立ち読み   戻る  

監訳者のことば

 今回、翻訳出版された『米陸軍サバイバル全書』(SURVIVAL FM21-76)は、アメリカ陸軍だけではなく海軍、空軍、海兵隊、沿岸警備隊をはじめ友好国の軍隊や各省庁・団体(パーク・レンジャー、運輸省、FBIを含む司法省、ボーイスカウト、ガールスカウト)、大企業などが参考にしているアウトドア教本である。
 私が最初にこの教本に接したのは入隊当時の1959年で、支給されたのは、1957年10月に発行されたばかりの新しいものであった。以後、本書は、時代背景を反映させながら1969年3月、1986年3月と改訂が続けられ、今回全訳された「サバイバル」は1992年6月に出版された最新版である。

 歩兵の最良の友である小銃がM‐1ガーランドからM‐14、M‐16、そしてM‐4へと進化し、通信機が軽量化され、GPS(全地球測位システム)や赤外線暗視装置を装備した新世代の兵士が登場する時代になっても、軍人の生命保護と任務遂行をもたらすものが、SURVIVAL(サバイバル)の8文字であることに変わりはない。
 指摘するまでもないことだが、サバイバル・テクニックを必要とするのは、通常の部隊運営要領を逸脱した事態においてである。たとえば、前線にあって、補充兵が送られて来ず、弾薬が不足し、糧食が補充されないなどの状況下に、そのテクニックが必要とされる。部隊単位で見れば、まさに指揮系統の真価が問われるときである。軟弱な部隊長の下では弱卒しか育たず部隊のサバイバルはおぼつかないが、部隊長が優秀な下士官を信頼して行動をとる部隊であれば、どのような事態に陥ってもサバイバルできる。
 また、兵士レベルで言えば、個人の力量が試されるときである。必要なものはSURVIVALの8文字の教え(本文13ページ参照)を日頃から実践しておくこと。柔軟な思考と、状況に応じた臨機応変の行動をとれる決断力、非常識な行為を慎むということである。平時にあっても自分自身を8文字の中に当てはめながら行動する。サバイバルとは力の限り生き抜くということと同義である。

 私は21歳でアメリカ陸軍に入隊し、以来21年間、主に陸軍特殊部隊員として勤務した。ベトナム戦争には最初から最後まで関わった。その体験から得たサバイバル・テクニックを私なりにまとめてみよう。
 まず「耳学問を大事にする」 戦場体験のあるベテラン兵の話は金では買えない貴重なものである。体験者の話はマニュアルには載っていない戦場の分析でありノウハウである。そんな彼らと一緒に飲んだり、飯を食いながら、あるいは自慢話を進んで聞きながら自分のものにするということである。戦場体験を話したがらない先輩にはわざと的外れの意見をぶつけると、意外に話にのってくるものである。
「猪武者とはタコツボを一緒にしない」 兵隊の中には口癖のように「戦場に出たら絶対に手柄を立てて勲章をもらうんだ」と息巻く者がいるが、このような兵隊と同じタコツボに入る羽目になった場合は、とくに気をつけなければいけない。勲章はもらおうと思ってもらえるものではなく、戦場において一兵士としての行動が認められて受勲につながるものである。はじめから勲章を目指した兵士が生還するのは稀有であり、多くは戦死後の受勲となっている。この時、戦友が彼の愚行の巻き添えになることもしばしばあるので、注意しろという意味である。
「自信をもつ」 戦場において、あるいはサバイバル・テクニックを用いる環境に置かれた将兵に恐怖心が湧くのは自然のことであり、恥ずべきものではない。肝心なのは、恐怖心に駆られて任務をおろそかにするか、恐怖を感じながらも任務を遂行できるかどうかである。どのような状況にあっても「自分は世界一優秀な教官の指導の下で、世界一過酷な訓練を受け、世界一優秀な装備をもっている」ということを忘れない。どの部隊よりも、どの隊員よりも長く苦しい訓練を強いられてきた自分は、どんな環境でも負けないという信念をもつべきである。
「救助システムを信頼する」 ベトナム戦争以後、アメリカ軍は私から見れば執拗と思えるほどの執念で兵員救出活動に予算と人員を割いて訓練を続けている。91年の湾岸戦争ではヘリコプター部隊がグリーンベレーAチームを敵地から救出した。99年ボスニアでは撃墜されたF‐16戦闘機のパイロットを敵の追撃部隊に先立ってレスキューチームが救出。2001年のアフガニスタン戦争でも、山中に不時着した特殊部隊員とヘリコプターの乗員全員を事故後、数時間で救出したり、タリバン兵に捕らわれていたジャーナリストを特殊部隊のチームが解放したりした。また海上に不時着したB‐1爆撃機の全乗員が事故後数時間で救出されるなど、天候や昼夜を問わない救出部隊の活躍には目覚ましいものがある。前線の将兵のみならず後方あるいは本国の将兵にとっても「いつ、いかなる状況にも救出部隊が自分たちを助けてくれるんだ」という信頼以上に兵隊の志気をあげるものはない。
 ベトナム戦争時代に特殊部隊の選抜チームがアメリカ軍の捕虜を収容している北ベトナムのソンタイ捕虜収容所を急襲して捕虜奪還を試みたことがあった。実行数日前に捕虜は他の場所へ移されていたので作戦は不成功に終わったが、この行動が捕虜たちに与えた心理的影響は大きく「生きる望みを強くした」と生還者は語っている。同時に、「それまでアメリカ軍の行動力を軽視していた我々にとって、アメリカ軍が自分たちの寝床に侵入してきたことに大きなショックを受けた」と、数年前に出会った旧北ベトナム軍兵士が自ら語るのを聞いたが、偽らざる心境であったろう。

