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日本語版によせて(一部)         王克雄

 本書は台湾で刊行した『期待明天的人─二二八消失的檢察官王育霖(明日を期する者─二二八事件消えた検察官王育霖)』の日本語版です。私は王育霖検察官の長男で、本書の第一部「台湾司法改革の先駆者」の筆者であり、中国語版原書の編者でもあります。原書は多くの方から高い評価をいただき、また多数の読者からの反響がありました。
  本書の冒頭には、原書刊行当時の台南市長であり、現在の台湾総統である頼清徳医師、財団法人「二二八事件紀念基金会」董事長の薛化元教授、そして、全国弁護士公会「二二八司法公義金管理委員会」主任委員の李勝雄弁護士から序文を寄稿いただき、力強い推薦の辞を賜りました。
  原題の「期待明天的人(明日を期する者)」は、父、王育霖が日本語で記した随筆に由来しています(一九〇ページ参照)。随筆は、青年期に肺結核を患い、休学を余儀なくされ、快癒するかどうかもわからず、留年して周囲から笑われるかと思うと気持ちは落ち込むばかりだった失意のなかから希望を見出す、当時の自身の心境変化を活き活きと表現し、感動的で読む者を励ます一篇です。
  王育霖は日本統治時代の台湾人です。東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、在学中に高等文官試験司法科に合格、卒業後は京都地方裁判所検事局で勤務し、日本において初の台湾人検察官への第一歩を踏み出すこととなりました。終戦後、台湾に戻った育霖は、新竹地方法院の検察処に赴任しました。そして、育霖は新竹市長郭紹宗の汚職事件を捜査しました。大陸出身の郭紹宗は陸軍少将を兼任しており、捜査を妨害し、上級庁である台北の高等法院は育霖に捜査から手を引くよう指示しました。しかし、育霖は職を失うことを恐れず貪官汚吏≠摘発しようとしたのです。その結果、育霖は辞職に追い込まれることとなりました。
  退官した王育霖は台北で新聞『民報』の法律顧問となり、社説や司法に関する論説も執筆しました。育霖の論説には「何謂法治國?(法治国とは何か?)」(二〇四ページ参照)、「法律是打不死的(法律は打ち負かされることはない)」(二〇七ページ参照)、「報紙負責人的法律責任(新聞社責任者の法律責任)」(二〇九ページ参照)などがあります。
  また、育霖は法曹界の人々に台湾全島レベルの会議招集を呼びかけ、公平・公明に欠ける台湾司法の問題について提起しました。育霖は「台北市人民自由保障委員会」に参加したほか、『提審法解説(提審法の手続き)』を著し、人々が擁すべき法律上の保障および人権保護を求めました。育霖は台湾の司法の正義のために、勇敢に声を上げたのです。
  妻、陳仙槎の二番目の兄、陳温而は台湾司法の状況に憤る育霖に対し、「そんなに衝動的になるな、日本人の時代と中国人の時代とでは異なる。日本人は事の是非を論じることができるが、中国人は道理をわきまえない」と諭しました。しかし、育霖は「仮に私が言わなかったら、誰が言うのですか」と聞き返しました。
  王育霖は、権威主義による統治を行なう中国国民党の逆鱗に触れました。もしかすると、このことが理由で、国民党の特務機関と軍は二・二八事件に乗じて、あらぬ嫌疑で育霖を逮捕し、なんの罪もないのに、銃殺、遺体を隠蔽したのかもしれません。
  後年、李登輝総統は「王検察官は公正な人柄で、正義を守り、汚職や法律違反を厳しく追及した。特権を恐れず勇敢に戦った彼の姿勢を評価する。しかし、不幸にも犠牲になってしまった」と、その業績を称えました。王育霖は利による誘いに乗らず、権力を恐れず、法律を堅持し、正義を守った、間違いなく尊敬される「公正無私の検察官」だったのです。
  王育霖が非業の死を遂げた一方で、育霖の妻、王陳仙槎の苦しみは長年に及びました。夫、育霖は一九四七年三月一四日に逮捕され、二度と戻ってくることはありませんでした。仙槎は人も土地も馴染みが薄い台北で、三か月の乳児だった弟、克紹を背負い、二歳九か月の筆者の手を引きながら、死体が見つかったと聞きつけばすぐに駆けつけ、腐乱した遺体のなかから夫を探し出そうとしていたのです。こうした凄惨な光景を想像するだけで、胸が締め付けられ耐えられません。
  さらに仙槎は台南の育霖の実家に戻ると、その大家族のなかで虐げられ、多くの苦しみを味わいました。一人の未亡人にとって、生き続ける原動力は子供でした。
  母は張七郎医師と、医師であった二人の息子が国民党によって殺害されたことを知りました。そして毎日、国民党が息子二人を殺しに来るのではないかと、心中びくびくしていました。母はしばしば亡霊が子供をさらっていく夢をみて、子供たちを固く抱いたまま眠ろうとしませんでした。なぜなら、眠ってしまうと再び亡霊の夢を見るからです。
  その後、育霖の弟、王育徳は日本に亡命し、台湾独立運動に加わっていましたが、国民党が台湾独立運動の先駆者、廖文毅の甥を逮捕して、独立運動を断念させ、帰国、帰順させたことを母は知っていました。そのため、国民党がいつか息子たちを捕らえ人質にするのではないかと緊張し、憂慮していました。母の悲哀の人生については、本書の第二部『妻、王陳仙槎の証言』で率直に、ありのままに語られています。
  筆者は長年にわたって、両親の悲惨な生涯を一冊の本にまとめたいと考えてきました。過去、父に関する記録や記述には、不正確な引用や間違った伝聞が用いられているケースがありました。筆者は本書執筆にあたり、十分な考証や照合を行ないました。本書が過去の誤りを正すことになると思います。
  一冊の書籍を完成させることは、容易なことではありませんでした。各種の文献や資料をご提供いただいた黄恵君女史、国立師範大学の蔡錦堂教授、李筱峰教授には、さまざまなご協力、ご支援を賜りました。また、記事転載の許諾をいただいた呉樹民医師、雲林県西螺鎮の元・鎮長(町長)、故・李應?氏とご家族は、私どもが知るところ、唯一現存する『提審法解説』を収蔵、保存されており、その閲覧や撮影の許可をいただきました。心から感謝いたします。

