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おわりに

 冷戦の終結とともに、核戦争による人類絶滅の恐怖は去った。それからの30年ほどの時代は、グローバリゼーションによる経済的繁栄と合わせて、世界が平和を感じることができた時代だった。この時代の最大の脅威は、9・11同時多発テロに代表される過激主義テロであり、国家間の大戦争は過去のものとなったと広く信じられていた。
  しかし、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻によって、世界は大きく変わった。これからしばらくの間、「大国間の競争」が展開していくなか、世界の人々は戦争の「影」を感じながら生きていかなければならなくなるだろう。
  そんな世界の中でも、特に日本は、世界で最も厳しい安全保障環境に置かれている。中国は、爆発的な経済成長を背景に、世界最強の軍事大国であった米国を急追するかたちで軍拡を進め、航空戦力や水上戦闘艦艇において対米7?8割の戦力を構築した。北朝鮮は、冷戦終結後一貫して核・ミサイル開発を進め、日本を射程に収める核ミサイルをすでに配備しているとみられている。ロシアも、ウクライナ侵攻に続いて、東アジアでも活発な軍事活動を行なっている。
  こうした厳しい安全保障環境においては、戦略をきちんと考えていくことが不可欠となる。それを支えるのは文字通りの「知恵」だが、「知恵」だけでは足りない。戦略において最も重要なことは、「願望」と「能力」のバランスだからである。「能力」が足りなければ、どれほど「知恵」を絞っても「願望」を実現することはできない。
  アジアにおいて周辺諸国の軍拡が急速に進んだ以上、日本も「能力」を高めるため、これまで以上に資源(リソース)を投入しなければならなくなっている。それが2022年12月に決断した防衛費の増額である。
  日本は長い間、米国に次ぐ世界第二の経済大国、すなわち東アジア最大の経済大国であった。その時代であれば、日本が防衛費をGDP比1パーセント弱に設定することには、経済大国の自制として大きな意味があった。しかしながらいまや日本は東アジア最大の経済大国ではない。リーマンショックの直後に中国に追い抜かれ、現在ではGDPで3倍強の差がついてしまっている。結局のところ、日本がGDP比で防衛費を大幅に増額しなければならなくなっている理由は、安全保障環境の悪化と同時に、GDPの成長が頭打ちとなったことが大きい。現在、日本の防衛費は中国の国防費の四分の一にすぎないことを考えれば、「能力」を強化するためのリソースをこれまでよりも多く配分しなければ、「願望」としての現状維持を達成することは難しい。そのことが、2022年12月に日本が防衛費の大幅な増額を決める大きな理由となっている。
  日本の大戦略上の目的が現状維持であり、しかも海洋による離隔を利用できるとしても、「攻者三倍の法則」に基づき、中国の三分の一を上回る程度の防衛費を確保する必要はある。これは日本の防衛費をGDP比で2パーセント程度にすることを意味する。しかし、やみくもに防衛費を増額するだけでは、抑止力を効果的に高めることにはつながらない。このときに必要なのが、「知恵」を絞って大戦略と防衛戦略をきちんと構築していくことである。
  戦略は、「優先順位の芸術」であり、日本が持つ比較優位を活かすかたちで傾斜的にリソースを配分していく指針でなければならない。日本の大戦略上の目的はあくまで現状維持であり、防衛力はそのための手段として用いられる。本書では、「大国間競争の時代」においてなお現状維持を実現するための防衛戦略として、ネットアセスメントや将来戦に関するシナリオプランニングを踏まえ、「統合海洋縦深防衛戦略」を提唱した。宇宙・サイバー・電磁波能力と陸・海・空の対艦攻撃能力を統合的に整備し、中国の海上制圧を阻止することで、現状維持を達成しようとするものである。
  これがどの程度、中国に対する抑止力となり、地域と世界の安定につながるのか、それはいまの時点ではわからない。しかし、いま、防衛費を増額するとともに「知恵」を絞って、有効なかたちで資源を投入できれば、中国の現状変更的な政策に端を発する戦争の発生を阻止できる可能性は十分にある。決まった未来は存在しない。未来の方向を決めていくのは、現代を生きる人々の選択である。日本は「未来を変えられる」のである。