 サバイバル8文字中7番目の文字であるAは、本文にあるように「アクト・ライク・ネイティーブス」を指すもので、「現地人と同じような行動をする」あるいは「現地生活に溶け込む」を意味する教えだが、アフガニスタンの戦場ではこの教訓を特殊部隊が十二分に活かして多くの作戦を成功させた。
 空爆から地上戦に転じたアフガニスタンで、米特殊部隊は反タリバン勢力の現地軍に合流し、彼らのスケジュールで行動し、現地人と同じように馬にまたがって移動した。現地人とチームを組んだスナイパー(狙撃手)隊員は、狙撃位置についた時からサソリに刺されて苦労したが、サソリに刺されながらびくともしない現地人を見て我慢して待機した。その彼の我慢が現地人に大きな感動を与えて、米特殊部隊と現地軍の相互信頼がさらに深まっていったという。表面には出ない話だが、サバイバルの大事な一面である。

 我々がベトナム戦争時代にジャングルハットの裏にオレンジ色の布を縫い込んで対空識別パネルにしたり、救出用ハシゴ(地上兵をへリコプターに引き上げるために開発された長さ7メートルほどのハシゴ)やマクガイアリグ(救助用ヘリに引き上げられる際、地上からの攻撃に反撃できるよう、手足の自由を確保した特殊な救出用ハーネスで、マクガイア軍曹らが考案)を考案して作成したのもサバイバルのためだった。これらの装備が現在では軍公認の装備となっているのも、サバイバルに不可欠な想像力の賜物であると自負している。
 P‐51ムスタング戦闘機は、第二次世界大戦の流れを変えたといわれるほどの名戦闘機だが、合衆国内で今なお飛行可能なムスタング63機のうち62機が1999年にフロリダ州の飛行場に勢揃いして、じかに機の内外を見学する機会に恵まれた。エンジンも機体も昔のままだが、当時になかった装備が全機に付け加えられていた。それはGPS(全地球測位システム)装置である。
 なぜGPS装置を持ち出したかと言うと、アメリカ全軍でGPS万能説が浸透し始めているからであり、憂慮すべきことだからである。GPSもほかのハイテク装備も作戦遂行に際して兵隊を補佐するものである。兵隊がGPSに頼りすぎる事態は避けなければならない。GPSに不具合が生じた途端、部隊や個々の隊員の戦闘能力がゼロになってしまう危険が、GPSのようなハイテク装備にはあるからだ。
 捕虜になった時に敵の収容所から脱出する時点でGPSを携帯して逃げることなどは考えられない。出撃するに際して、戦場周辺の地形、川の流れる方向などを頭に叩き込んでおけばGPSやコンパスがなくても自軍に帰還することができる。
 ハイテク装備も役に立つが、本書「サバイバル」に書かれてあるように、太陽や星座から方角を読みとる知識や、想像力を養うこともまた、それ以上に兵士には重要なのである。

