらいだ。
以上、要するに、このカタログが誰のために作られたのかは断定不能で、将来の研究に待つほかない。
ただ、原本は、戦後の我が国ではよほどの稀覯本で、むしろ北米で発見されるらしいとの仄聞情報は、私は軽視し得ないと思っている。
・宗像和広氏について
泰平組合「カタログ」の発掘者であり、本書の企画者でありまた主著者でもある宗像和広氏は、1954年、福島県郡山市に生まれた。
子供の頃から、戦争映画は必ず観ていた、という。
いまの日本のミリタリー本の解説者には、モデルガンとか、プラモデルの趣味が高じ、その参考資料として洋書の写真集などをいろいろと求め、熱中して読んでいるうちに、いつの間にか突出した知識の持主になっていた……という経歴の人が少なくない。
だが、宗像氏の場合は、早い段階で、文献収集そのものが趣味となっていった。
テーマは、学生時代には軍艦に力を入れていたようだ。それがやがて、旧軍戦車関係が中心となり、さらには英軍や独軍関連の洋書などへも、守備範囲を拡げていったらしい。洋書は英語が中心だが、ドイツ語も読みこなせた。
1978年、東海大学工学部の大学院で修士課程を修了。その専門知識を、就職したOA機器メーカーの工程管理などに活かして、会社員としても嘱望されていた。
さて、ここに月刊『戦車マガジン』という雑誌が、東京・神田に在った。
1990年後半、たまたまヒラの編集部員であった兵頭は、誌上で新人ライターを募集したところ、これにすぐ応じてきたのが、宗像氏であった。
最初に頂戴した手紙には、「旧日本軍の戦車に関する古本を収集するのが趣味」と自己PRされていた。爾後の氏の活躍は、奥付の著者略歴にて紹介した著作をもって、示すことにしたい。
宗像和広氏は、新刊にも古書にも決して書き込みなどはせず、薄紙のカバーをかけて保護し、パソコンのカード・ソフトに一冊ごとの書誌データを登録しておくという、几帳面さであった。
さらに、徹底した性格の氏は、米兵が本国に持ち帰った旧日本軍の実銃の廃銃(機関部を熔接で潰すなどして無可動としたもの)のうち、九六式軽機関銃など適価で入手可能になっているものは、極力手にとって実感を確かめていたようである。そうして得られた知見は、本書「カタログA」の解説文にも、遺憾なく活かされていると思う。(兵頭二十八)
●宗像和広(むなかた・かずひろ)
1954年、福島県郡山市生まれ。東海大学経済学部大学院修士課程修了。会社員のかたわら英軍、独軍および旧陸軍機甲の研究に没頭。主な著述に「温故知新シリーズ」(月刊『戦車マガジン』1991年2月号〜1994年5月号連載)、『帝国陸海軍の戦闘用車両』(『戦車マガジン』1992年4月号別冊)、『第二次大戦のイギリス・アメリカ軍戦車』(『戦車マガジン』1992年7月号別冊)、『中国大陸の機械化戦争と兵器:1941〜1945』(『戦車マガジン』1993年2月号別冊)、『太平洋戦争の機甲部隊1』(『グランドバワー』1994年11月号)、『太平洋戦争の機甲部隊2』(『グランドパワー』1995年7月号)。著書に『陸軍機械化兵器』(兵頭二十八との共著、1995年6月、銀河出版)、『日本の海軍兵備再考』(兵頭二十八との共著、1995年8月、銀河出版)、『戦記が語る日本陸軍』(1996年5月、銀河出版)、『並べてみりゃ分る 第二次大戦の空軍戦力』(共著、1997年7月、銀河出版)。1998年12月歿。
●兵頭二十八(ひょうどう・にそはち)
1960年生まれ。主な著書に『日本の陸軍歩兵兵器』(1995年5月、銀河出版)、『日本の防衛力再考』(1995年12月、銀河出版)、『ヤーボー丼――いかにして私たちはくよくよするのを止め、核ミサイルを持つか』(1997年4月、銀河出版)、『たんたんたたた――機関銃と近代日本』(1998年1月、四谷ラウンド)、『有坂銃――日露戦争の本当の勝因』(1999年3月、四谷ラウンド)、『イッテイ――13年式村田歩兵銃の創製』(兵頭・小松直之共著、1998年10月、四谷ラウンド)、『日本海軍の爆弾』(1999年5月、四谷ラウンド)、『日本の高塔 写真&イラスト』(兵頭・小松直之共著、1999年11月、四谷ラウンド)がある。
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