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 海國兵談(現代語訳)

海兵談序

海國兵談自序

第一巻 水戦(海上における戦闘)

第二巻 陸戦(陸上における戦闘)

第三巻 軍法及び物見(軍の刑法・規則と偵察・斥候)

第四巻 戦略(作戦戦略・戦術・戦法)

第五巻 夜戦(夜間における戦闘)

第六巻 撰士及び一騎前(士卒の選抜と個人装備品・各個の戦闘)

第七巻 人数組附人数扱(部隊の編制・編成、部隊を動かす手段・方法について付記)

第八巻 押前、陣取、備立及び宿陣、野陣(行進、集結、戦闘展開と宿営、野営)

第九巻 器械及び小荷駄附糧米(兵器・戦闘用資器材と兵站について付記)

第十巻 地形及び城制(地形の概要と城築城)

第十一巻 城攻め及び攻具(攻城戦と城を攻めるための資器材)

第十二巻 籠城及び守具(籠城戦とを守るための資器材)

第十三巻 操練(部隊訓練)

第十四巻 武士の本体及び知行割・人数積 附制度法令の大略 (武士のあるべき姿と土地支給の割当・出動可能人馬の算定基準、制度・法令の概要を付記) 20

第十五巻 馬の飼立、仕込様 騎射の事(馬の飼育、調教法、馬上弓射に関して付記)

第十六巻 略書(総括 文武両全の国家統治、優れた将軍の条件、経邦済世の術等の概要)

初巻から第十五巻までは、水陸の戦闘について述べたものである。略書は文武相兼ねて国家を経済し、食料を満たし、兵を充足することの意義を論じることで、大将の心得とし、兵士の心印とするものである。読者自身の事情を踏まえ、さらなる工夫を加えよ。(林子平述)

林子平自跋

解題 林子平の生涯と『海國兵談』日本兵法研究会会長 家村和幸

解題 林子平の生涯と『海國兵談』日本兵法研究会会長 家村和幸

江戸時代中期の兵学者にして経世家である林子平は、近世日本の国防史上における偉大なる先覚者であり、「海國兵談』は、この林子平という人物の生涯をそのまま体現した書である。子平が生きた時代には、ロシアの南進により北方への危機感が高まりつつあると同時に、蝦夷地への関心が一挙に深まった。そうした時代にあって、生涯を通じて北は松前から南は長崎まで全国を行脚するとともに、長崎や江戸で多くのことがらを学んだ。そして、ロシア、唐山や欧米列強に対する危機感を人一倍強く抱くようになった子平は、蝦夷地、琉球、朝鮮等の先制確保を説いた 『三国通覧図説』と、外敵から日本の国土を防衛するための兵学・兵術の入門書『海國兵談』とを著したのであった。
(中略)
林子平が死去してから約六十年後の嘉永四(一八五一)年、子平が遺した五冊の『海國兵談』 のいずれかを原本として松下淳校正の『精校海國兵談 十巻十冊 木活字本』が、そして安政三(一八五六)年には「準精校海國兵談 十巻五冊』が刊行された。これら増刷された『海國兵談』は幕府の要人や尊王攘夷の志士たちに読まれることになる。時まさに嘉永六(一八五三)年、 米国からペリーが黒船艦隊を率いて浦賀に来航し、ロシアのプチャーチンが長崎に来航する前後の風雲急を告げる頃のことであった。子平が『海國兵談』で述べていた「異国船を模倣した大砲を数多く製造し、これらを陸地に設置する」という発想は、翌嘉永七(一八五四)年一月中旬のベリー再来航に先んじて、先ずは品川台場"として実現した。また、子平が提示した敵艦に打ち勝つための数々の方策を知ることになった攘夷志士たちは、「黒船恐れるに足らず」との自信を抱くようになり、これが彼らの大胆不敵な行動の原動力となった。
このように幕末にペリーが来航するに及んで、江戸幕府もようやく海防についての重要性を認識するようになったが、さらに明治新政府は、外敵から国土を防衛するための様々な政策を推進してゆく。先ずは諸藩兵を基盤とした徴兵制軍隊を編成して「鎮台制」を整え、明治十(一八七七)年の西南戦争後は総兵力を倍増するとともに、海峡部などの重要地点に砲台を建設した。明治十三(一八八〇)年には東京湾口の砲台建設に着手し、さらに明治二十(一八八七)年には対馬・下関海峡に同二十二(一八八九)年には紀淡海峡にそれぞれ砲台建設を開始するとともに要塞砲兵部隊を逐次に編成した。一方海防に関しては、明治十六(一八八三)年から海軍艦艇の計画的な建造を開始して外洋艦隊と海防艦隊を整備するとともに、横須賀、呉、佐世保に三つの鎮守府を設置し、これらで全国の沿海防備を担当した。 各鎮守府には沿岸要地を守るための水雷隊が置かれ、さらに重要港湾等の防備のために機雷の購入・開発も進められた。
こうして、林子平が我が身の危険を顧みず 『海國兵談』 で提唱した「海国に肝要な武備」が、明治時代前半の“開国された日本”で、ようやく実現したのであった

 

林 子平(はやし しへい)
1738年幕臣岡村良通の次男として江戸で生まれる。叔父・林従吾(医師)に預けられる。伊達藩校「養賢堂」入校。仙台藩内を踏査。建白書『富国建議』執筆し、藩に提出。1772年蝦夷地探訪、75年長崎遊学しオランダ商館長ヘイトに出会う。77年唐人暴動を鎮圧。81年建白書提出。82年長崎で『蘭船図説』発行。85年『三国通覧図説』著す(48歳)。91年『海國兵談』全16巻38部刊行(54歳)。92年小伝馬町牢屋敷に入牢。93年写本4部作成後、仙台で病死(56歳)。

家村和幸(いえむら かずゆき)
兵法研究家。防衛大学校卒。北海道の普通科や機甲科部隊にて小銃手、戦車小隊長、情報幹部、運用訓練幹部として勤務。その後、方面総監部兵站幕僚、戦車中隊長、陸上幕僚監部教育訓練幕僚、偵察隊長、幹部学校戦術教官、研究本部員を歴任。第一線の歩兵・戦車兵から部隊運用、兵站、教育訓練、研究開発まであらゆる軍務を経験。退官後は日本兵法研究会会長として、戦略・戦術・戦法、武士道精神、古代史等を研究しつつ、広く国民に普及する活動を展開している。