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推薦の辞

「なんのために戦うか」を知る人間の強さ
─わが身を省みずに戦いに挑む精神に敬服─

荒谷 卓(陸上自衛隊特殊作戦群初代群長)

 この本をご覧いただきますと、稲川さんの戦いの感性といいますか、身体機能が、非常によくご承知いただけると思いますが、私からぜひ伝えたいのは稲川さんの戦いの能力というものが身体的なもののみにあらず、実はその背景には「なんのために戦うか」という、その精神面により多くの力があるということです。

  稲川さんの戦いの歴史の中において、日本民族のためにわが身を省みず戦いに挑むというこの精神と経験が、現在の稲川さんの身体機能なり、戦いの出会いというものを磨いてきたという、その事実をぜひ承知してこの本をご覧になっていただきたいと思います。

  我が事のために戦う者の戦いと、そうではなくて日本民族のために戦う、その一点のために鍛えてきた人間の戦いぶりの違いがどこにあるかを、どうぞ皆さんの感性で察していただくようお願いいたします。

 



目 次

推薦の辞
「なんのために戦うか」を知る人間の強さ(荒谷 卓) 2

稲川義貴ロングインタビュー
格闘家ではなく戦闘者を目指す(聞き手・葛城奈海) 6

PART1 エクササイズ 33
1-1 肩甲骨のほぐし 34
1-2 身体のほぐし 36
1-3 下半身のほぐし 38
1-4 歩法 40
1-5 体幹との協調(1) 42
1-6 体幹との協調(2) 44
1-7 肩甲骨の動き 46
1-8 線の外し 48
1-9 入り身(肘での入り) 50
1-10 突き 52

PART2 対徒手戦闘 55
2-1 順突き(肘での入り) 56
2-2 順突き(喉取り) 58
2-3 順突き(肘での当て身) 60
2-4 順突き(表への入り身) 62
2-5 順突きへのカウンター 64
2-6 フックへのカウンター 66

PART3 対ナイフ戦闘 69
3-1 諸手受け流し 70
3-2 短刀取り(ディザーム)1 72
3-2 短刀取り(ディザーム)2 73
3-3 面への突きに対処 74
3-4 胴への突きに対処 76
3-5 ハンマーグリップ(内から)に対処 78
3-6 ハンマーグリップ(外から)に対処 80

PART4 対掴み戦闘 83
4-1 ボディアーマーを掴まれたら(片手1) 84
4-2 ボディアーマーを掴まれたら(片手2) 86
4-3 ボディアーマーを掴まれたら(両手) 88
4-4 後ろから抑えられたら 90
4-4 後ろから抑えられたら(応用) 92
4-5 ライフルを掴まれる(1) 94
4-5 ライフルを掴まれる(応用1) 96
4-5 ハンドガンを掴まれる(応用2) 98
4-5 面取り 100
4-6 ライフルを掴まれる(2) 101
4-7 装備中のハンドガンを掴まれる(1) 102
4-8 装備中のハンドガンを掴まれる(2) 104

PART5 グラウンド戦闘 107
5-1 タックルの返し 108
5-3 三角絞め 110
5-4 十字固め 112
5-4 十字固め(応用・対ナイフ) 114
5-5 外側側副靭帯固め 116
5-6 内側側副靭帯固め 118
5-7 捨て身式十字固め 120
5-8 蟹挟み式十字固め 122
5-9 足首固め 124
5-10 回転式十字固め 126

 

稲川義貴ロングインタビュー
格闘家ではなく戦闘者を目指す
─侍の魂を持った零距離戦闘術「ゼロレンジ」─

(聞き手・葛城奈海)

葛城 稲川さんには、2年ほど前から、私がキャスターを務める日本文化チャンネル桜の『防人の道 今日の自衛隊』という番組に、しばしばゲストとして出演していただいています。それから、実は、ときどき武道の講習も受けさせていただいてます。こちらからリクエストして、初めて稲川さんのパンチをもらった衝撃は忘れられません。もちろん、まともに打たれたら身がもたないので、1割程度のパワーに抑えて打っていただいたのですが……。それでも、肩口を打たれたにもかかわらず、肉の塊が体を突き抜けていった感覚で、痛みを感じたのは、なぜか背中でした。いやはや。「なんだ、これは?」と、心と体のWショックでした。(笑)
  番組ではいつも含蓄あるお話をしていただいていますが、今日は、これまでお聞きできなかったことまで、じっくり伺ってみたいと思いますので、ご覚悟のほど。

