メールマガジン「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」 荒木肇
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「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」
   
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「海を渡った自衛官─異文化との出会い─(荒木肇)

■はじめに
  陸上自衛隊が初めて海外へ一歩を踏み出したのは、1992年9月、行き先はカンボディアでした。93年にはアフリカの南端に近いモザンビークへ内戦後の国際平和協力業務活動に、94年には中央アフリカのルワンダへ難民救援に派遣されました。96年からは今も継続中のゴラン高原での輸送業務活動が始まり、99年から2000年にかけては東ティモールの復興支援、01年にはアフガニスタン、02年には再び東ティモールへ。そして04年にはイラクへと隊員たちは出かけて行きました。
  少ない人員をやりくりしながら、陸上自衛隊は見事にこれらの任務を果たしてきましたが、これまで隊員たちが自らの言葉で派遣について語る機会はほとんどありませんでした。
  このメルマガは、海外に赴いた隊員数十人を直接取材し、彼らが現地で何を体験し、どうやって任務を遂行してきたのか、その実際を聞き書きしたものです。
  派遣先での「異文化との出会い」に悩み、戸惑いながら、事態をどう解決してきたのか? 知られざる自衛官の活躍を等身大で紹介します。週1回(水曜日)の配信。スタートは5月7日の予定です。

第1回目の配信を見る

■著者経歴
荒木肇1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。

■おもな著書
「自衛隊という学校」
「続・自衛隊という学校」
「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」
「学校で教えない自衛隊」
「学校で教えない日本陸軍と自衛隊」

「子供もに嫌われる先生」


「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」 第1回


「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」

第1回 ゲートに行けば日本のキャプテンに会える/イラク復興業務支援隊

《イラク復興支援軍の概要》
  2003(平成15)年3月、英米軍がイラクへの攻撃を開始した。5月1日には早くも大規模戦闘の終結宣言が出され、7月13日にイラク統治評議会が発足する。
  わが国では、7月26日には「イラク特別措置法」が成立し、自衛隊の部隊が医療、給水、施設の復旧整備に派遣されることになった。
  派遣される陸上部隊は復興業務支援隊と復興支援群に分かれる。
  実際に支援活動を行なうのは支援群の衛生隊、施設隊、給水隊だが、警備部隊や群本部などの人員がかなりの数にのぼった。また、イラク当局や、外国軍や、国連関係組織との交渉や調整・連絡にあたったのは業務支援隊だった。
  そして、前者は第10次、後者は第5次隊の撤収が完了したのは、2006(平成18)年7月29日だが、装備や物資の国内へ送り出す部隊、後送業務隊、約100名がイラクの地を最後に離れたのは9月14日だった。

▼「イラク人の目線で考えよ」ヒゲの隊長の方針

 N1尉に発令された職務は「連絡将校(幹部)」だった。
  イラク暫定政権がスタートする前、ムサンナ県は米・英占領当局(CPA)の治政下にあり、治安の任にあたったのはオランダ軍(CIMIC)である。
  N1尉は、業務支援隊の連絡幹部、つまり、CPA、CIMICと自衛隊復興業務支援隊とのさまざまな業務調整や連絡にあたるのが仕事のはずだった。
  職種(兵科)は通信科であり、通信学校で教官職を務めるほどのベテランである。それが、現地での実際の活動はといえば、働く場所と仕事を求めるイラク人たちの窓口になってしまった。
  「失業問題が何より深刻でした。働き盛りの人たちに仕事がない。就職を希望する人がほとんど毎日、宿営地のゲートに来ていました。通訳などの採用があるからです」
  イラク人の通訳に対応を任せてしまう方法もあったが、N1尉は自分でじかに話を聞こうとした。
  佐藤隊長(ヒゲの隊長で有名になった現参議院議員)の指針も、「イラク人の目線で考えよ」というものだったし、せめて話し合いだけでもしなくてはと考えたからだった。
  雇用できる数は限られていて、希望者は多いので、採用はめったにできなかった。でも、ゲートに行けば日本のキャプテン(1尉=大尉)が話を聞いてくれる。
  それが話題になり、現地の人はぞくぞくとキャンプのゲートに訪れるようになった。

▼毎日が手探りの異文化体験

 これは違うな、これもずいぶん自分たちの常識とは変わっているなと思うことの連続だった。まず、給与の支払い方法である。
  こちらはドル建てで金を渡す。その米ドルと現地通貨、イラク・ディナールとの換算率が高額ドル紙幣ほど有利になっていた。
  例えば、100ドル札は13万5000ディナールになる。ところが、1ドルは1100ディナールにしかならない。細かい札で給料をもらうと、およそ2割も損をする計算になるのだ。
  だから、現地の人はなるべく高額の紙幣で支払いを受けたがった。こうしたことは、現地の事情にうといと何も分からない。どうして、通訳たちはこんなにむきになって高額紙幣を欲しがるのか、その謎はやはり現地の人から聞いたことで理解ができた。
  若い独身男性も就職に必死だった。結婚するために働きたい、金を貯めたいという意欲が並大抵ではなかった。それは、結婚しているかいないかが、現地での社会的地位にひどく影響するからだった。
  イスラムの文化として一夫多妻の制度がある。もともとは、働き手の夫を失った家族は悲惨な目にあうといった歴史が背景にあるらしい。甲斐性のある男は、たくさんの妻をもつ。そうして家族を養うのは一人前の成人男子の役割であり、責任だという考えがたいへん強いのだ。
  「雇っているイラク人が勤務時間についてこぼしたことがありました。自衛隊の仕事は契約では朝9時から、午後5時まで。そうすると、昼に家族といっしょに食事をとることができない。それが悲しいというのです」
  けしからん、仕事だぞ、家族がなんだ、あるいは、何を大げさなことを言うのだ。日本人は家族と夕食もいっしょにしないで働くのが普通だなどと言ってしまうかもしれない。でも、ここはイラクであり、イラク人の常識は違うのだ。N1尉は勉強になったという。

▼戦争をしに行くんじゃないんだから

 N1尉は親子3代陸軍の家系である。祖父は旧陸軍から陸上自衛隊へ、父も陸上自衛官だった。中学生の時には韓国へ行き、分断された国家の厳しい現実を見た。高校ではタイ王国へ研修に行った。そこでベトナム、ラオス、カンボディアなどからの難民キャンプでボランティア活動をした。国を追われた人々の悲しい表情が目に焼きついたという。
  イラクへの派遣前、緊張感はたしかに持った。でも、祖父に報告がてら会いに行ったら、戦争をしに行くんじゃないから任務を楽しんでやってこいと言われた。それで、ずいぶん肩の力がぬけたとN1尉は言う。
  「自衛隊はこれからも多様な任務環境の中で、さらに海外で活動することが増えるでしょう。今まではPKOや、人道派遣などはもともと兵士・軍人の仕事ではないと思われてきました。でも、ほんとうは兵士・軍人でなければなければできない仕事です。自衛隊は力むことなく淡々と活動していくことが大切だと考えています」
  N1尉は太ももに付けた拳銃のケースが目立つ、当時のゲートの写真を見せてくれながら、にこやかに語ってくれた。