 今回のアフガン戦争で、米軍最初の犠牲者となったマイケル・スパン氏が死の直前にマザリシャリフの仮設捕虜収容所で捕虜を尋問している写真を見て直感したことは、彼がサバイバル8文字のS(状況判断)とR(立場、現在地)の教えを怠ったのではないかということである。写真には、スパン氏が捕虜を収容所の中央で尋問している様子が写っているが、戦場で捕虜を尋問するときは、自軍が完全にコントロールしている場所で、目隠しをして隔離して尋問するということは、第二次世界大戦以来、合衆国軍隊で教えられてきた捕虜取扱いの鉄則である。魔が差したのだろうが、彼はこの鉄則を守り切れなかった結果が不祥事につながったのではないだろうか。敵地にあって安心は禁物である。

 ベトナム戦争中、私の後輩隊員が現地人と作戦の打ち合わせをして部隊に帰る途中で10歳の少年に待ち伏せされて射殺された事件があった。サバイバルの鉄則とも言うべきE&E(戦場離脱と逃亡)ルートをセットアップしなかったからである。E&Eには、部隊や個人レベルでの、戦闘行為中から直後にかけての簡易脱出ルート、そして6ヵ月後、1年後のルート、さらには極秘事項として扱われる計画的ルートまで範囲や期間はさまざまである。
 1986年、特殊部隊では従来のE&E教育を増強したSERE(セア)コースが開設された。これは、部隊からはぐれた隊員が、敵の制圧下から友軍基地への帰還、敵の搾取に対する抵抗、逃亡計画を立案して実行する意思などを訓練するコースだが、最重要事項は虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けた隊員が胸を張って友軍陣地へ凱旋(がいせん)できる環境作りである。
 SEREコースとはサバイバル(Survival)、戦場離脱(Evasion)、レジスタンス(Resistance)、エスケープ(Escape)のイニシャアルを集めた呼び名で、ベトナム戦争中にベトコンにつかまって5年間の捕虜生活を送った後、自力で収容所を脱出して自軍に戻ったニック・ロー大佐の尽力で開設されたものである。アメリカ陸軍が採用している現在のサバイバル技術はすべて、このロー大佐を中心にまとめられたもので、このSEREコースはロー大佐の捕虜生活中の体験をふんだんに取り入れた真に迫ったカリキュラムが組まれている。
 コースはA、B、Cに分けられているが、Aコースは任官したての若い士官を対象にしたもので、ほかの軍事教練に織り込まれて行われる。Bコースは敵の捕虜になる可能性のある戦場近接で行動する士官および下士官を対象に、36の課目で作成されている。Cコースは敵地で行動をする特殊部隊員、特殊作戦飛行隊員、レンジャー部隊員のほか、国防省の要員を対象にした訓練である。
 このSEREコースが正式に開設されるまでは、各特殊部隊グループで同様のコースを設けていたものだが、現在は、ノースカロライナ州フォートブラッグ近郊にあるキャンプ・マッコールのニック・ロー・サバイバル・スクールで集中的に訓練されている。
 このニック・ロー元大佐の開設したサバイバル・スクールこそ、孤立した時や捕虜となった場合に、味方陣地への帰還を可能にする判断力と忍耐力を養うアメリカ陸軍最高の場所である。
三島瑞穂


