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はじめに(一部)

 ロシアによるウクライナへの軍事侵略はプーチン大統領一人の企図と意思によって引き起こされた戦争である。
  第2次世界大戦終結から77年を経たこの時期に発生したこの軍事侵略は近現代における歴史的大事件であり、その推移や影響は世界中に大きな波紋を広げている。
  とくに世界の政治・外交・軍事・安全保障、国際秩序、国連やNATOなどの地域的枠組み、同盟関係、核抑止や大量破壊兵器の拡散問題、経済、産業、資源・エネルギー、環境、食糧、避難民などはもちろん、その影響は思想・文化・概念や人々の生活や倫理観などあらゆる分野に影響が及んでいる。
  一方で、この戦争は極めて中世的な様相を示しており、一般市民の殺戮を含む非人道的な事態もしばしば見受けられる。
  これから時間が経過するにつれて、その影響はさらに奥深く、人類史の真髄に及ぶような内容を含む事態に発展するであろう。核兵器が使用されることになれば、これまで破滅を回避してきた核抑止が機能しなかったという結果を招き、事態はさらに深刻化する。
  どうしてこのような軍事侵略が発生したのか? なぜ一人の独裁者によって引き起こされた戦争が、これほどまでに世界中の人々に暗い影を落とし、かつ、誰ひとりとしてこの事態を止めることができないのか? それはいつまで続き、その結果、世界はどう変わるのか? ほとんど解答を見出せない状況が続き、日々多くの貴い人命が失われている。
  現時点で明確なことがあるとすれば、それはロシアによるウクライナへの軍事侵略は、人類がこの1世紀ほどかけて構築してきた国家主権を軸とする国際社会の法秩序に対して力による重大な現状変更を強行し、人類が保持してきた普遍的な倫理観と既存の概念を全面的に、そして根底から崩壊させつつあるということである。
  とくに、この軍事侵略にともない冷戦後、民主主義体制と非民主主義体制の国家で二分されてきた国際秩序は、さらに深刻な分裂状態に追い込まれている。
  もちろん、現実世界を見ると民主主義、自由、人権など我々の価値観が世界中のすべての地域で等しく共有されているわけでもなく、法の支配と主権国家の平等に基づく国家関係は必ずしも普遍的でもない。
  その一方で、国連安保理事会がかかる重大な事態の解決に十分機能していないという現実も一層、明らかになった。そして、国連による解決がうまくいかない場合、補完的な役割を果たすべき地域的枠組みの機能も十分ではないことが露呈している。
  冷戦期以来、苦心して構築してきた核抑止や核不拡散体制も危うくなっている。ただ、ロシアが核兵器を保有しているがために、通常戦力による対抗だけでは事態を打開できない、というような単純な発想や極論で論ずるべき問題でもない。
  人間社会で起こっていることは人間の知恵で解決すべき問題であるが、各国とも国益追求に走り、国際協力のもとに共通アプローチをとることにも限界が見えつつある。先進国は十分な援助の手を差し伸べる余裕がなく、途上国は一層困難な状態に直面している。アフリカ・アジア・中東・中南米では食料不足や物価高騰に苦しむ庶民の暴動が発生している。
  世界的に経済成長が低下し、食糧、エネルギーの価格高騰、金融破綻、為替レートの乱高下、食糧難にともなう地域不安が起こり、先進国も金融政策、エネルギー、財政の施策、インフレや国内不満の抑制に苦労している。
  戦禍が拡大し、人権が無視され、人々の生活が破壊され、無辜の避難民が国内外で逃げまどい、家族は離れ離れになり、環境が汚染され、貧富の差が広がり、世界で平和な場所を見つけることが難しくなりつつある。
  この状況が第2次世界大戦後、人類が努力して築き上げてきた国際秩序の姿なのであろうか? このウクライナ軍事侵略から何を教訓として学び、国家と国民の平和と安定をどう追求していくのか? 国家も国民もこの喫緊の課題に取り組む覚悟はあるのだろうか? あるとしてもどうすればよいのか? これが、いま人類が直面している重大で深刻な問題である。
  戦後、武力紛争に巻き込まれることなく平和を享受してきた日本は、このまま将来にわたって平和と安定と繁栄を享受し続けることができるのか? そのために、我々は何をするべきか、という問題にも直面している。
  本書は、ロシアによるウクライナ軍事侵略について、こうした諸問題を多角的に取り上げて分析する必要があると考え、それぞれの分野の専門家が執筆にあたった。また巻末には、さらに総合的な視点から検討するために7人の専門家により座談会形式で議論し、それを収録した。(元防衛大臣 森本敏)

