監訳者のことば
今回、翻訳出版された『米陸軍サバイバル全書』(SURVIVAL FM21-76)は、アメリカ陸軍だけではなく海軍、空軍、海兵隊、沿岸警備隊をはじめ友好国の軍隊や各省庁・団体(パーク・レンジャー、運輸省、FBIを含む司法省、ボーイスカウト、ガールスカウト)、大企業などが参考にしているアウトドア教本である。
私が最初にこの教本に接したのは入隊当時の1959年で、支給されたのは、1957年10月に発行されたばかりの新しいものであった。以後、本書は、時代背景を反映させながら1969年3月、1986年3月と改訂が続けられ、今回全訳された「サバイバル」は1992年6月に出版された最新版である。
歩兵の最良の友である小銃がM‐1ガーランドからM‐14、M‐16、そしてM‐4へと進化し、通信機が軽量化され、GPS(全地球測位システム)や赤外線暗視装置を装備した新世代の兵士が登場する時代になっても、軍人の生命保護と任務遂行をもたらすものが、SURVIVAL(サバイバル)の8文字であることに変わりはない。
指摘するまでもないことだが、サバイバル・テクニックを必要とするのは、通常の部隊運営要領を逸脱した事態においてである。たとえば、前線にあって、補充兵が送られて来ず、弾薬が不足し、糧食が補充されないなどの状況下に、そのテクニックが必要とされる。部隊単位で見れば、まさに指揮系統の真価が問われるときである。軟弱な部隊長の下では弱卒しか育たず部隊のサバイバルはおぼつかないが、部隊長が優秀な下士官を信頼して行動をとる部隊であれば、どのような事態に陥ってもサバイバルできる。
また、兵士レベルで言えば、個人の力量が試されるときである。必要なものはSURVIVALの8文字の教え(本文13ページ参照)を日頃から実践しておくこと。柔軟な思考と、状況に応じた臨機応変の行動をとれる決断力、非常識な行為を慎むということである。平時にあっても自分自身を8文字の中に当てはめながら行動する。サバイバルとは力の限り生き抜くということと同義である。
私は21歳でアメリカ陸軍に入隊し、以来21年間、主に陸軍特殊部隊員として勤務した。ベトナム戦争には最初から最後まで関わった。その体験から得たサバイバル・テクニックを私なりにまとめてみよう。
まず「耳学問を大事にする」 戦場体験のあるベテラン兵の話は金では買えない貴重なものである。体験者の話はマニュアルには載っていない戦場の分析でありノウハウである。そんな彼らと一緒に飲んだり、飯を食いながら、あるいは自慢話を進んで聞きながら自分のものにするということである。戦場体験を話したがらない先輩にはわざと的外れの意見をぶつけると、意外に話にのってくるものである。
「猪武者とはタコツボを一緒にしない」 兵隊の中には口癖のように「戦場に出たら絶対に手柄を立てて勲章をもらうんだ」と息巻く者がいるが、このような兵隊と同じタコツボに入る羽目になった場合は、とくに気をつけなければいけない。勲章はもらおうと思ってもらえるものではなく、戦場において一兵士としての行動が認められて受勲につながるものである。はじめから勲章を目指した兵士が生還するのは稀有であり、多くは戦死後の受勲となっている。この時、戦友が彼の愚行の巻き添えになることもしばしばあるので、注意しろという意味である。
「自信をもつ」 戦場において、あるいはサバイバル・テクニックを用いる環境に置かれた将兵に恐怖心が湧くのは自然のことであり、恥ずべきものではない。肝心なのは、恐怖心に駆られて任務をおろそかにするか、恐怖を感じながらも任務を遂行できるかどうかである。どのような状況にあっても「自分は世界一優秀な教官の指導の下で、世界一過酷な訓練を受け、世界一優秀な装備をもっている」ということを忘れない。どの部隊よりも、どの隊員よりも長く苦しい訓練を強いられてきた自分は、どんな環境でも負けないという信念をもつべきである。
