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●目 次

著者のことば
第7特殊部隊グルーブ(空挺)下士官 1961年
ヴェトナム派遣特殊部隊(臨時)将校 1963年
南ヴェトナム軍付きMACV軍事顧問 1964年
第57衛生分遣隊(ヘリコブター救急隊)パイロット 1964年
第5特殊部隊グルーブ(空挺)下士官 1964年
第9海兵侵攻旅団 ライフル兵 1965年
アメリカ海兵隊中尉 1965年
第1歩兵師団 四等特技兵 1965年
アメリカ兵隊 通信兵 1965年
第25航空大隊(師団付き)機付長 1966年
第101空挺師団 パラシュート兵 1966年
アメリカ海兵隊 ライフル兵 1966年
アメリカ海兵隊 戦闘車両乗員 1966年
長距難パトロール中隊員 1967年
アメリカ海兵隊 通信兵 1967年
第3部隊偵察中隊 海兵偵察隊員 1967年
第173空挺旅団 パラシュート兵 1967年
アメリカ海兵隊員(コン・ティエン)1967年
特殊部隊プロジェクト・デルタ 1967年
第18憲兵旅団所属憲兵 1968年
アメリカ海兵隊ライフル兵(ケ・サン)1968年
第9歩兵師団 三等軍曹 1968年
アメリカ海軍SEALチーム・メンバー 1968年
アメリカ海兵隊機関銃手(フエ)1968年
第189歩兵旅団(軽装備)通信手 1968年
第4歩兵師団分隊長 1968年
アメリカ海兵隊ライフル兵 1969年
第23歩兵師団(アメリカル)てき弾手 1969年
第75(レインジヤー)歩兵連隊D中隊 三等軍曹 1969年
アメリカ海兵隊ヘリコブター・パイロット1969年62第101航空大隊ドア携関銃手1969年64アメリカ海軍 衛生隊貝 1969年
第11機甲騎兵連隊 四等特技兵 1969年
アメリカ海兵隊機関銃手 1969年
第44衛生旅団 看護婦 1969年
第1航空旅団 降着誘導員1970年
南ヴェトナム陸軍 レインジャー部隊付きMACV軍事顧問 1970年
第1騎兵師団(航空機動)騎兵隊員1970年
第1偵寮大隊 海兵偵察員 1970年
第227航空大隊(強襲ヘリコプター)パイロット 1970年
MACV/SOG 偵察チーム・メンバー 1970年
第5歩兵師団ライフル兵 1971年
南ヴェトナム海兵隊付きアメリカ海兵隊軍事頸間 1972年
アメリカ陸軍袖用部隊章
背のうと携行品
M1956/1967個人装備とその付属品
野戦装備
監訳者あとがき
全国サープラス・ショップー覧


●著者のことば
 本書の目的は、ヴェトナム戦争に参加したアメリカ陸軍、海兵隊、そして海軍の地上戦闘部隊が使用した衣類と装備を写真で正確に再現することにある。それぞれの写真を見て解説文を読めば、アメリカが最初に軍事顧問を送り、やがて部隊を投入、そしてその十年後に完全撤退するまでに、陸軍兵士や海兵隊員、水兵の外観がどのように変わっていったのかがわかるだろう。
 また本書の後半部に載っている兵士たちは、前半部の兵士たちと大きく異なった服装をしているが、それは戦争に対する考え方の変化をも表わしているのである。
 ヴェトナム戦争は、多くの人々の意識のなかに、ヘリコプターの戦争として永遠に刻みづけられている。たしかにヘリコプターはほかのなによりもアメリカの存在を象徴するものであった。しかし本質的にはヴェトナム戦争は歩兵の戦争だった。海兵隊のライフル兵や航空騎兵隊員、陸軍特殊部隊リコンドー隊員などの歩兵たちは、志願した者も徴兵された者も等しく、戦闘の重荷を背負わなげればならなかったのである。
