会葬御礼

父、奈須田敬の葬儀は8月1日、おおぜいの会葬者に見送られ、滞りなく執り行なうことができました。なにより父が敬愛してやまなかった自衛隊の方々が陸幕長はじめおおぜいで、しかも制服姿でご参列いただき、父もさぞ喜んだとことと思います。

葬儀委員長には長年父と親交のありました、杏林大学名誉教授の田久保忠衛先生が引き受けてくださり、感謝の言葉もありません。父も同じ思いでしょう。この場を借りてお礼申し上げます。

父は大正9年、1920年生まれで、今年の3月で92才となりました。昨年の秋ごろから歩行が少し困難になりましたが、好きな会社だからと、自力で毎日出社していました。
今年の4月に入って間もなく、急に立ち上がることができなくなり、以来、自宅療養となりました。診断の結果は慢性の腰椎圧迫骨折とのことでした。

じつは亡くなる前日の7月27日、行きたかった銀座の事務所に家族で車椅子で連れて行くことができました。そこで、田久保先生はじめ親しい方々と歓談することもでき、その日はご機嫌で父は帰宅しました。

翌28日の午後、医者の往診を受け、いつものように昼寝をしましたが、なかなか目を覚まさないので、母が声をかけたところ、すでに呼吸が止まっておりました。私も連絡を受けてすぐに駆けつけましたが、寝具に乱れもなく、苦しんだ様子もなく、いつもと変わらない寝顔でした。死因は慢性心不全。十数年前に心臓の手術をしてペースメーカーを入れていたので、心臓が弱くなっていたものと思われます。

92歳という高齢で、直前まで大好きな会社に出社し、最期は眠るように亡くなった父は、まさに「大往生」でした。

父と交流のある方なら、ご承知のように、父は天下国家ひと筋の人でした。学者、評論家の先生方、新聞・雑誌などジャーナリストの方々、そして何より自衛隊の方々を銀座一丁目にあるビルの8階の事務所に招いて談論風発し「天下国家」を論じることが生き甲斐でした。
また父は人の集まりが大好きで、パーティ会場などでグラス片手に親しい人を見つけては、「ヤアヤア」と声をかけて話し込んでいる姿が今も目に焼き付いています。

昭和49年にはライフワークとなる月刊ミニコミ紙「ざっくばらん」を創刊し、30数年の長きにわたって続けました。自分で執筆し、編集し、発送までする、出版の原点のような活動でした。
昨年4月に体力の衰えもあり、446号をもって、惜しまれながら自ら休刊としました。その2か月後の6月23日には「ざっくばらん・ごくろうさんの集い」を皆さんに開いていただき、盛大なパーティ催すことができました。最晩年の父のいい思い出になったと思います。

以前から「日本の行く末が心配で、死んでなんかいられない」というのが父の口癖でした。「もしかしたら本当にオヤジは死なないんじゃないか」と思っていましたが、90を過ぎてからは、あまりそういうことを言うこともなくなりました。父の思いは、「ざっくばらん」の読者、そして交流のあった皆様の心のどこかに伝わっているのではないかと思います。もしそうであれば、父の人生はとても有意義なものだったと思います。

法名 「穏照院釋論敬居士」(おんしょういんしゃくろんきょうこじ)

なお、8月2日付けの「産経新聞」に野口裕之氏が署名入りで「葬送」の記事を書いてくださいました。同じく2日発売の「週刊新潮」で、父のことが「墓碑銘」で紹介されています。どちらも心のこもった記事で、家族一同感謝しております。
(2012年8月2日 長男・若仁)







 訃 報

江畑謙介さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り致します。
江畑さんは去年から体調を崩されて、自宅で療養されていたことは承知していましたが、これほど病状が差し迫っていたとは思いませんでした。今年、千葉の海沿いの街に引っ越されて、環境の良い場所で療養されれば、少し時間がかかっても良くなると信じていたのに残念でなりません。
今年2月に電話で話したのが、結果として江畑さんとの最後の会話になりましたが、そのときは合間に咳き込まれて苦しそうでしたが、それでもこれからはまた本業の執筆活動に専念するつもりだと、明るく話してくれました。たとえば「こんな兵器じゃ兵士は戦えない」というテーマはどうか、江畑さんがおしゃるので、「それはいいですね。ぜひお願いします」と即答しました。つねに兵士の立場に立って兵器を解説する江畑さんならではの企画で、原稿の出来上がりを心待ちにしていたのに、もはやそれも叶いません。
多くの軍事評論家のなかにあって江畑さんはその能力の点で、トップクラスの人でした。今回の訃報に接して、ただただ驚くと同時に、あれだけの知識が失われてしまったことは、日本の損失であり、いまは喪失感で一杯です。あらためて江畑さんの冥福をお祈りしたいと思います。

