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おわりに(一部)

 2021年5月、新型コロナウイルス感染症の拡大で、タイでは都市封鎖(ロックダウン)や国内外の移動制限などが続いていたことから、私は一時、タイを離れることにした。
  日本に帰国する前、国家警察庁の幹部のもとに挨拶にいくと、「席はいつでも空けておくので、ぜひまた戻って来てほしい」「警察大佐の補職は解かずにおく」と温かい言葉をかけてくれた。
  帰国してからすでに1年半あまり(2022年12月現在)経ったが、何かの折にタイの同僚や部下に連絡すると、決まって「いつ帰って来るのですか?」と尋ねられる。私としては体力、気力ともまだまだ十分、またタイの警察官とともに汗を流すのはやぶさかではないので、タイ警察の身分証明書と金属製のエンブレムマークが付いている警察手帳はいつも手元に置いている。しかし、今すぐにタイへ戻ることができない事情がある。じつは、日本で任されている仕事があるからである。
  2021年10月から東京・府中市にある警視庁警察学校で、非常勤講師として初任科教養課程の学生たちへ鑑識活動について教えている。ここではタイ警察で若い警察官たちを指導していたときと同様、知識ばかりではなく、これまでの経験から現場で役立つ技術や心構えを伝え、ほかの教官たちから聞けない話や講義をするのが私の役目だ。現場には教科書に載っていないことがたくさんある。私の講義には鑑識の実務経験が少ないほかの教官も見学に来ることもある。
  学生たちの参考になるだろうと考えて、私がタイで撮影した写真なども見せながら教えているのだが、少し刺激が強いリアルな写真もあるので、教務部の役職者から「学生たちが夜眠れなくなったりすると困るので、手加減してやって下さい」と言われたこともある。首都の治安と都民の安全を守る警察官になるのだから、「写真を見たくらいで怖がっていては務まらないぞ」と思いながらも、今の若者たちには、彼らに合った教え方を工夫するのも大切だと思う。
  本書の冒頭で触れた私が初任科学生だった当時、九段(現在、日本武道館がある北の丸公園)にあった警視庁警察学校の校舎は旧陸軍近衛師団の兵舎だった。学生寮内も旧軍の内務班(兵営内生活の最小単位で10人程度の兵・下士官からなる)そのままで、居室は真ん中の通路を挟んで、一段高い床に畳が敷かれていて、壁には三八式歩兵銃を保管する銃架がそのまま残っていた。今、私が教えている警察学校の学生寮の居室は個室で、衣食住すべてが快適な環境で学ぶ初任科学生たちを見ると、隔世の感がある。
  また、2022年5月からは、東京・文京区の拓殖大学に客員教授として招かれ、「海外における危機管理」をテーマに学生たちを教えている。これは元警察庁の高級幹部の大先輩からのご指名だったのでお引き受けした。
  そこでは本書の第5章以下で紹介したような、私の経験を通した海外で心がけるべき防犯や安全対策を中心に講義しているが、実体験に基づく事件・事故の話題は事欠かないので、受講する学生たちも興味津々、熱心に話を聞いてくれる。やることもないまま日本に帰って来たのに、すぐにこのような職務を与えられたのは、多くの先輩や後輩たちのおかげである。
  それともう一つ、タイに戻れなくなった理由がある。帰国して間もなく再婚したからである。相手は国立病院で看護師長を務めていた死別した妻とともに長く働いていた女性で、昔からの知り合いである。私がタイへ行っているあいだ、留守宅の見守りを頼んでいたのだが、それ以外にもいろいろと世話になっていたことから、そのまま成りゆきで所帯を持つことになった。私が今も元気に教壇に立ち、若者たちを指導できるのも、この人の支えがあるからで、これも亡き前妻が導いてくれた縁だったのかもしれない。

●目次

はじめに 1

第1章 陸上自衛官から警察官への転身 13

精鋭°挺部隊に配属 13
  警視庁巡査拝命 16
  指名手配犯の護送 18
  鑑識係への異動 21
  最初の事件現場臨場 24
「手を血で汚さない」仕事 25
  第2次羽田事件 27
  デモ学生からの逃走劇29
  紛失したカメラの末路 32