 兵士たちは、濃密なジャングルや峻険な丘陵、冠水した水田で行動しなければならなかった。彼らは、あるときはうんざりするような暑さのなか、あるときは体の芯まで冷えるモンスーンの雨のなかで戦った。前線で戦う歩兵たちの日々の暮らしは、ほかのどんな戦争よりも惨めなものだった。そして、兵器の進歩のせいもあって、ヴェトナム戦争で歩兵が携行した装備の重量はこれまでの戦争よりも増えていた。
 陸軍や海兵隊の兵士が携行した装備の重量は平均二十五キロから三十キロで、それ以上であることも珍しくなかった。ヴェトナム戦争で新しく歩兵の別名として登場した「グラント」(不満の声)という名前は、こうした装備の重量からきているのである。
 アメリカがヴェトナムに兵を送った十年のあいだ、兵士の装備と衣類はあらゆる面で進歩を続け、その結果、1972年の陸軍兵士や海兵隊員は、十年前にこの国を訪れた歩兵たちとは似ても似つかない格好をしていた。重いリュックサックを背負って水田やジャングルを進む兵士たちにはあまり気づかれなかったかもしれないが、軍の開発担当者たちはつねに、兵士たちが、快適とはいえないまでも、楽に過ごせるように気を配っていた。ただ、軍の目的は兵士の幸福ではなくて、戦闘力を損なうような過度の不快感を取りのぞくことだったが。
 「熱帯戦闘服(ジャングル・ファティーグ)」は、軍による衣料と装備の開発が非常にうまくいった珍しい例で、ヴェトナム以降現在にいたるアメリカ全軍の野戦服の基礎となった。こうしたさまざまな改良にもかかわらず、歩兵の仕事は、相変わらず苛酷なものだった。
 本書では、ヴェトナム戦争に参加した部隊のほとんどを網羅するように配慮した。写真の兵士たちが着用しているアイテムはすべて実物で、軍の発注年度もできるかぎり1975年以前のものを用いるようにつとめた。衣類の多くは実際にヴェトナム戦争で使用されたもので、従軍兵士から入手した実物である。
 写真で見たときわかりやすいように、大部分の装備品はなるべく支給されたときとおなじ、きれいな状態で撮影した。写真の兵士の幾人かは当時の写真をそのまま再現したものだ。しかし、それ以外の多くは、数百枚の写真を調査して、その結果を組み合わせたものである。戦闘員の大多数を占めているのが歩兵であるため、本書でも歩兵の比重が大きい。
 長距離偵察パトロール隊(LRRP)、海軍特殊部隊(SEAL)、陸軍特殊部隊(グリーンベレー)などの特殊部隊員にも多くのぺ一ジを割いた。彼らは、戦争の影響をより強烈に受けとめ、敵と同等以上のテクニックで闇の戦いを繰り広げたのである。
 衣類や装備、武器の変遷がわかるように、写真は年代順になっている。それぞれのアイテムがいつ導入されたのかが一目でわかるようになっているが、スペースの制約で、写真の兵士が着用している衣類や装備を別の写真の説明文で詳しく解説した場合もある。
 袖の部隊章(SSI)については二ペ一ジを割いたが、これは実際に使用された数多くの記章の一部にすぎない。それらをすべて紹介するためには、本書の数倍の分量が必要だ。
 ヴェトナム戦争では、戦闘装備や武器の開発が急速に発展したため、それらをすべて網羅することは不可能だった。また、スペースの関係で、本書の対象外である海軍や空軍などの部隊にふれることができなかったが、ご了承いただきたい。 ケヴィン・ライルズ


●監訳者あとがき