平成21年10月13日 なすだ



 
2007年4月7日(日本時間)
元グリンベレー軍曹の三島瑞穂さんが肝臓ガンのため、ロス・アンゼルスの病院でお亡くなりになりました-享年68歳-
1959年に米陸軍に入隊後、グリンベレー軍曹としてベトナム戦争に従軍
米軍退役後は、自衛隊で後進の指導にあたるなど、積極的に活動され、これからの活躍が期待されただけに大変残念でなりません。
御冥福を心よりお祈り申し上げます。

----------------------------------------------

拳銃射撃の第一人者で、小社からは90年代に2冊の本(品切)を出版したテッド新井氏(76歳)が2007年2月5日、パラグアイで強盗と格闘の末、2発の銃弾を頭部に受け、還らぬ人となりました。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます
詳細はmichiota.exblog.jp

■■■追悼■■■

2007年4月7日、三島瑞穂軍曹が肝臓ガンで亡くなられた。享年68歳。入院した時点で末期ガンと分かり手遅れだったいう。それより少し前の2月5日、南米パラグアイの首都アスンシオンでテッド・新井さんが強盗と格闘の末、頭部に銃弾を受けて戦死された。享年76歳。

私は平成元年(1989年)に並木書房を立ち上げたが、お二人ともスタート間もない並木書房を支えてくれた、かけがえのない作家だった。
三島さんのデビュー作『グリンベレーD446』は、その年の6月の出版で、何度も版を重ね、その後増補されて講談社で文庫になった。
テッドさんの最初の本は『テッド・アライのコンバットシューティング』で、翌90年に刊行した。いま会社の書棚にはこの2冊を遺影代わりに飾っている。パラパラと頁をめくると、その時どきのことが鮮やかに目に浮かぶ。

三島さんからは原稿が出来上がった順にファックスで送られてきた。はじめはいったいどんな構成なのかさっぱり分からず、最後に部屋中に原稿を並べながらまとめて本にした。
編集作業に先駆けて、当時ボストンに住んでいた三島さんを訪ねた。初対面の三島さんは実にぶっきらぼうで、私は気圧され、原稿を本当に書いてくれる気があるのか不安になった。ところが、その三島さんが自宅のドアを開けたとたん、「リサたーん」と大声をあげて、生まれて間もない娘さんを抱きしめたのには本当にびっくりした。一見気難しげに見える三島さんの素顔を見た思いだった。私は、フッと肩の力が抜け、そのとき三島さんとの距離が縮まった。
翌日には三島さんに連れられ、国内線を乗り継ぎ、特殊部隊の本拠地フォートブラッグを案内してもらった。三島さんが鍛えあげた当時の部下や新米の士官が今も部隊に残り、ある人は大佐に昇進し、三島さんを大歓迎してくれた。
帰りに寄った基地内のバーでは、三島さんが仲間全員にバドワイザーをおごり、しばらくすると、その仲間からビールのお返しがくる。戦友という心を許せる仲間に囲まれた三島さんの豊かな人生を感じさせる光景で、その印象は今に至るまで変わらない。

テッドさんとは、ロスの空港で待ち合わせた。強面風なサングラス姿だったが柔和な眼差しを感じた。挨拶もそこそこに空港から愛車のピックアップトラックで、モハベ砂漠を目指す。途中のドラッグストアで、「必要な飲み水を買うように」と言われたが、まるで見当がつかなかった。
その晩はテッドさんの射撃場のあるランチで泊まったが、「オレは車で寝る。キミはあの小屋で寝るように」と言って、さっさと車に引き上げてしまった。ランチは警備用にシェパードが数匹飼われていて、小屋の周りを徘徊している。しかも小屋は金鉱発掘時代に建てられたような年代物で、古ぼけたベッドが1つあるきり。しかも深夜、家の周りをぐるぐる歩き回る人の足音が聞こえ、寝られる状況ではなかった。あとでここは幽霊がよく出ると聞かされ、ゾッとした。テッド氏本人は聞いてもニヤニヤするだけだったが、不思議な体験だった。
テッドさんの本は計2冊作り、どちらもモハベ砂漠の射撃場に寝泊まりしながら、炎天下に写真撮影を強行した。親分肌のテッドさんの周りには、つねに大勢の弟子たちが集まり、ロスの自宅はまるで梁山泊のようだった。いずれも魅力的な面々だったが、離合集散が激しく、テッドさんを含めて、それぞれが一匹狼の集まりだった。

