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●著者のことば

 ヴェトナム戦争は、一般に信じられているのと違って、本質的には歩兵の戦争だった。この戦争では二十世紀が生み出したあらゆる火力とハイテク兵器が投入されたが、最終的に敵と接触するのは「グラント」、つまり歩兵であった。ヴェトナム戦争で戦死した陸軍将兵は三万五百九十一名で、ヴェトナムでの全戦死者の六十六パーセントを占めるが、その大多数は歩兵であると算定されている。
 今日では、ヴェトナム戦争は、技術の進歩のおかげで、大幅に機械化された戦争、それどころかコンピュータ化された戦争だったという誤った考え方が一般に広まっている。たしかにこの時期に兵器体系が飛躍的に進歩を続けたことは事実だが、歩兵の日々の生活は相変わらず厳しいものだった。
 「ブッシュ(ジャングル)」で生きぬくことの現実は、ほかのどの戦争にも劣らず苛酷だった。恐怖と緊張が絶えることはなく、それに肉体的疲労が重なって、やがては感情さえ麻痺してしまうのである。
 戦場の環境は極度のストレスを強いるもので、頑強な男の体力さえ奪ってしまう。兵器体系の進歩のせいもあって、ヴェトナム戦では兵士がそれまでの戦争よりも多くの装備を戦闘時に携行することもめずらしくなかった。食糧、大量の水、個人用火器と分隊用火器の弾薬、クレイモア地雷、無線機、破片手榴弾、発煙手榴弾、信号弾、そのほかの必需品を山のように背負ってジャングルを進まねばならなかったのである。さらにこのうえに、迫撃砲弾、無線機の予備バッテリー、工兵用装備、ガス・マスク、ボディー・アーマー、そして必需品のスチール・ヘルメットが加わる。個人の携行重量は平均二十五キロから三十キロで、これをはるかに上回ることも多かった。歩兵が「グラント(不満の声)」という名で呼ばれるようになった理由は、こうした数字にあるのである。
 作戦行動が行なわれたのは、密生したジャングルや峻険な山地、水田だった。むっとするような蒸し暑い時季も、凍えるような雨季も、戦闘は行なわれた。マラリア蚊などの害虫、熱帯性の皮膚病、塹壕足、寄生虫、ヒルといった敵対的な環境につきものの日々の現実が、寄ってたかって歩兵たちの生活をみじめなものにしたのである。
 孤立した火力支援基地の比較的安全な環境にあっても、歩兵の生活はほんのわずか楽なだけだった。砂嚢で固められた掩蔽壕や塹壕にこもって地下で暮らすのは、ジャングルへ分け入る作戦行動に劣らず神経をすり減らす体験だった。夜になれば敵襲の危険があり、近づく迫撃砲やロケット砲の砲声がしばしばその前触れとなった。
 こうした環境を耐えぬくうち、歩兵たちのあいだに強固な仲間意識、戦友愛といったものが生まれた。彼らは自分たちが少数派であることに気づき、それを誇りとしたのである。ヴェトナムにあった数十万のアメリカ兵のうち、第一線の中隊に配属されていたのは、つねにごく一部だった。こうした「11ブッシュたち(特技区分記号11Bから)」は、自分たちの苛酷な生活を体験していない者すべてをあからさまに嘲笑した。前線勤務の厳しい現実を味わっていない大多数の兵士たちは、「REMF(リアー・エシェロン・マザー・ファッカーの略で、リンフと発音、意味は後方勤務の糞ったれ)」と呼ばれたのである。〔監訳者註:陸軍の職種(MOS=モス)である11Bは歩兵を表すもので、階級によって11B2(一等兵および四等特技兵)、11B3(三等軍曹および二等軍曹)、11B4(一等軍曹)、11B5(曹長)に大別されており、この項の11ブッシュは、つねに前線にある下級兵士の11B2を指すものである〕
 アメリカがヴェトナムに大規模介入した十年間のあいだ、軍当局は、被服や装備を改善するため、そのあらゆる品目について不断の努力を続けた。その結果、1972年にヴェトナムに駐留する最後のアメリカ軍部隊が作戦に出動したときには、介入初期のアメリカ兵たちとは、まったく違う被服と装備を身につけていたのである。ジャングルや水田を大汗かきながら進む歩兵たちにはかならずしも伝わらなかったかもしれないが、軍のリサーチャーたちは、歩兵の暮らしを楽ではないにしろ、すこしでも快適にするための手段をつねに探し求めていた。それは彼らの福利厚生を思ってのことではなく、戦闘力を高めようという動機からではあったが……。「熱帯戦闘服」は、軍服の開発がもっともうまくいった希有な例であり、それ以降のアメリカ軍のあらゆる戦闘服の原型となった。
 ヴェトナムにおける歩兵戦は、はじまったときとおなじように、アメリカ軍の一個大隊がダナンの飛行場の周辺をパトロールすることで終わりを告げた。1972年8月5日、第196歩兵旅団(軽装備)隷下の第21歩兵連隊の一パトロール隊が、重くかさばるリュックサックを最後に背負った。パトロール区域は、ダナン西方十二キロ。海兵隊が1965年に到着したときに限定されたのとまったく同じ区域だった。パトロール自体は、それまで何十万回と繰り返されてきた典型的なものだった。四日間にわたるパトロール中に敵との接触はなかったが、二名の兵士がブービートラップで負傷した。これがヴェトナム戦争で最後に負傷したアメリカ軍歩兵である。
 本書の対象は、ヴェトナム戦の戦力組成表で歩兵部隊と記され、その名称に歩兵の文字が入った師団と旅団に限定した。空挺師団や空中機動師団は、ヴェトナムではほとんど歩兵として戦ったが、それらの部隊については、このシリーズで順次取り上げるつもりである。