 日本に釆ていつも感心するのは、アメリカ軍は言うに及ばず、各国軍隊のユニフォームや装備に詳しい人が実に多いことである。そんな彼らと話をはじめると決まって「M16ライフルとAK47はどちらが扱いやすいですか?」「ヴェトナムでは水筒は通常何個携帯したんですか?」「タイガー・ファティーグの迷彩効果は?」等々、矢継ぎ早に質問される。知っているかぎり返事をするが、21年アメリカ軍に在隊した私でさえ答えに窮するほど、専門的な質問も少なくない。
 私の場合、軍隊生活中、ユニフォームに愛着をもったことはほんどない。ただ体が温まり、小物を入れるポケットがありさえすればそれで満足していた。
 だが最近になって、日本の軍装ファンの影響からか、テレビや映画のヴェトナム物を見ていると、ストーリーよりもユニフォームや装備にも目が行くようになってしまった。その結果、あれも違う、これもヘンだと、画面に向かって文句を言っている自分に気がついて苦笑するほどだ。
 そんな中、並木書房から本書の原著『VIETNAM:US UNIFORMS IN COLOUR PHOTOGRAPHS』が送られてきた。これを日本で翻訳出版する価値があるかどうかの判断を求められたのだ。そして内容が良ければ監訳を引き受けて欲しいとの依頼だった。
 本書に登場するユニフォームばとれも洗いたてで清潔感にあふれ、実際、現地で目にしたのとは若干印象が違う。だが、ぺ一ジをめくっていると、なつかしい思い出がそれこそ走馬燈のようによみがってきた。当時の汗や血の臭い、硝煙の香りに包まれてくる気がするほどだった。
 資料的価値も十分にあると判断てきたので、その旨を出版社に告げた。これまで、ヴェトナム戦争を伝える写真集はいくつか日本でも紹介されたことがある。だが、軍装品に興味をもつ読者には、写真が小さかったり、不鮮明なため、満足のいくものはなかったと聞いている。その点、本書は、当時の装備をつけた各兵士が正面と背面から撮影され、それぞれに簡潔な解説が付されている。ヴェトナム戦争当時のユニフォームと装備を知るには、本書にまさる資料はほかにはないだろう。
 監訳するにあたり、各部隊の戦歴や軍装の点で気づいた点は、そのつど指摘したので、ここではユニフォームにまつわる話を思い出すまま書いてみる。また、本書にならって当時の私の軍装についても紹介してみたい。
 ヴェトナム戦争では数多くのユニフォームと装備が考案された。これらの製品の中には粗悪品もあったが、傑作も多くつくられた。中でも画期的なデザインとして全将兵に喜ばれたのがジャングル・ファティーグと呼ばれる軽量で乾きの早い熱帯戦闘服であった。これは特殊部隊最初の将官となったウイリアム・P・ヤーボロー准将(退役時は中将)が第二次世界大戦で着用した降下部隊のユニフォームを参考にデザインしたものである。
 全軍に先がけて私の所属する沖縄の第一特殊部隊は一人三着ずつこのユニフォームを支給された。部隊の規則により二着には肩章、階級章、降下章、個人名などを縫いつけたが、残りの一着にはステーライル(何もつけない)にしておいてもよかった。着心地のよいユニフォームを受給されて喜んでいた我々だったが、ユニフォームを支給されなかった通常部隊の兵隊から嫉妬まじりの苦情が続出して基地の内外を問わず我々はユニフォームの上にピストル・ベルトを着用する羽目になった。戦闘服着用時にベルトが見えないのは軍人らしくないというのが苦情の理由だった。
 この痒いところまで手が届くようにデザインされた新支給のユニフォームにも欠点がない訳ではなかった。一つは、特殊部隊のメンバーには鍵を開ける訓練を受けた隊員もいて(67年以降中止)、常に細い針金か安全ピンをポケットに忍ばせていた。だが、新しいユニフォームのポケット内の中央部には水捌けの小さな穴が開けであったので、ピンや針金がこの穴から落ちてなくなるという被害が続出した。