「救助システムを信頼する」 ベトナム戦争以後、アメリカ軍は私から見れば執拗と思えるほどの執念で兵員救出活動に予算と人員を割いて訓練を続けている。91年の湾岸戦争ではヘリコプター部隊がグリーンベレーAチームを敵地から救出した。99年ボスニアでは撃墜されたF‐16戦闘機のパイロットを敵の追撃部隊に先立ってレスキューチームが救出。2001年のアフガニスタン戦争でも、山中に不時着した特殊部隊員とヘリコプターの乗員全員を事故後、数時間で救出したり、タリバン兵に捕らわれていたジャーナリストを特殊部隊のチームが解放したりした。また海上に不時着したB‐1爆撃機の全乗員が事故後数時間で救出されるなど、天候や昼夜を問わない救出部隊の活躍には目覚ましいものがある。前線の将兵のみならず後方あるいは本国の将兵にとっても「いつ、いかなる状況にも救出部隊が自分たちを助けてくれるんだ」という信頼以上に兵隊の志気をあげるものはない。
ベトナム戦争時代に特殊部隊の選抜チームがアメリカ軍の捕虜を収容している北ベトナムのソンタイ捕虜収容所を急襲して捕虜奪還を試みたことがあった。実行数日前に捕虜は他の場所へ移されていたので作戦は不成功に終わったが、この行動が捕虜たちに与えた心理的影響は大きく「生きる望みを強くした」と生還者は語っている。同時に、「それまでアメリカ軍の行動力を軽視していた我々にとって、アメリカ軍が自分たちの寝床に侵入してきたことに大きなショックを受けた」と、数年前に出会った旧北ベトナム軍兵士が自ら語るのを聞いたが、偽らざる心境であったろう。
サバイバル8文字中7番目の文字であるAは、本文にあるように「アクト・ライク・ネイティーブス」を指すもので、「現地人と同じような行動をする」あるいは「現地生活に溶け込む」を意味する教えだが、アフガニスタンの戦場ではこの教訓を特殊部隊が十二分に活かして多くの作戦を成功させた。
空爆から地上戦に転じたアフガニスタンで、米特殊部隊は反タリバン勢力の現地軍に合流し、彼らのスケジュールで行動し、現地人と同じように馬にまたがって移動した。現地人とチームを組んだスナイパー(狙撃手)隊員は、狙撃位置についた時からサソリに刺されて苦労したが、サソリに刺されながらびくともしない現地人を見て我慢して待機した。その彼の我慢が現地人に大きな感動を与えて、米特殊部隊と現地軍の相互信頼がさらに深まっていったという。表面には出ない話だが、サバイバルの大事な一面である。
我々がベトナム戦争時代にジャングルハットの裏にオレンジ色の布を縫い込んで対空識別パネルにしたり、救出用ハシゴ(地上兵をへリコプターに引き上げるために開発された長さ7メートルほどのハシゴ)やマクガイアリグ(救助用ヘリに引き上げられる際、地上からの攻撃に反撃できるよう、手足の自由を確保した特殊な救出用ハーネスで、マクガイア軍曹らが考案)を考案して作成したのもサバイバルのためだった。これらの装備が現在では軍公認の装備となっているのも、サバイバルに不可欠な想像力の賜物であると自負している。
P‐51ムスタング戦闘機は、第二次世界大戦の流れを変えたといわれるほどの名戦闘機だが、合衆国内で今なお飛行可能なムスタング63機のうち62機が1999年にフロリダ州の飛行場に勢揃いして、じかに機の内外を見学する機会に恵まれた。エンジンも機体も昔のままだが、当時になかった装備が全機に付け加えられていた。それはGPS(全地球測位システム)装置である。
なぜGPS装置を持ち出したかと言うと、アメリカ全軍でGPS万能説が浸透し始めているからであり、憂慮すべきことだからである。GPSもほかのハイテク装備も作戦遂行に際して兵隊を補佐するものである。兵隊がGPSに頼りすぎる事態は避けなければならない。GPSに不具合が生じた途端、部隊や個々の隊員の戦闘能力がゼロになってしまう危険が、GPSのようなハイテク装備にはあるからだ。