●監訳者のことば

 最近、各地の在郷軍人会や隊友会でヴェトナム戦争に参加した元陸軍軍人らと話す機会が多くなった。そのとき彼らが異口同音に嘆くのは、当時の新兵の基礎訓練がいかに不足していたかについてである。訓練不足は当然、兵士の死傷率を増加させ、その結果、新兵たちの不安はつのる。さらに当時のアメリカ国内に吹き荒れた反戦運動が、新兵とその家族に追い打ちをかけ、彼らの中には戦場に派遣される前に戦意喪失した者も少なくなかった。
 とくに戦況が厳しくなるにつれ、本国から基礎訓練を終えるとすぐにヴェトナムへ補充兵として送り込まれるケースが多くなった。その点、太平洋軍に属する部隊からヴェトナムに配属される兵隊たちは、沖縄中部のミニ・ヴェトナム戦場で特殊部隊によって約十日間の訓練を受けてから現地へ送り込まれていたので、本国から直送される兵士に比べれば、いくらかましだったと言える。
 上記のような一般の兵士が背負っていたハンディに比べて、沖縄にいた私は、訓練も十分に受け、反戦運動などにわずらわされることもなく、ヴェトナムの戦場と沖縄の往復をくりかえしていた。今にして思えば特殊部隊にいたことで雑事にとらわれず、全エネルギーを軍事一筋にうち込むことができたと感謝している。