第2章 警視庁刑事部鑑識課写真係 36

 警視庁への異動 36
  鑑識課写真係一年生38
  派出所襲撃事件臨場 41
「似顔絵捜査」のきっかけ 44
「似顔絵捜査」の実用化 49

第3章 タイ警察への派遣 59

 妻の他界 59
  海外派遣の選考考査 61
  JICAの研修と進学塾 64
郷に入っては郷に従え66
  現場の警察官とともに汗を流す 69
  タイの事件・事故現場 72
  セミナーは知識ではなく実務を 75
  派遣任期の延長 78
  タイ警察初の「鑑識マニュアル」80
  再びタイへ渡る 83

第4章 忘れられない事件、出来事 86

 大災害の現場 86
  日本人の失踪・殺害事件 91
  王女の指紋を採取94
  銃撃戦に発展した大規模デモ 97
  日本人カメラマンの死 101
  爆弾テロ事件 104
  タイの冠婚葬祭 108
  7夜も続く葬儀 110
  子供たちの名付け親 113

第5章仏の国、天使の都≠ノも犯罪はある 123

 異国での生活習慣の違い 123
  ツーリストポリス 125
  被害をどうやって知らせるか 127
  狙われる日本人 128
  スリ・置き引き 131
  駅や地下鉄での被害 133
  知らない人に財布を見せない 134
  いかさま賭博の被害に遭った日本人女性 136
  似顔絵捜査 138
  宝石詐欺 139
  パスポートの値段 142
  住まいの防犯対策 144
  荒っぽい手口の空き巣 146
  痴漢とスリ、目つきと行動パターンが酷似 150

第6章 日本人が起こした事件・トラブル 153

 日本人同士でも安心できない 153
  タイの日本人コミュニティ 155
  日本人弁護士やコンサルティング会社に注意 156
  悪質な金融業者 160
  日本から来たヤクザ 163
  日本人工場長の暴力 167

第7章 麻薬、違法薬物 170

 薬物の罠 170
  麻薬所持で拘束された日本人 174
  タイの違法薬物事情 177

第8章 事故、不測の事態への対策 184

 無法地帯の道路事情 184
  自動車事故を起こした場合 186
  長距離バスの事故 187
  小型船舶の事故 189
  火災への対処 190
  最優先は自分の命 192
  マリンレジャーでの注意 194
  感染症への対策 195
  危険動物への対策 200

〈インタビュー 1〉
  所轄署勤務時代に学んだ人間観察34

〈インタビュー 2〉
  裁判の行方にも影響を及ぼす現場鑑識53

〈インタビュー 3〉
警視庁特命係≠ェ垣間見た重要事件犯人の素顔 116

おわりに 204

著者略歴 210

戸島国雄(とじま・くにお)
1941年生まれ。陸上自衛隊勤務を経て1963年警視庁入庁。1970年警視庁刑事部鑑識課写真係。鑑識課在職中に千枚以上の似顔絵を作成し、事件解決に貢献。三島由紀夫割腹事件、連合赤軍リンチ殺人事件、三菱重工爆破事件、ロス疑惑事件、ホテル・ニュージャパン火災、羽田沖日航機墜落事故、日航123便墜落事故、トリカブト保険金殺人事件、連続幼女誘拐殺人事件、オウム真理教関連事件など数々の大事件を担当。警視総監賞・部長賞など107回表彰。1995年JICA国際協力専門員として、タイ王国国家警察局科学捜査部に派遣され、鑑識捜査技術を指導。1998年帰国。2000年似顔絵捜査員制度の第1号に任命。2001年警視庁を定年退職。2002年3月タイ国家警察庁の要請で再びタイに渡り、JICAシニア海外ボランティアに任命。著書に『タイに渡った鑑識捜査官─妻がくれた第二の人生』『警視庁似顔絵捜査官001号』『警視庁刑事部現場鑑識写真係』(いずれも並木書房)。タイ王国国家警察庁警察大佐、警視庁警察学校非常勤講師、拓殖大学客員教授。