三島さんとの交流はその後もずっと続き、昨年、三島さんの後輩にあたる飯柴智亮中尉(中尉から弔文が届いたので下に掲載してあります)を引き合わせたのが最後の打ち合わせだった。
テッドさんとはすっかり交流が途絶え、一昨年夏に突然、手紙が届いた。そこには「南米に活動拠点を移した」と記されていた。南米で何をするつもりかは分からないが、何かとてつもないことをテッドさんは夢見ていたのだと思う。

お二人の訃報を相次いで知り、いまもショックから立ち直れていない。
三島さんの葬儀はロスで4月16日に行なわれる。その様子は後日教えてもらえることになっている。
14日、私は、千葉に住んでいるテッド氏のご遺族を訪ね、詳しい事件の経緯を聞き、ご遺骨と対面し、焼香してくる予定だ。


それぞれの人生を精一杯に駆け抜けた大先輩の冥福を心よりお祈りします。そして、お二人の著書を世に送ることができたことは、出版人としての私の勲章です。合掌。
                           
                                 並木書房 なすだ


【飯柴智亮中尉からの追悼の言葉。】
三島瑞穂一等軍曹(退役)は、21年間もの長い間米陸軍に在籍し、その多くを特殊部隊に所属して過ごしました。
発足直後の赤ん坊のようだった特殊部隊を今日のように成長させたその多大な功績を自分は尊敬し、米陸軍の大先輩として慕ってきました。その三島軍曹が突然亡くなった事は、本当に残念でなりません。
三島軍曹の冥福を心から祈ると同時に、『三島軍曹、米陸軍は大丈夫です!今まで本当にお疲れ様でした。後は安心して自分達に任せて下さい!』の言葉を贈り、この場を借りてご挨拶とさせていただきます。

                                    飯柴智亮
                                    米陸軍中尉


【三島軍曹の葬儀に参加された小関ミホさんからの追悼の言葉。】

4月16日、三島さんのご葬儀は、ご自宅のあるトーランス郊外の「グリーンヒルズメモリアルパーク」という場所で、多くのお花に囲まれてしめやかに執り行われました。

参列者は平日の葬儀ということで5〜60名ほどでしたが、現役の特殊部隊員とSFアソシエーションの方々が多数参列され、三島さんのご兄弟と三島さんの現役時代の話をされていました。

家の中では、日本のような祭壇を設けておらず、たくさんの三島さんの写真と思い出の品々がテーブルに飾られていました。

写真に見える季節はずれの雛人形は、3月に三島さんが帰国されてから家族皆でしまおう、という約束だったのですが、帰国直後から体調を崩されていたので片付けることができず、そのまま永眠されてしまったので、ご葬儀が終わって落ち着くまで飾っておくとの事でした。



私がロスに着いたときには、すでに部屋の整理が始まっておりましたが、三島さんの部屋の机の周りは手付かずで、ほぼそのままでした。
多くの書類や資料に囲まれ、穏やかな日差しが差し込む部屋で、コーヒーをいれ、常にテレビやCDを家の中でかけて仕事をされていたそうです。



三島さんはいつも帰国されると、仕事で取材に出かける以外は家にいることが多かったそうです。
三島さんにとっては最も居心地の良い場所がロスの家であったのだと、現地に行って実感しました。

三島さんが旅立ってから2週間が経ちましたが、今でも葬儀の事を思い出すと涙が出てきます。
私にとって三島さんは、単なる仕事のパートナーや飲み友達ではなく、父のようでもあり、人生の師でもありました。彼と出会えたおかげで、私の人生はとても大きく変化し、自分の生きてゆく道が定まったといっても過言ではありません。

それゆえ、いまも悲しみは大きいのですが、残されたご家族のため、そして三島さんのために出来る限りのことをして行くのが、私の務めだと思っております。

                                     小関美穂