目 次

はじめに 1

第1章 戦略はなぜ必要か? 17

 戦略とは何か? 18
戦略は目的・方法・手段の組み合わせ/戦略の複層構造/戦略とは「優先順位の
芸術」である

 戦略論の中の安全保障戦略 27
経営戦略と安全保障戦略/安全保障における大戦略の必要性/ロシア・ウクライ
ナ戦争に見られる現代安全保障戦略の特徴

 戦略立案プロセスの重要性 39
戦略文書の限界/「全体最適」と「部分最適」のせめぎあい/「負け組」にも当
事者意識を/戦略立案プロセスの大きな役割

第2章 戦略はなぜ失敗するか? 52

 戦略を成功させるための五つの課題 53
戦略の複層性──上位戦略と下位戦略/明確な戦略目的──何が成功で何が失敗か
を定義する/戦略の実行における二つの論点/競争相手の存在──「ネットアセスメント」という手法/新たな環境への適応──戦略を修正していくことの難しさ

第3章 「大国間競争」時代の戦略上の課題 77

 日本の戦略上の課題:パワーバランスの変化 82
失敗した米国の対中戦略/民主主義のオルタナティブモデルとしての中国

 社会システムをめぐる競争 91
民主主義と権威主義の競争/デジタル・トランスフォーメーション(DX)をめぐ
る競争/新たな「パワーセンター」をめぐる争い

 地政戦略面での競争 99
「一帯一路」構想の地政戦略的意味/古典的な地政学から見た「一帯一路」構想
/「ログローリング」のリスク/地域レベルでの現状をめぐる競争:東シナ海、南シナ海、台湾

第4章 大国間競争時代の「日本の大戦略」113

 大国間競争における日本の「立ち位置」114
日本はパワーセンターとしての地位を維持できるか?/米中対立と日中対立の違
い/二つの競争における日本の「目的」

 日本の「能力」は地政戦略的な競争を支えられるか? 121
防衛計画の大綱/基盤的防衛力構想からの脱却へ/統合運用を踏まえた能力評価
の実施/兵力構成に残る基盤的防衛力構想/軍事バランス──日米中の比較/防衛費──半減した日本のシェア/日米同盟──失われた米軍事力の圧倒的優位/安全保障法制──集団的自衛権の限定的な行使容認

 日本のリソースからみた戦略上の選択肢 145
ネットアセスメント──軍事バランスを相対的に評価/日米中の比較優位・比較
劣位の分析/日本の比較優位を活かした戦略の組み立て

第5章 将来の戦争をイメージする 157

  技術の発達の「先取り」の難しさ 158
戦争の様相は絶えず変化する/「変化の先取り」の失敗

 将来戦の予測はなぜ外れるのか? 163
将来戦予測が困難な三つの理由/試行錯誤の重要性

 シナリオプランニングで将来戦像に迫る 167
「ドライビングフォース」を二つ選定する/ドライビングフォース1「紛争の形
態はどうなるか?」/ドライビングフォース2「戦場の霧は残るか・消えるか?」

 将来戦に関する四つのシナリオ 173
二つの軸から描く将来戦のイメージ

第6章 これからの日本の防衛戦略 181

 日本の防衛戦略の五つの前提条件 182
達成すべき目的と「失敗の定義」

 シナリオプランニングから見える将来戦像 186
現状維持側が有利なシナリオと不利なシナリオ/「戦場の霧」をめぐる攻防/短
期戦を阻止できれば日米が有利

「願望」と「能力」のバランスをとる 195
膠着状態に持ち込み、米国の戦力集中の時間を稼ぐ/「攻者三倍の法則」──中
国の三分の一程度の防衛費を維持する

第7章 統合海洋縦深防衛戦略 200

 中国の「セオリー・オブ・ビクトリー」201
困難をともなう「渡洋上陸作戦」/弾道・巡航ミサイルで航空優勢を獲得

 日本の「セオリー・オブ・ビクトリー」209
中国の航空優勢獲得を阻止する/海上制圧と上陸作戦の阻止

 新たな「統合海洋縦深防衛戦略」214
前提となる三つの戦略的分析/海洋防衛能力の強化──対艦ミサイルによる飽和
攻撃/対艦ミサイル部隊の残存性を高める

 統合海洋縦深防衛戦略を実現するためのリソース配分 220
宇宙・サイバー・電磁波能力の強化/対艦ミサイル攻撃能力の強化/航空相殺攻
撃能力の強化/宇宙・サイバー・電磁波戦能力の強化

おわりに 230

高橋杉雄(たかはし すぎお)
防衛研究所防衛政策研究室長。1997年早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。2006年ジョージワシントン大学大学院修士課程修了。1997年より防衛研究所。防衛省防衛政策局防衛政策課戦略企画室兼務などを経て、2020年より現職。核抑止論、日本の防衛政策を中心に研究。主な著書に『「核の忘却」の終わり:核兵器復権の時代」』(共著、勁草書房、2019年)、『新たなミサイル軍拡競争と日本の安全』(編著、並木書房、2020年)『ウクライナ戦争と激変する国際秩序』(共著、並木書房、2022年)