 

目 次

日本語版によせて(王克雄)1

〈推薦の辞〉
我ら台湾人の模範
        頼清徳(前・台南市長、現・台湾総統)7

〈推薦の辞〉
『明日を期する者』の出版を祝して
        薛化元(財団法人「二二八事件紀念基金会」董事長)10

〈推薦の辞〉
大義のために犠牲になった王育霖検察官に最大限の敬意を表す
        李勝雄(前・全国弁護士公会「二二八司法公義金管理委員会」主任委員)13

第一部 台湾司法改革の先駆者 23

第一章 二・二八事件で帰らぬ人に 24

 終戦直後の台湾と二・二八事件 24
  王育霖の連行、殺害 26
  台南の王家 32
  少年期の王育霖 40

第二章 気骨の検察官 51

 東京帝国大学入学と結婚 51
  京都地裁勤務時代 59
  故郷台湾で検察官就任 65
(1)新竹「船頭行」密輸事件 67
(2)新竹鉄道警察汚職事件 67
(3)新竹市長郭紹宗汚職事件 68
  台湾司法改革への志 71

第三章 「二・二八事件」の実相 80

 台湾全島に拡大した騒擾事態 80
  虐殺の首謀者86
  惨劇の後も続いた苦難 93

第四章 父の遺志を継いで 102

 アメリカ留学と台湾民主化・独立への願い 102
  事件の犠牲が促した台湾の民主化 115

 

第二部 妻、王陳仙槎の証言 125

 官田の陳家 126
  台南の王家 128
  戦時下の京都勤務 133
  台湾人青年の殺人事件 137
  帰郷、台湾へ 140
  二・二八虐殺事件 145
  連行当日 147
  混乱の中での夫探し 150
  ジョージ・H・カー副領事 153
  夢の中で 155
  台南への帰郷 159
  残された息子たちとともに 162
  王育徳の日本亡命 165
  息子の克雄と克紹 174
  克雄の留学 179
「台独街」185

資料1 明日を期する者 190
資料2 法律評論集 204
「法治国とは何か?(何謂法治國?)」204
「法律は打ち負かされることはない(法律是打不死的)」207
「新聞社責任者の法律責任(報紙負責人的法律責任)」209
資料3 王育霖関連年譜 211
  日本語版訳出にあたり利用した主な参考文献・資料 215