 また、MP(憲兵隊)と犬猿の仲である我々特殊部隊のメンバーが、この新しいユニフォームによって飲酒運転、粗暴運転、暴力行為、公務執行妨害など摘発されるケースが激増した。ベレー帽は隠せてもユニフォームは隠すことができず、MPにとっては特殊部隊イジメの恰好の証拠となったのである。
 あまり知られていないことだが落下傘部隊の記章をデザインしたのも全軍役を降下部隊で過ごしたヤーボロー将軍であった。彼は記章デザインの特許を取得しているが、現役時代に取得した特許は個人の利益にできず記章販売から得る利益は彼の名で陸軍の相互援助団体に寄贈されつづけている。
 ユニフォームのなかで最悪だったのがタイガー・ファティーグ。このユニフォームはコットン100%だったので、一度濡らすと乾きが遅く、小袋をかついでいるようだった。おまけにポケットが少なく、しかも付いているポケットは非常に小さく、生地の肌ざわりも悪かった。両袖上部に手縫いのポケットを付けて補ったが、実戦に着ていくのはまれだった。
 ナイフの携帯場所は各人勝手だった。私は腰部に装着していた。左胸にナイフをつけている隊員と腰につるした隊員のそれそれに敵弾が当たった現場に遭遇したことがあるが、腰につけた隊員は粉々になったナイフのブレードが大腿に食い込み重傷を負ったものの命は助かり、一方の隊員はブレードの破片が心臓に食い込み即死したからだ。腰につるすもう一つの理由はコンパスの磁気がナイフに左右されるのを防ぐためである。
 60年代初期にコークラン(半公認の降下靴)の内側にファスナーを付けるのが流行ったが長続きはしなかった。それまで軍のゴルフ場を使用して降下訓練をしていたのが、岩だらけの旧日本軍飛行場に降下するようになってからファスナーが裂けて負傷するケースが相次ぎストップをかけられたからだ。だが本当の理由は緊急時に予備の止血帯となる靴ヒモの携帯を奨励するためであった。

●ケヴィン・ライルズ(KEVIN LYLES)
1982年にイギリスの美術学校を卒業して以来、軍事関係書のイラストや映画ポスターの制作を手がける。また英国陸軍、英海兵隊およびヨーロッパ各国軍隊の演習に同行取材し、記事を執筆。趣味は拳銃、ライフル射撃。現在、英国陸軍の機関誌に兵士トムを主人公とする一コマ漫画を連載中。
●三島瑞穂(Mizuho Mishima Bobroskie)
元アメリカ陸軍軍曹で特殊部隊グリンベレー在隊21年のキャリアをもつ。1959年、米陸軍に志願入隊。60〜72年、ベトナム在第5特殊部隊グループ、沖縄第1特殊部隊グループおよびMAC/SOGに在隊し、長距離偵察、対ゲリラ戦など、ベトナム戦争の全期間に従事。特殊部隊情報・作戦主任、潜水チーム隊長をへて、80年退役。現在、危機管理コンサルタントとして活躍する一方、各軍事雑誌に記事を執筆。著訳書に『グリンベレーD446』『コミック・ザ・ナム』『ヴェトナム戦争米軍軍装ガイド』『第2次大戦米軍軍装ガイド』『ヴェトナム戦争米歩兵軍装ガイド』(いずれも並木書房)、『有事に備える』(かや書房)などがある。ロサンゼルス在住。
北島 護(きたじま・まもる)
●早稲田大学第一文学部卒業。英米文学翻訳家。専門は世界の特殊部隊と英国陸軍史。訳書に『特殊部隊』『SAS戦闘マニュアル』『ヴェトナム戦争米軍軍装ガイド』『ドイツ武装親衛隊軍装ガイド』『第2次大戦米軍軍装ガイド』『実録ヴェトナム戦争米歩兵軍装ガイド』『軍用時計のすべて』『SAS特殊部隊員』(いずれも並木書房)がある。