会葬御礼 |
父、奈須田敬の葬儀は8月1日、おおぜいの会葬者に見送られ、滞りなく執り行なうことができました。なにより父が敬愛してやまなかった自衛隊の方々が陸幕長はじめおおぜいで、しかも制服姿でご参列いただき、父もさぞ喜んだとことと思います。 じつは亡くなる前日の7月27日、行きたかった銀座の事務所に家族で車椅子で連れて行くことができました。そこで、田久保先生はじめ親しい方々と歓談することもでき、その日はご機嫌で父は帰宅しました。 92歳という高齢で、直前まで大好きな会社に出社し、最期は眠るように亡くなった父は、まさに「大往生」でした。 父と交流のある方なら、ご承知のように、父は天下国家ひと筋の人でした。学者、評論家の先生方、新聞・雑誌などジャーナリストの方々、そして何より自衛隊の方々を銀座一丁目にあるビルの8階の事務所に招いて談論風発し「天下国家」を論じることが生き甲斐でした。 昭和49年にはライフワークとなる月刊ミニコミ紙「ざっくばらん」を創刊し、30数年の長きにわたって続けました。自分で執筆し、編集し、発送までする、出版の原点のような活動でした。 以前から「日本の行く末が心配で、死んでなんかいられない」というのが父の口癖でした。「もしかしたら本当にオヤジは死なないんじゃないか」と思っていましたが、90を過ぎてからは、あまりそういうことを言うこともなくなりました。父の思いは、「ざっくばらん」の読者、そして交流のあった皆様の心のどこかに伝わっているのではないかと思います。もしそうであれば、父の人生はとても有意義なものだったと思います。 なお、8月2日付けの「産経新聞」に野口裕之氏が署名入りで「葬送」の記事を書いてくださいました。同じく2日発売の「週刊新潮」で、父のことが「墓碑銘」で紹介されています。どちらも心のこもった記事で、家族一同感謝しております。 |
訃 報 |
江畑謙介さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り致します。 江畑さんは去年から体調を崩されて、自宅で療養されていたことは承知していましたが、これほど病状が差し迫っていたとは思いませんでした。今年、千葉の海沿いの街に引っ越されて、環境の良い場所で療養されれば、少し時間がかかっても良くなると信じていたのに残念でなりません。 今年2月に電話で話したのが、結果として江畑さんとの最後の会話になりましたが、そのときは合間に咳き込まれて苦しそうでしたが、それでもこれからはまた本業の執筆活動に専念するつもりだと、明るく話してくれました。たとえば「こんな兵器じゃ兵士は戦えない」というテーマはどうか、江畑さんがおしゃるので、「それはいいですね。ぜひお願いします」と即答しました。つねに兵士の立場に立って兵器を解説する江畑さんならではの企画で、原稿の出来上がりを心待ちにしていたのに、もはやそれも叶いません。 多くの軍事評論家のなかにあって江畑さんはその能力の点で、トップクラスの人でした。今回の訃報に接して、ただただ驚くと同時に、あれだけの知識が失われてしまったことは、日本の損失であり、いまは喪失感で一杯です。あらためて江畑さんの冥福をお祈りしたいと思います。 平成21年10月13日 なすだ |
2007年4月7日(日本時間) 元グリンベレー軍曹の三島瑞穂さんが肝臓ガンのため、ロス・アンゼルスの病院でお亡くなりになりました-享年68歳- 1959年に米陸軍に入隊後、グリンベレー軍曹としてベトナム戦争に従軍 米軍退役後は、自衛隊で後進の指導にあたるなど、積極的に活動され、これからの活躍が期待されただけに大変残念でなりません。 御冥福を心よりお祈り申し上げます。 ---------------------------------------------- 拳銃射撃の第一人者で、小社からは90年代に2冊の本(品切)を出版したテッド新井氏(76歳)が2007年2月5日、パラグアイで強盗と格闘の末、2発の銃弾を頭部に受け、還らぬ人となりました。 ご冥福を心よりお祈り申し上げます 詳細はmichiota.exblog.jp |
■■■追悼■■■
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2007年4月7日、三島瑞穂軍曹が肝臓ガンで亡くなられた。享年68歳。入院した時点で末期ガンと分かり手遅れだったいう。それより少し前の2月5日、南米パラグアイの首都アスンシオンでテッド・新井さんが強盗と格闘の末、頭部に銃弾を受けて戦死された。享年76歳。 写真に見える季節はずれの雛人形は、3月に三島さんが帰国されてから家族皆でしまおう、という約束だったのですが、帰国直後から体調を崩されていたので片付けることができず、そのまま永眠されてしまったので、ご葬儀が終わって落ち着くまで飾っておくとの事でした。 三島さんが旅立ってから2週間が経ちましたが、今でも葬儀の事を思い出すと涙が出てきます。 |