目次

監訳者のことば
第1章 はじめに
サバイバル行動  13
サバイバルのパターン  16
第2章 サバイバルの心理学 17
ストレスを直視する  17
サバイバル時の心的反応  20
サバイバルの心構え  23
第3章 サバイバル・プランニング とサバイバル・キット 25
事前想定計画の重要性  26
サバイバル・キット  26
第4章 基本的なサバイバル医療 28
健康維持に必要なもの  28
緊急医療  33
救命手順  33
骨と関節の怪我  39
咬み傷と刺し傷  43
さまざまな傷  47
環境障害  50
薬 草  52
第5章 シェルターを作る 52
シェルター用地の選び方  53
シェルターの種類  53
第6章 飲料水を確保する 69
水が得られるところ  69
蒸留装置の作り方  74
水の浄化方法  78
水の濾過方法  78
第7章 火を使いこなす 79
火の基本原則  80
場所の選び方と準備  80
焚き火の材料の選び方  82
焚き火の組み方  82
火のつけ方  84
第8章 食料を調達する  88
食物としての動物  88
ワナと仕掛け  95
小動物用ワナ  108
釣 具  109
獲物の調理と保存の方法  116
第9章 植物のサバイバル利用法 121
植物の可食性  121
薬用植物  129
第10章 有毒植物から身を守る 132
どんな毒があるか  132
植物の知識をもつ  132
有毒植物を避ける法  133
かぶれとただれ  133
毒物のサイン  134
第11章 危険な動物を避ける 135
毒虫と毒グモ  135
ヒ ル  138
コウモリ  138
毒ヘビ  138
危険なトカゲ  140
川の危険な生物  140
湾内と河口の危険な生物  141
海水域の危険な生物  141
第12章 武器・道具・装備を確保する 145
棍 棒  145
刃 物  147
その他の役に立つ武器  150
縄や紐を手に入れる  152
リュックサックの作り方  153
衣服と断熱材  154
調理と食事用具を作る  155
第13章 砂漠でのサバイバル 157
地 形  157
環境条件を知る  159
水の重要性  162
熱障害とその対処法  164
熱障害の予防法  164
砂漠での危険  165
第14章 熱帯でのサバイバル 166
熱帯の気候  166
密林の種類  167
密林を移動する  169
移動踏破の秘訣  170
直ちに考えるべきこと  170
飲用水を入手する  170
食料を確保する  172
有毒植物  172
第15章 寒冷地でのサバイバル 173
寒冷地とその位置  173
風冷効果に注意する  174
寒冷地サバイバルの基本  174
衛生に注意する  177
健康上の危険  177
寒冷障害の対処法  178
シェルターを作る  182
焚き火を作る  185
飲料水を確保する  188
食料を手に入れる  189
北極の食用植物  191
寒冷地帯での移動法  191
天候の変化に注意する  192
第16章 海上でのサバイバル 194
外海での遭難から脱出  194
渚でのサバイバル  221
第17章 渡河技術をマスターする 224
大小の河川を渡る  224
急流の渡り方  225
筏を作る  228
さまざまな浮具  231
その他の水系障害物  232
水性植物による障害  233
第18章 野外で方位を確認する 234
太陽と影を利用する方法  234
月を利用する方法  236
星を利用する方法  237
応急型方位磁針の作り方  239
その他の方位判定法  239
第19章 救助信号を送る 240
各種の信号技術を学ぶ  240
信号手段  241
コード標識と合図  248
航空機誘導手順  248
第20章 非友好地域でのサバイバル 252
計画段階  252
帰還遂行  254
友軍支配地への帰還  258
第21章 偽装技術を学ぶ 260
個人偽装のテクニック  260
静粛移動法  263
第22章 現地住民と接触する 265
現地住民との接触法  265
サバイバーの作法  266
政治的信義の変化  267
第23章 核・生物化学兵器から身を守る 268
核兵器への対処法  268
生物兵器への対処法  280
化学兵器への対処法  284

付録A サバイバル・キット  287
付録B 可食性植物と薬用植物  289
付録C 有毒植物  345
付録D 危険な虫・クモ・サソリ・ダニ  354
付録E 危険なヘビと爬虫類  359
付録F 危険な魚と軟体動物  388
付録G 雲による観天望気  394
付録H 事前想定対処計画の書式  397