捕虜になった時に敵の収容所から脱出する時点でGPSを携帯して逃げることなどは考えられない。出撃するに際して、戦場周辺の地形、川の流れる方向などを頭に叩き込んでおけばGPSやコンパスがなくても自軍に帰還することができる。
ハイテク装備も役に立つが、本書「サバイバル」に書かれてあるように、太陽や星座から方角を読みとる知識や、想像力を養うこともまた、それ以上に兵士には重要なのである。
今回のアフガン戦争で、米軍最初の犠牲者となったマイケル・スパン氏が死の直前にマザリシャリフの仮設捕虜収容所で捕虜を尋問している写真を見て直感したことは、彼がサバイバル8文字のS(状況判断)とR(立場、現在地)の教えを怠ったのではないかということである。写真には、スパン氏が捕虜を収容所の中央で尋問している様子が写っているが、戦場で捕虜を尋問するときは、自軍が完全にコントロールしている場所で、目隠しをして隔離して尋問するということは、第二次世界大戦以来、合衆国軍隊で教えられてきた捕虜取扱いの鉄則である。魔が差したのだろうが、彼はこの鉄則を守り切れなかった結果が不祥事につながったのではないだろうか。敵地にあって安心は禁物である。
ベトナム戦争中、私の後輩隊員が現地人と作戦の打ち合わせをして部隊に帰る途中で10歳の少年に待ち伏せされて射殺された事件があった。サバイバルの鉄則とも言うべきE&E(戦場離脱と逃亡)ルートをセットアップしなかったからである。E&Eには、部隊や個人レベルでの、戦闘行為中から直後にかけての簡易脱出ルート、そして6ヵ月後、1年後のルート、さらには極秘事項として扱われる計画的ルートまで範囲や期間はさまざまである。
1986年、特殊部隊では従来のE&E教育を増強したSERE(セア)コースが開設された。これは、部隊からはぐれた隊員が、敵の制圧下から友軍基地への帰還、敵の搾取に対する抵抗、逃亡計画を立案して実行する意思などを訓練するコースだが、最重要事項は虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けた隊員が胸を張って友軍陣地へ凱旋(がいせん)できる環境作りである。
SEREコースとはサバイバル(Survival)、戦場離脱(Evasion)、レジスタンス(Resistance)、エスケープ(Escape)のイニシャアルを集めた呼び名で、ベトナム戦争中にベトコンにつかまって5年間の捕虜生活を送った後、自力で収容所を脱出して自軍に戻ったニック・ロー大佐の尽力で開設されたものである。アメリカ陸軍が採用している現在のサバイバル技術はすべて、このロー大佐を中心にまとめられたもので、このSEREコースはロー大佐の捕虜生活中の体験をふんだんに取り入れた真に迫ったカリキュラムが組まれている。
コースはA、B、Cに分けられているが、Aコースは任官したての若い士官を対象にしたもので、ほかの軍事教練に織り込まれて行われる。Bコースは敵の捕虜になる可能性のある戦場近接で行動する士官および下士官を対象に、36の課目で作成されている。Cコースは敵地で行動をする特殊部隊員、特殊作戦飛行隊員、レンジャー部隊員のほか、国防省の要員を対象にした訓練である。
このSEREコースが正式に開設されるまでは、各特殊部隊グループで同様のコースを設けていたものだが、現在は、ノースカロライナ州フォートブラッグ近郊にあるキャンプ・マッコールのニック・ロー・サバイバル・スクールで集中的に訓練されている。
このニック・ロー元大佐の開設したサバイバル・スクールこそ、孤立した時や捕虜となった場合に、味方陣地への帰還を可能にする判断力と忍耐力を養うアメリカ陸軍最高の場所である。
三島瑞穂
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