稲川 どうぞお手やわらかに。

「稽古はずっと公園でした」

──どんな子供時代でしたか?
  幼稚園の頃、正座をせずにご飯を食べていたら、親父に包丁の横っ腹でほっぺたをべちっと引っぱたかれました。痛かった。ピタッと止めてくれたらしいんですけど、こわかったです。「ちゃんと切れないようにしたんだよ、義貴」って。(笑)
  親父が義肢装具屋をしていた影響か、私も物づくりが大好きでした。親父が義足作りに使っていた石膏で手形をとって学校に持っていったら、先生がびっくりして、学校に飾ってくれました。木刀を削り出したり、割りばしでゴム鉄砲を作ったり、鋸で木を切ってピストルの形にしたり……。工作用紙で的も自分で作って、それを撃っていました。1人遊びは苦にならないですね、むしろラクです。小刀、鋸、紙やすりなど道具の使い方は、親父が教えてくれましたが、「危ないから使うな」とかはいっさい言いませんでした。実際、工作でケガをしたことはないです。
  ケガの記憶の最初はブランコですね。校庭でブランコの立ちこぎをしていて、「どこまで行けるかな、一回転できるかな」と思ってどんどん漕いでいったら、鎖が引っかかって顔からばちっと落ちました。あれは、すごく痛かった。子供心に「俺、やばいかな」と思いましたね。

──学校では?
  「お笑い芸人になれ」って、友達や先生から言われていました。学芸会ではいつも主役だったんです。小学3年生のときに花咲かじいさんで「主役やれ」って言われて、目立つことが好きじゃなかったんで、俺、泣いたんですよ。もともと別の子が主役だったんですけど、その子の声が小さかったから、声が大きかった俺がやることになって。でも、無理して頑張ったら、その結果が良かった。小学生ながら、窮地に追い込まれて成功する喜びを味わいましたね。小学6年生のときには、人に見られることにも慣れて、アドリブにも強くなっていました。「今日は昨日よりお客さんがいっぱい入ってるなあ。緊張するけど、今日はがんばるよー」みたいなことを言って笑いをとって、「よくしゃべる浦島太郎だなあ」って有名になっちゃいました。
  でも、そのうち、嫌なことがあっても笑いをとらないといけないと思っている自分が嫌になってきたんですけど……。

──武道・武術・格闘技との出会いは?
  漫画「スラムダンク」の影響で中学ではバスケ部に入ったんですけど、全然できなくて、1年くらいでやめました。小学生の頃から、ブルース・リーやジャッキー・チェン、シルヴェスター・スタローンなど強い人に惹かれていました。武道・武術に憧れていたんですけど、バスケを辞めた頃から、実際にボクシング、キックボクシング、空手を始めました。といっても、ジムや道場に通うんじゃなくて、近くの公園でそれぞれ別の人から教わりました。
  中学1年生の終わりに大きな出会いがありました。公園で格闘技の練習をしているのを「すごいなあ」と思いながら見ていたら、3、4回通ううちに「やってみるか」と、その人が声をかけてくれました。それが水引師範です。それからは水引先生だけに師事するようになりました。ストリートファイトで強くなっていった人で、ハングリー精神を教わりました。
  習うのは週イチですけど、練習は毎日していました。近所の駐車場にサンドバッグを吊り下げたんですけど、もらいもののサンドバッグは穴だらけだったから、自分で縫ったり、捨ててある絨毯をビニールテープやガムテープでグルグル巻きにしたりして使っていました。軍手にボロ雑巾を詰めてグローブにしたり、木を拾ってきて巻藁も自分で作って、それを打って拳を鍛えたりしました。ぽんとグローブを買ってもらえるボンボンの格闘家は、ちょっと羨ましかった。真冬も、公園にビニールシートを敷いて、それを留めて、寝技をやっていました。寒かったけど、「強くなりたい」っていう情熱の方がまさっていたんですね。
  最近まで、稽古はずっと公園でした。公園でどこまで強くなれるかっていうハングリー精神ですかね。でも、実際、室内より外の方がいいですよ。雨が降ったり雪が降ったりしても、それが逆にいい稽古になりますから。
  中学2年生の終わりから中学3年生にかけては、その公園が地元の不良の溜まり場になってしまいました。そういう連中にも教え始めちゃったんです。彼らはワルじゃないんですけど、フラストレーションがたまってました。そんな連中が「稲川先輩」と慕ってくれたんです。俺はよく言えば、彼らを格闘技で更生したかったんですね。