訳者あとがき  403


訳者あとがき

 私は二〇才の誕生日をスカンジナビア半島北部のラップランドで迎えた。零下五〇度Cの雪原のなか、三五〇〇頭のトナカイを世話しながら、ラップ族の仕事仲間三人が祝いの言葉を述べてくれた。ばらばらに散っているトナカイを追い集めて群れを作り、それを新たな餌場に誘導しながら夏の牧地と冬の牧地を移動する。そして数日に一回は食用にトナカイ一頭を捕らえて殺し、皮をはぎ、食べる。そしてまたトナカイを追う。そんな仕事の毎日だった。当時、多発する遭難事故のため、ネパール政府がヒマラヤ登山禁止を打ち出していた。かわりに私は北極点到達を目指し、植村直己氏、日本大学山岳部と競い合っていた。植村氏はグリーンランド、日大隊はカナダ、そして私はラップランドを訓練地に選び、私と植村氏は単独到達を狙っていた。一九六七年のことである。
 しかし現地の人びとと暮らすうち、私は「自然」そのものより、自然に密着した「人びとの暮らし」に興味をもつようになっていた。そこでラップランドから帰って二年後、日本に近い東南アジアをフィールドに選び、タイ北部の山岳地帯に出かけた。そこからミャンマー東北部、ラオス北西部、中国南部にかけては、山を焼いて畑を作り、土壌の栄養が乏しくなると新たな畑を求めて山々を移動する人たちが住んでいる。
 私はそんな焼畑農耕民のひとつヤオ族の村に住みついた。山焼きを手伝い、ケシ栽培を手伝い、収穫を手伝った。山仕事を通じて知り合った人たちのなかには、ミャンマー政府などに対して武装闘争をする民族解放戦線のゲリラ兵士たちやアヘン・ヘロインの仲買人たちがいた。また、中国共産党軍との内戦に破れ雲南省から南下避難してきてそのままタイに住みつき、ラオスや当時の南ベトナムに傭兵として出かける旧国民党軍の人たち、彼らとの合同秘密作戦の連絡に訪れる米国中央情報局や米国陸軍特殊部隊の関係者、さらにはラオスやミャンマーから避難してくる山地民の人たちもいた。南北ベトナムとその周辺国を巻き込んだインドシナ戦争の戦火は、いまだ激しく燃えさかっていた。世界の辺境でありながら国際政治の影響を強く受ける地域。それが、私が世話になっていた人たちの生活するところだった。いつしか「政治と人間」という一項が、私が知りたいことに加わっていた。
 日本とそんな現地を往復する中、仕事先でローリーと知り合ったのは一九七〇年代中頃のことだった。ローリーはカナダ・ユーコン市の出身で、不自由な片目に常にアイパッチをはめていた。知り合ってすぐ、目を負傷した理由を聞いてみた。幼いときにツララを手に遊んでいたらそれが突き刺さったという。大怪我をしたのに自然の中で遊んだ子供の頃を懐かしく語る話し方が楽しそうで、ユーコン川の氷がきしむ音、春先に乱氷が川面を流れ下る音など、彼の話はユーコンの冬の美しさを十分に感じさせた。私もラップランドの冬を思い出し、真の太陽を中心にして虚の太陽が四つ囲み、さらにその四つの太陽の周囲にもっと小さな虚の太陽が見える幻日現象が現れる日の寒さのこと、窪地に白くガス状にかたまっているダイアモンド・ダストの真っ只中に入ったときの美しさ、凍傷が溶けるときの痛さと治すときの失敗などを語った。私たちはすぐに親しくなった。
 彼との付き合いの中で、彼がチャールズ・アレン・K・イネステイラー氏の子息であるのを知って驚いた。イネステイラー氏は単独で数千平方マイルの荒野を数カ月にわたってパトロールするカナダ王立北西騎馬警察に勤務し、さらにカナダ空軍パイロットを勤めた後、米国の極地探検家として有名なバード提督の副官として、南極探検に参加した極地探検のエキスパートである。しかし彼を有名にしたのは、第二次大戦中に米軍初のサバイバル学校の教官をつとめ、戦後は本書の原型となった『サバイバル・マニュアル』の編集執筆に参加し、さらに英陸軍特殊部隊SASなども指導したサバイバル技術の第一人者としてである。世界各地の人びとの生活技術が科学の目で整理された、まさに私が若い頃にバイブルにしていた本の中心的著者が彼の父君だったのである。
 私はイネステイラー氏の了解をとり、サバイバル・マニュアルを翻訳し、一九八二年に『アメリカ陸軍サバイバル・マニュアル』と題して、朝日ソノラマから出版した。幸運にも読者には好評をもって迎えられ、翌年には日本国内向けに『サバイバル・テキスト』を書き下ろし、一九九二年には新版を翻訳した『サバイバル・ノート』を出版した。一冊目はバック・パッキングという言葉が日本国内ではやり始めた頃で、その「まえがき」には「大自然の生態系の中で、人間が一個の動物としての行動を要求されるサバイバル技術とは、動物としての人間の特性、創意工夫という知恵を発揮することにある。創意工夫とは科学である」と書いた。二冊目の「まえがき」には「人間は牙や鋭い爪のかわりに、他の動物にはない最強の武器を備えている。それが知恵で、サバイバル・トレーニングで知恵を養うには科学書を読むことをすすめる」と書いた。「アウトドア」という言葉が流行り始め、キャンプ専門書には自動車でも運びきれないほどの用具が紹介される時代だった。
 そして十年後、シリーズを完結させるつもりで三冊目の「まえがき」を書いた。そこには「サバイバル技術の基本は、自分を含めて人間を特別視せず、動物としてのヒトの限界を知ることにある。限界を知ればこそ、知らなかった限界点までの能力を引き出せるからだ。とどのつまり、サバイバル技術とは生を大切に考える技術である」といった趣旨を書いた。このときすでに湾岸戦争が勃発していたが、圧搾空気でプラスチック弾を撃ち合う遊びが「サバイバル・ゲーム」と呼ばれていた。「サバイバル」という言葉を日本に紹介したのは自分だという自負を担っていた私には苦々しいネーミングで、そんな想いがこのシリーズはもう終わりにしようと決意させていた。
 そんな私が再び新版を訳出したのには、並木書房出版部の強い勧めと、あるNGO(非政府組織)関係者の「このシリーズをNGO活動の教科書に使っている」という一言があったからだった。こんな嬉しい言葉はなかった。私自身、若い頃は本書のテクニックを武器に、世界各地でさまざまな活動をしたし、今でもそれを有効に使っている。正直にいえば、イネステイラー氏との出会いで第一冊目を出版しようと思い立った理由の一つは、「たった一人の戦争」を起こそうと考える人がいるなら、本書の技術が絶対に役立つと考えたからである。一九八二年当時、NGOという表現はまだ日本では使用されておらず、ボランティアという言葉も十分には理解されていなかった。NGOという表現が新聞に登場したのは一九九二年からで、当時の私は今日の「NGO活動」を「たった一人のゲリラ戦」と言い換えていた。本シリーズの第一冊を出版してから二十年。本書にはそんな歴史と想いが込められている。したがって、サバイバル・ゲームをしたいのなら、遊びではなく、「たった一人のゲリラ戦」に挑んで欲しいと願う。その方が「生を大切にする」本書の趣旨にもっともかなうと考えるからだ。
 活動の場は海外だけではない。日本国内もまた活動の場になりえる。私自身、ゴールデン・トライアングルで麻薬王の軍隊と呼ばれ、不法就労で滞在しているクンサー軍元兵士たちの世話をしているし、タリバーン前の政権であるアフガン・イスラム共和国在日大使館の顧問をつとめていた。それは、NGO活動で少しでも政治をチェックできれば、という考えからだ。NGO活動の場は、日本国内でも幅広く存在するのである。
 そう考えると、現役兵士としてベトナム戦に従軍していた三島瑞穂氏が本書監修の大役を引き受けてくれたのも、何かの因縁かもしれない。ラオスをはさみ、彼は米軍兵士として、私は避難民を助けゲリラ基地を訪れる客として、若き日に本書の知識を共有しつつ、それぞれの立場から同時代を生きて、次の世代のためにふたたび本書に戻ってきたのだから。
 本書の技術をどう生かすかは、あなた次第である。
鄭 仁和