 

目 次

 

はじめに(森本 敏)1

ウクライナ軍事侵攻関連付図 16
用語解説 18

第1章 概観─ロシアによるウクライナ侵略がもたらす影響(森本 敏)25

1、これからの国際秩序 25
2、ロシアによるウクライナ侵略の動機と背景 29
3、ロシアによるウクライナ軍事侵略の展望 34
4、ウクライナ軍事侵略の影響と評価 40
5、双方の主張が全く違った停戦協議 47
6、経済制裁──金融、海外資産、輸出入管理、エネルギー 48
7、食料安全保障 51
8、戦争犯罪 53
9、ウクライナ情勢が中・台関係に与える意味合い 54
10、日本の安全保障にとっての意味合い 62

第2章 プーチン大統領の戦略 69
─それでもロシアは軍事大国であり続ける(小泉 悠)

はじめに 69
1、三つの地域から見るロシアの現状 70
2、軍事大国ロシアの行く末 78
3、プーチン権力の持続可能性 86
結論 90

第3章 戦局の展開と戦場における「相互作用」(高橋杉雄)92

はじめに 92
1、ロシアの政治的目的における軍事力の位置づけ 93
2、第1段階の軍事作戦の展開と分析:キーウ防衛戦 96
3、第2段階の軍事作戦の展開と分析:ドンバス会戦 99
4、第3段階の軍事作戦の展開と分析:セベロドネツク攻防戦からハイマースの実戦参加へ 103
今後の展望 106

第4章 ウクライナの戦争指導─頑強なる抵抗を支えたもの(倉井高志)109

はじめに 109
T ロシアの侵略に断固戦うという確固たる意志(精神的要素)110
  1、戦わなければすべてを失う 111
  2、ロシアとの長い歴史の中で形成されてきた特別の思い 112
U クリミア併合以降の政治・軍事改革(政治・軍事的要素)113
  1、政治面の改革 113
  2、軍改革 119
V ウクライナにおける情報戦への取り組み 131
  1、情報戦対策の枠組みづくり─官・民・国際の三次元協力を重視 132
  2、情報戦の遂行 134
  3、ウクライナによる情報戦の留意点 141

第5章 バイデン政権とウクライナ侵略 144
              ─米国が直面するジレンマ(小谷哲男)

1、バイデン政権の三重のジレンマ 144
2、ウクライナ侵略への備え 147
3、新たな情報戦と侵略の開始 151
4、ウクライナ支援と深まるジレンマ 155
5、今後の見通し 159

第6章 NATOはロシアの侵攻にどう対応したか(長島 純)167

はじめに 167
1、軍事同盟の原点に回帰するNATO 168
2、危機におけるNATOの将来 174
3、NATOを取り巻く戦略環境の変化 179
4、ウクライナ侵攻後の欧州とNATO 187
5、まとめ─価値観を共有する国との連携を強化する 193

第7章 ウクライナ戦争に伴う経済制裁(仮名・水無月嘉人)201

はじめに 201
1、対露経済制裁の特徴 201
2、対露経済制裁の構成 205
3、関連する制裁 211
4、今後の展望 213

第8章 ウクライナ危機で激変する国際エネルギー情勢(小山 堅)219

はじめに 219
1、エネルギーの価格高騰と市場の不安定化 220
2、国際エネルギー市場におけるロシアの重要性 224
3、ロシアのエネルギー供給支障・途絶発生の可能性 228
4、第1次石油危機とウクライナ危機の共通点 234
5、一気に高まったエネルギー安全保障の重要性 237
6、重要性を増す国際エネルギー協力とその課題 242
7、ウクライナ戦争による脱炭素化への影響 246
8、日本のエネルギー戦略 249

 