──その頃から、プロになろうと?
  始めたころから、格闘技で身を立てるつもりでした。自分で言うのもなんですけど、強かったんです。水引先生にも「プロにしたい。絶対チャンピオンにしてやる」と言われ、『あしたのジョー』の現代版みたいな感じでした。(笑)
  親父とは仲はよかったけど、「格闘技で食っていく」って言うと、反対されました。「俺も食えなかったから」と。親父は神刀流を学んでいました。神刀流は詩吟に合わせて扇子と刀を持って舞う剣舞(剣武)と居合、抜刀なんですが、これは戦後、武道・武術を禁じられたときに、詩吟と舞いに隠して伝統を伝えた秘策です。家には刀が2〜3本と扇子と着物がありました。小学生の頃、刀を触らせてもらったことがありますが、剣舞に込められた意味を教わったのは中学生ぐらいです。その頃には、俺が使うと危ないと思ったのか、親父は刀を押し入れの奥に隠していましたね。
  親父から「食えなかった」と聞いても、「剣道じゃ、そりゃ無理だろ」って、俺は思ってました。剣道部の奴に竹刀で打たれても勝ってましたから……。実は当時、剣道と居合の違いもわかっていなかったんです。その頃、「K1」がはやっていて、出てみたいなって思ってました。格闘技と武道は違う、格闘技の方がかっこいいと思ってましたね。

──高校時代は?
  都内では「絶対に入っちゃいけないよ」と言われるほど荒れていた高校に通っていました。パーティ券とか回ってくるんです。本物じゃなくて「パー券」と呼ばれて、カツ上げの手段として使われるパーティ券。他校の人が頬をえぐられて、血だらけで廊下に倒れているのを見たこともあります。当時はチーマー全盛期で、恐ろしい先輩がいっぱいいましたね。生徒はナイフを持ち歩いている不良か、でなければ、究極の秋葉原系オタク君たち、どちらかに真っ二つに割れてましたが、俺は、両方と仲がよかったです。
  トレーニング三昧の毎日で、授業中でも3〜4キロの鉄アレイで左手を鍛えながら、右手でノートをとったりしていました。自転車のチューブを椅子にひっかけて上腕二等筋を鍛えたりもしてましたね。体が小さかったんで、筋肉を鍛えて大きくなりたかったんです。
  放課後は柔道部にお邪魔して、寝技を練習したりもしていました。柔道部に入ってたわけではないんですけど、主将ともめたことがあって、軽くスパーリングみたいなことをしたら、お互い認め合って、それから「勝手に来ていいよ」って言われて。その主将とは、今でも仲がいいです。
  高校2年のときに「修斗」を始めました。水引先生からあちこち紹介してもらって、30人くらいのところに行ったと思います。お金がなかったんで、タダか500円くらいでできるところ。オリンピックのレスリングのコーチや大学レスリング部のコーチ、ムエタイの選手など、印象に残っている人も多いです。
  格闘技漬けだった高校時代の終わりごろ、IMNというグループを設立しました。稲川、水引、それから兄弟子だった成田の頭文字をとって、IMN。
  高校は、無遅刻無欠席で卒業。ただし、一度「謹慎」というのがありました。オタクの子のゲームボーイを返さなかった奴に腹を立てて、ちょっとやりすぎてしまった。外で喧嘩は相当していました。若いころは、我ながら癇癪持ちでしたね。(笑)