SURVIVAL FM21-76
JUNE 1992
HEADQUARTERAS, DEPARTMENT OF THE ARMY

三島瑞穂(Mizuho Mishima Bobroskie)
元アメリカ陸軍軍曹で特殊部隊グリンベレー在隊21年のキャリアをもつ。1959年、米陸軍に志願入隊。60〜72年、ベトナム在第5特殊部隊グループ、沖縄第1特殊部隊グループおよびMAC/SOGに在隊し、長距離偵察、対ゲリラ戦など、ベトナム戦争の全期間に従事。特殊部隊情報・作戦主任、潜水チーム隊長をへて、80年退役。現在、危機管理コンサルタントとして活躍する一方、各軍事雑誌に記事を執筆。著訳書に『グリンベレーD446』『ヴェトナム戦争米軍軍装ガイド』『第2次大戦米軍軍装ガイド』(いずれも並木書房)、『有事に備える』(かや書房)などがある。ロサンゼルス在住。

鄭 仁和(てい・じんわ)
1948年東京生まれ。上智大学卒業。文筆業。日本シーサンパンナ文化協会会長、在日シャン人文化友好協会顧問。著書に『幻のアヘン軍団』(朝日ソノラマ)、『いつの日か海峡を越えて』(文芸春秋)、『遊牧』(筑摩書房)ほか。サバイバル・シリーズの編訳書に『アメリカ陸軍サバイバル・マニュアル』『最新版サバイバル・ノート』、国内用に書き下ろした『アメリカ陸軍サバイバル・テキスト』(いずれも朝日ソノラマ)などがある。