王育霖(おう・いくりん)
  王育霖検察官は、幼い頃から大志を抱き、「正しく! 強く! そしてすべての人を幸福に!」という自らの信条を具現化しようとした。育霖は台北高等学校文科を首席で卒業すると、東京帝国大学法学部法律学科に合格、そして京都地方裁判所検事局へ配属となり、日本初の台湾人検察官の第一歩を踏み出した。大戦後、育霖は台湾へ戻り、新竹市で検察官に就任。中国出身の新市長・郭紹宗陸軍少将の汚職事件を調査しようとしたところ、台北の上層部から手を引くよう命じられた。育霖は職を失うことを覚悟しながらも調査を続けたが、最終的に辞職に追い込まれた。育霖は、権力を恐れず、利による誘いに乗らず、法律を堅持し、汚職官吏を厳罰に処し、正義を守った。まさに尊敬に値する「公正無私の検察官」であった。
  その後、育霖は台北に移り、新聞『民報』に社説や法律評論を寄稿した。本書に「法治国とは何か?」、「法律は打ち負かされることはない」、「新聞社責任者の法律責任」の三篇の評論が収録されている。育霖は「台湾省司法会議」の開催を呼びかけ、混乱した台湾の司法について検討、同時に『提審法解説(提審法の手続き)」を執筆し、その中で憲兵、警察官は、濫りに被疑者を二四時間以上拘禁してはならないと強調した。このように王検察官は積極的に司法改革を推進していたため、中国国民党にとっては目障りな存在となり、二・二八事件に乗じて、国民党は育霖を殺害し、遺体を隠匿した。
  李登輝・元総統は、京都帝国大学で学んでいた際、育霖夫婦に面倒をみてもらったことがあった。また、王育霖が延平学院で教鞭を執っていた際には、李総統も同校で助教を務めていた。一九九四年三月六日、李総統は、王育霖夫人・陳仙槎のもとを訪れ、「王検察官は公正な人柄で、正義を守り、汚職や法律違反を厳しく追及した。特権を恐れず勇敢に戦った彼の姿勢を高く評価する。しかしながら、不幸にも犠牲となってしまった」と育霖の偉業を称えた。
  育霖は文章や詩を書くことも好きだった。紙幅の都合で日本語版には『明日を期する者』のみ収録したが、同作品は、育霖が肺結核を患い一年間休学せざるなかったことや、母が他界してまもなく誰も育霖に関心を払ってくれなかったなかでの心境の変化について、ありのままに描写している。育霖は失望の中にあって、「世の中のあらゆる蔑視、嫉妬、非情さについては顧みない。あるのは、光り輝く未来を期待することだけだ」と心に固く誓い、その後の人生を歩んだ。

[編著者]王克雄(おう・かつお/Kenneth Wang)
  台湾人。王育霖の長男。終戦直前の一九四四年六月、日本・京都で生まれる。
当時、父の育霖は京都地方裁判所検事局に勤務していたが、終戦後、家族全員で台湾に引き揚げた。国立台湾大学電機学科を卒業後、アメリカへ留学し、電気工学の博士号を取得。
海外在住ながら台湾の民主主義、自由、独立運動に非常に強い関心を寄せ、社団法人台湾人権促進会に参加、拘束された活動家の救援サポート行なう。
また、重要な選挙のたびに海外後援会に参加、帰国して選挙支援を行なった。
「海外二二八遺族返郷団」の団長を務め、政府に二・二八虐殺事件の真相追求、賠償、祈念を求めた。
新聞やウェブサイトへも評論を頻繁に投稿し、二・二八虐殺事件の真相究明と責任追及に全精力を傾注している。これまでに、中国語の著作『明日を期する者(原題:期待明天的人─二二八消失的檢察官王育霖)』と『悲慣の念を力に─二・二八事件遺族の奮闘(原題:化悲憤為力量:一個二二八遺屬的奮鬥)』の二作品を出版した。

[訳者]駒田 英(こまだ・えい)
  一九七六年、東京都出身。日本大学芸術学部文芸学科卒業後、サラリーマン生活を経て台湾へ留学。輔仁大学跨文化研究所翻譯学修士コース修了後、台湾国際放送に就職。記者やパーソナリティを務める傍ら、台湾野球を日本に紹介する書籍、記事の執筆や、台湾の観光、歴史、スポーツ等に関する翻訳に従事。