第9章 日本、中ロとの2正面対立の時代に 254
─ウクライナ侵略で激変する構図(秋田浩之)

はじめに 254
1、ルビコン河を渡った日本 255
2、対ロシア制裁、日本に「返り血」も 257
3、軍事物資、ウクライナに供与。戦時国では初 258
4、ロシアへの失望、限界点に 261
5、日本の対ロ融和、かつては米も支持 263
6、中ロ接近、防ごうとした安倍政権 265
7、日本の対ロ外交、振り出しに 268
8、日ロ敵対、高まる極東の軍事緊張 269
9、中国従属で凶暴になるロシア 272
10、ロシア侵略、日本への教訓 274

 

第10章 ウクライナ戦争と核問題(佐藤丙午)280

はじめに──ロシアは核の脅威を政治利用した 280
1、ウクライナ「戦争」における核の意義 282
2、核兵器使用の可能性について 288
3、ウクライナ侵略と原子力発電所の安全問題 292
4、危機はどのように発生するのか? 295
5、ウクライナ戦争と核戦争のリスク管理 299
おわりに──核兵器リスクに対する関心の高まり 302

第11章 ウクライナ戦争と中ロ関係、中台関係(小原凡司)305

1、中ロ関係および中台関係を分析する意義 305
2、中ロ関係への影響 306
3、中台関係への影響 314

座談会「ロシアのウクライナ軍事侵略と国際秩序」332
           出席者:秋田浩之(司会)、森本敏(総論)、小泉悠(ロシア)、小谷哲男(米国)、
小原凡司(中国)、長島純(NATO)、佐藤丙午(核抑止)

 プーチンはなぜこの戦争を始めたか? 332
  西側はロシアの世界観を理解してこなかった 335
  中間選挙次第で米国のウクライナ支援は変わる 337
  ロシアが存在する限りNATOはなくならない 339
  核問題をめぐる三つの論点 341
  なぜロシアのハイブリッド戦が効かなかったのか? 343
  ロシアが目指した欧州の新しい安全保障の枠組み 348
  ロシアは弱体化し、アメリカはインド太平洋に集中する 351
  米中対立─バイデン政権の新たなアプローチ 356
  中国は本当に台湾に着上陸するつもりか? 361
  アメリカの政局に翻弄されるアジア情勢 365
  ウクライナ侵攻後のロシアの弱体化 367
  ウクライナ侵攻から台湾有事へ──日本のとるべき道 370

おわりに(秋田浩之)378

執筆者のプロフィール 382
資料 ウクライナ軍事侵攻関連年譜 385

 

森本 敏(もりもと さとし)
防衛大学校卒業後、防衛省を経て1979年外務省入省。在米日本国大使館一等書記官、情報調査局安全保障政策室長など安全保障の実務を担当。初代防衛大臣補佐官、第11代防衛大臣(民間人初)、防衛大臣政策参与を歴任。2000年より拓殖大学に所属し、同大学の総長を経て、現在は同大学顧問・同大学名誉教授。主な編著書に『新たなミサイル軍拡競争と日本の安全』(編著、並木書房、2020年)、『次期戦闘機開発をいかに成功させるか』(編著、並木書房、2021年)、『台湾有事のシナリオ』(編著、ミネルヴァ書房、2021年)など。

秋田浩之(あきた ひろゆき)
日本経済新聞 本社コメンテーター。1987年入社。流通経済部、政治部、北京支局、ワシントン支局などを経て、2009年9月から、外交・安全保障担当の編集委員兼論説委員。2016年10〜12月、英フィナンシャル・タイムズに出向し、「Leader Writing Team」で社説を担当した。2017年2月より現職。外交・安保分野を中心に、定期コメンタリーを執筆する。2018年度のボーン・上田記念国際記者賞を受賞。著書に『乱流 米中日安全保障三国志』(日本経済新聞出版社、2016年)、『暗流 米中日外交三国志」(同、2008年)がある。