 戦場を知らない人はよくアメリカ兵とヴェトナム兵のサイズを比較して話をするが、戦場で一番重要なのはサイズではなく戦場経験である。身体は大きいが未熟なアメリカ兵を待っていたのは、戦場経験豊富な十五歳のベテラン兵であり、六十五歳の士気旺盛なヴェトコンや北ヴェトナム兵であった。
 幼少の頃より日本軍と戦い、フランス軍を破ったヴェトコンや北ヴェトナム軍兵士は歴戦の強者で、経験だけをとればアメリカ軍が太刀打ちできる相手ではなかった。そこで米軍首脳部は、経験の差を解消するための一環として装備の改善に力を入れた。
 それが端的にあらわれたのがヘリコプターであった。急速なヘリコプターの普及は、画期的ともいえる空中機動師団を編成した。さらに輸送ヘリは言うに及ばず、救急ヘリ、ガンシップ、遭難救助の専門ヘリまで出現するようになったのである。またヘリコプターの機動力のおかげで、地上軍も兵力の自在な投入が可能になった。もしヘリコプターの汎用化が実現していなければ、ヴェトナム戦争におけるアメリカ軍の被害は、想像を越えるものになったであろう。
 ヘリコプターのような大型兵器ばかりでなく、新型の個人装備も多数支給された。中にはおよそ役に立たない物もあったが、M18A1クレイモアやM79擲弾発射銃、M72対戦車ロケット、PRC-25無線機、スターライト・スコープ、ジャングル・ファティーグ等々、歩兵の生命を守り、支援してくれる有用な装備も多数開発された。
 本写真集を見れば、そうしたさまざまな新装備が一目瞭然である。また、時系列に写真がおさめられているので、ユニフォームや装備、火器の移り変わりもよくわかって面白い。
 とくに、写真のなかの兵士が持っているライフルを見ていると、銃にまつわる思い出がいろいろと思い起こされてくる。私が基礎訓練から沖縄配属になるまでずっと支給されていたのはM1ライフルであった。この銃は身長のない私にはいささか長く、また重量もあったため、その取り扱いには苦労をさせられた。ライフル擲弾訓練や銃のインスペクションの時などは、安定が保てずヒヤヒヤしたものだが、沖縄に配属されるとそのショートタイプのM1カービンが支給され、その数か月後にはAR-15(現在のM-16ライフルおよびCAR-15の前身)が支給された。この新型AR-15は、それまでのM-1やM-14に比べると銃身が短く、重量も軽くなったため、私にはまさしく天祐であった。以後、私のヴェトナム戦争期間を通じて最愛の友は、このAR-15であったことは言うまでもない。
 この写真集でもM-14からM-16(三又サプレッサーから円形サプレッサー)、さらに擲弾併用のM203へと、ライフルが変化していく過程がよく紹介されている。
 ヴェトナム戦争における米軍のユニフォームの写真集の監訳は、『ヴェトナム戦争米軍軍装ガイド』に続いて、二冊目だが、今回の写真集の方が、実際の戦場写真を収録してあるという点で、コメントはしやすく、また楽しい作業だった。ただ、奇異に感じたのは登場する兵士の装備携帯の不統一な点である。もちろん、同じ装備、同じ携帯方法では、写真がどれも似てしまって、写真集としての魅力がなくなるのはわかるが、それにしても軍が教える装備の携帯方法にはそれぞれに理由がある。気のついたことは、そのつど指摘しておいたが、これほど勝手にやっているのを目の当たりにすると、一般歩兵の士気が低下していたと言わざるを得ない。良くも悪くもそれがヴェトナム戦争の一面であったのだ。


●ケヴィン・ライルズ(KEVIN LYLES)
1982年にイギリスの美術学校を卒業して以来、軍事関係書のイラストや映画ポスターの制作を手がける。また英国陸軍、英海兵隊およびヨーロッパ各国軍隊の演習に同行取材し、記事を執筆。趣味は拳銃、ライフル射撃。現在、英国陸軍の機関誌に兵士トムを主人公とする一コマ漫画を連載中。著書に、ヴェトナム戦争時の米軍兵士の軍装を再現した VIETNAM:US UNIFORMS がある。同書は、ミリタリー・ユニフォーム第1巻『ヴェトナム戦争米軍軍装ガイド』として並木書房より翻訳出版されている。
●三島瑞穂(みしま・みずほ)
元米陸軍軍曹で特殊部隊グリンベレー在隊21年のキャリアをもつ。1959年、米陸軍に志願入隊。60〜72年、ヴェトナム在第5特殊部隊グループ、沖縄第1特殊部隊グループおよびMACV/SOGに在隊し、長距離偵察、対ゲリラ戦など、ヴェトナム戦争の全期間に従事。特殊部隊情報・作戦主任、潜水チーム隊長をへて、80年退役。現在、危機管理コンサルタントとして活躍する一方、各軍事雑誌に記事を執筆。著訳書に『グリンベレーD446』『コミック・ザ・ナム@A』『ヴェトナム戦争米軍軍装ガイド』『第2次大戦米軍軍装ガイド』(いずれも並木書房)がある。ロサンゼルス在住。
●北島 護(きたじま・まもる)
早稲田大学第一文学部卒業。英米文学翻訳家。専門は世界の特殊部隊と英国陸軍史。訳書に『特殊部隊』『SAS戦闘マニュアル』『ヴェトナム戦争米軍軍装ガイド』『ドイツ武装親衛隊軍装ガイド』『第2次大戦米軍軍装ガイド』『第2次大戦各国軍装全ガイド』(並木書房)がある。