侍の誇りが爆発した瞬間

──高校卒業後は?
  その頃、独立した親父から「一緒にやろう」と言われたので、卒業後は一緒に義足や装具(コルセットやサポーター)を作ることになりました。仕事の手伝いは、高2くらいからやってましたね。周りには大物右翼のボディーガードをやっているような右寄りの人が多く、自分もその影響を受けていましたが、それを親父に話すと、「かたよるな」と言われました。「日本が右と左に分かれたら、片方の考え方が死んじゃうじゃないか。みんな国を良くしようと思ってやっていることだから、白黒はっきりつけるべきじゃない」と。「親父さんは、右なの左なの?」と聞いたら、「自分では真ん中だと思っているけど、今の社会からしたら、右寄りの考え方って言われるだろうな」と言っていました。たぶん神道のことを右と言っていたんだと思います。その頃、天皇陛下の話もしていました。
  20歳の頃が、格闘家としての自分は絶頂期だったかもしれません。プロを相手にしても勝てたので、「いける」と思っていました。でも、水引先生から紹介された強面(こわもて)の用心棒の方に言われたんです。「夢を壊して申し訳ないけれど、強いだけじゃ食っていけないんだよ」って。裏の世界のことは薄々気づいていたので驚きはしませんでしたが、「本当の強さってなんだろう?」とは考えました。表の世界で強いボディガードになりたいとも思いましたし、裏の世界で活躍するのもかっこいいなとも思いました。でも「君じゃなれないよ。君の格闘技は正直だから」と言われ、悩みました。俺が若かったんで、周りもはっきり言わなかったんですけど、「君は確かに強い。だけど、それじゃ、軍隊格闘には通用しない」と言いたかったんだと思います。

──それで武者修行に出た?
  彼らが口々に「ムエタイは強い」と言うので、一度現地に行ってみて、それで通用しなかったら諦めようと思いました。現地でまだ戦っている人がいるので、武者修行に出た先の国の名前と詳しい地域は、ご想像にお任せします。(笑)
  現地から来た人は、「俺たちのところに来れば、強くなれるよ」って言うんです。それは、食べるか、死ぬか、ムエタイをするか、という意味でした。犯罪をして食っていくか、若いうちに病気で死ぬか、ムエタイでのし上がって日本に行くか。つまり、「貧困だから俺たちは強い」という意味だったらしいんですが、俺は、そのジムに行けば強くなれるのかなあと思っていました。でも、行ってみたら「あー、違うな」って感じでした。
  3日目ぐらいに国境の方に行って、一緒に訓練したら、ムエタイじゃなかったんです。軍事訓練所とも違って、マシェットとか鎌とか民族的な武器を持って戦っていました。いわゆる武器ではないもの、たとえば、棒のような日常的なものも使っていました。ムエタイで訪日経験がある片言の日本語を話す通訳がいて、「傭兵として来たの?」と聞くから、「そうじゃなくて、ムエタイをしに来た」と言ったら、「ここはムエタイをやるところじゃないよ」と。「貧しさゆえに、テレビに出てムエタイをやっていたような選手は、辞めるとここに来て危ない橋を渡る。もしくは、母親が生まれたばかりの子供の脚を切断して物乞いになる。でも男はそれができない、戦って死ぬのが本望だ」。そんな会話に、自分の知識と経験ではとても太刀打ちできないと打ちのめされました。平和な日本でのほほんと生きてきたことを痛感させられて、一度日本に戻って、もっとちゃんと研究しなければ、同じ立場で会話ができないと思いました。彼らは、口ぐちに「武士、武士」っていうんです。「武士」と刺青を入れている奴もいる。いったいどういうことなんだろう、と思いましたね。

──日本に戻って、何をしたんですか?
  まず、武道雑誌を読みました。でも、そこに真実はなかった。「いかに強いか」をアピールする、単なる武道の広告雑誌でした。それまで、歴史の勉強もろくにしていなかったので、親父に聞いたり、本屋に行って調べたりしました。そのとき親父が勧めてくれたのが、宮本武蔵の『五輪書』と、幕末三舟と呼ばれる高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟、それぞれの「武士道」でした。

──先人たちの書が教えてくれたことは?
  一度読んだだけでは、まったく意味がわからなかった。(笑)
『五輪書』は勝手に解釈して、格闘技に照らし合わせて、ちょこっとやってみました。「先(せん)を取れ」とか。自分なりに応用してみましたが、合っているかどうかは、わかりませんでした。
  ただ、侍は自分のことを侍だと言わないんだなということが、印象に残りました。侍は侍であることが、当たり前。俺が武者修行に出た先の人は戦闘員であることが、当たり前。だから、わざわざ「侍の生き方」などとは言わない。ただ「生き方」。日本人が日本人なのは当たり前のように、侍としての生き方が当たり前の時代だったのかなと思いました。現地にはまた訪ねるつもりでしたから、それまでの間に、格闘技の中に武道的な精神を入れようと思いましたね。