小泉 悠(こいずみ ゆう)
早稲田大学社会科学部卒業、同大学院政治学研究科修士課程修了(政治学修士)。民間企業勤務、外務省専門分析員、国会図書館調査員、未来工学研究所研究員などを経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター特任助教。ロシアの軍事・安全保障政策を専門とする。主な著書に『軍事大国ロシア』(作品社、2016年)、『ロシア点描』(PHP研究所、2022年)など多数。
高橋杉雄(たかはし すぎお)
防衛研究所防衛政策研究室長。1997年早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。2006年ジョージワシントン大学大学院修士課程修了。1997年より防衛研究所。防衛省防衛政策局防衛政策課戦略企画室兼務などを経て、2020年より現職。核抑止論、日本の防衛政策を中心に研究。主な著書に『「核の忘却」の終わり:核兵器復権の時代」』(共著、勁草書房、2019年)。

倉井高志(くらい たかし)
1981年京都大学法学部卒業後、外務省入省。アンドロポフ死去後のソ連を皮切りに、2015年12月特命全権公使として最後の勤務を終えるまで、4度にわたってモスクワの日本大使館に勤務。本邦では安全保障政策課首席事務官、中東欧課長、情報課長、国際情報統括官組織参事官など安全保障・情報分野や東ヨーロッパ関係を多く手がけた。在外では在ウィーン国際機関日本政府代表部公使、在韓国大使館公使、在パキスタン大使のあと、2019年から在ウクライナ大使、2021年10月帰国し、退官。

小谷哲男(こたに てつお)
明海大学外国語学部教授、日本国際問題研究所主任研究員を兼任。専門は日米の外交・安全保障政策、インド太平洋地域の国際関係と海洋安全保障。米ヴァンダービルト大学日米センター研究員、日本国際問題研究所研究員などを経て2020年より現職。主な共著として『現代日本の地政学:13のリスクと地経学の時代』(中公新書、2017年)、『アメリカ太平洋軍の研究:インド太平洋地域の安全保障』(千倉書房、2018年)など。平成15年度防衛庁長官賞受賞。同志社大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。

長島純(ながしま じゅん)
中曽根平和研究所 研究顧問、筑波大学大学院修士課程地域研究科卒(欧州安全保障)。防衛大学校(29期生)、ベルギー防衛駐在官、統幕首席後方補給官、情報本部情報官、内閣審議官(危機管理、国家安全保障局)、航空自衛隊幹部学校長などを歴任。専門は、欧州安全保障、新領域(サイバー、宇宙、電磁波)、先進技術戦略。主な著書に『デジタル国家ウクライナはロシアに勝利するか?』(共著、日経BP、2022年)。

水無月嘉人(仮名)
経済制裁、安全保障貿易管理、サプライチェーン・レジリエンシーなどに関して幅広い経験と知識を有する専門家。

小山 堅(こやま けん)
早稲田大学大学院経済学修士修了、英国ダンディ大学博士取得。1986年日本エネルギー経済研究所に入所、2020年より専務理事・首席研究員(現職)。経済産業省などの審議会委員等を多数歴任。東京大学公共政策大学院客員教授、東京工業大学科学技術創成研究院特任教授。エネルギー安全保障やエネルギー地政学問題などを専門とする。主な著書に『激震走る国際エネルギー情勢』(エネルギーフォーラム社、2022年)、『エネルギーの地政学』(朝日新聞出版、2022年)など。

佐藤丙午(さとう へいご)
拓殖大学海外事情研究所副所長/国際学部教授。一橋大学大学院修了(博士・法学)。拓殖大学国際学部教授兼海外時事情研究所副所長。防衛庁防衛研究所主任研究官(アメリカ研究)を経て、2006年より現職。専門は国際関係論、安全保障論、軍備管理軍縮など。著書に『自立型致死性無人兵器システム(LAWS)』(国際問題・2018年6月号)など。

小原凡司(おはら・ぼんじ)
笹川平和財団上席研究員。1985年防衛大学校卒業後、海上自衛隊入隊。1998年筑波大学大学院地域研究研究科修了。2003年駐中国防衛駐在官、2009年第21航空隊司令など歴任後に退職。東京財団政策研究調整ディレクターなどを経て、2017年6月から現職。2020年5月慶應義塾大学SFC研究所上席所員兼務。中国の安全保障、日本の安全保障、米中関係を中心に研究。主な著書に『台湾有事のシナリオ 日本の安全保障を検証する』(共著、ミネルヴァ書房、2022年)