──二度目の武者修行は?
  3カ月後に訪ねたとき、「武士、武士」と言っていた彼らに、「いちおう勉強したよ」って言ったら、通訳に、「日本には侍がいるだろう。その技をちょっと見せてくれ」と言われました。
  彼らは、戦中・戦後、日本軍など日本人に救われたことがある。そのとき助けてくれた日本人に「なんで軍刀を持っているの?」と聞くと、「それは武士が刀を使っていたから」と答えが返ってくる。そうやって、武士や日本陸軍が「日本人はすごい」というベースを作ってくれていたから、俺みたいな若造が出て行っても、「お前もすごいんだろう」と思ってるんです。
  あと、侍って言葉には燃えましたね。ムエタイから見た日本武術をそいつがしゃべってました。「ばさり、ばさり」って、たぶん相打ちのことを言っていたと思います。「俺たちは、相打ちはしない」だから「相打ちをする勇気のある日本人は、すごい。一対一じゃ、ぜったい勝てない」と彼らは言ってました。
  それで自分に何ができるんだろうと考えて、マシェットで戦ってみたんです。心拍数はすごく高まってましたけど、やること自体は、素手がナイフになっただけです。現地に伝わるナイフ術を使って斬りかかってくる相手とバシバシッとやって、相手の首にピタッと刃とつけたところで止めたら、「お前は強くなったねー。前とは全然違うことをやってるね」と言われました。
  俺としても、侍の誇りが爆発した瞬間だったんですよね。孤独になってみてわかりました、「俺は日本人だ」と。以来、訓練をしていても、稽古をしていても、先人への尊敬の念は忘れません。肉体が滅んでも、魂だけは思い続けたいです。

──技術的には何が変わったんですか?
  前に入ることを恐れなくなりました。格闘技を長くやっていくと、下がりたくなるんですよ。格闘技には、前方斜め45度に入る技術ってないんです。あと、リングという限られたスペースで戦うせいで、回るのが多い。ナイフでも回っていくようにしてしまう。もっと親父のやっていた抜刀をしっかりやっていれば、なんてこともなかったんでしょうけれど。このときは、相手がフェイントをかけてきたのがわかって、わざとそれに乗りました。体を餌にしたんです。左腕は斬られたけれど、そこは捨てて、中に入っていった。そこが勝負でした。
  あと、このとき、フェイントと「本気の一撃」の違いを見破れるようになった気がします。彼らには「必殺」が発想としてないんです。足の運びや気迫で、本気かどうかがわかる。開眼した瞬間だったかもしれません。
  そこに至るまでに『五輪書』をすごく読んでいました。格闘家から学んだ剣術はこういうことかな、とか思いながら。相手が複数でも攻撃してくる1人ひとりにとらわれずに、とにかく動き続ける。それと、中心をとる。泥舟の槍にも、「斬りかかってくるものにとらわれずに動き続ける」とあって、みんな同じことを言ってるなと。わかりづらい本だったけど、言いたいことはなんとなくわかりました。無理に解釈したところもあるかもしれないですけど。(笑)

●続きは本書をお読みください。

稲川義貴(いながわ・よしたか)
1978年、東京生まれ。幼少のころより父親から居合「神刀流」を学ぶ。中学生のときに水引師範に師事。高校2年に「修斗」格闘技を始める。高校卒業後、「ムエタイ」を学ぶため2度にわたり東南アジアに武者修行に出かける。帰国後、日本古来の「武士道」について研究するかたわら、国内外で戦闘技術を学ぶ。その後、米軍特殊部隊の格闘技教官を務め、2005年「ゼロレンジ(零距離戦闘術)スクール」を正式に設立。以来、自衛隊を中心に日本人の魂を持った近接戦闘・格闘術の普及に努める。警察庁警察大学校術科逮捕術講師、明治神宮武道場「至誠館」講師。