5 始 業──あなたはいい先生だ
名前と顔を一致させるのにひと苦労
事務長の金さんは朝鮮系中国人ということもあり、家ではやたらとニンニク料理を食べているようだった。そのため、私たちはほぼ毎朝、彼の強烈な口臭に耐えねばならなかった。私が初授業を迎えた朝も、目の奥までしびれるようなニンニク臭が、新学期の空気を濁らせていた。
ちなみに、日本語学校にはさまざまな「臭い」が充満している。学校の上階には学生寮があったから、学生らが自炊するウズベキスタン、ベトナム、スリランカといった郷土料理の匂いが、朝、昼、晩と無国籍に漂っていたのだ。
また、体臭が強い人種はオーデコロンを常用するので、そのドギツイ刺激にも最初はかなり戸惑った。とはいえ、金さんが放つ加齢臭混じりのニンニク臭がダントツに凶悪だった。
「これほどの異臭に、本人は気づいてないのだろうか?」
私は心底、不可解に思っていた。
臭いのカオスと同じくらいに面食らったのが、出席簿にならんだ外国人の名前であった。カタカナばかりの羅列を初めて見た時は、本当に目がかすんだ。
とりわけスリランカ人は、ファーストネームとファミリーネームに加え、宗教や出身に関するミドルネームがゴチャゴチャとつくので、フルネームとなると30字前後となる学生も少なくなかった。それゆえ、学生1人ひとりの顔と名前を一致させて覚えるのが、生半可ではない試練になった。
クラスの大半を占めたウズベキスタン人学生は、全員男子でイスラム教徒だった。が、その3分の1くらいは飲酒もすれば、豚肉も食べていた。ウズベキスタンは中央アジアに位置するけれど、彼らの容姿や気質は、東洋よりも西洋に近い。体格がよく、考え方もイエス・ノーのはっきりした理屈屋が目立った。
クラスの4分の1ほどいたベトナム人学生らは、比較的大人しく、イージー・ゴーイングな面々で、彼らはたいてい居眠りばかりしていた。
残りのスリランカ人学生たちは、ベトナム人以上にのんびりした性格で、とりわけ陽気だった。ただし、ウソやデタラメを調子よく口にするという困った一面もあった。
演劇仕込みの声量で号令
そんな人種のるつぼでおこなった初講義は、予想以上に緊張した。本来、1学級の学生数は20人までなのだが、そのクラスには25人もの学生が詰め込まれており、たじろぐほどの熱気がこもっていたのだ。
「起立! 気をつけ! 礼! 着席!」
演劇でつちかった声量をふり絞って始礼の号令をかけると、机の上で突っ伏していたベトナム人学生らはかなりビックリしたようだった。そのうち1人は慌てて立ちあがり、イスを思いっきり後ろへ倒してしまった。
「教科書は? 鉛筆は? どうした! 教科書と鉛筆は、学生の魂だぞ。サムライの刀と同じだ。服を着るのを忘れても、教科書と鉛筆は持ってこなきゃダメだ!」
そんな具合に、まずは手ぶらで来ている学生らを厳しく注意した。
「サムライ先生。声が大きくて、よく眠れないです」
筋違いな文句をつけてきたウズベキスタン人学生のルスタムを無視して、私はケータイゲームで遊んでいる連中も片っ端からどやした。
「あなたたちは留学生なんだから、まずは勉強しなさい! 若ければ、何でも覚えられる。おジイさんやおバアさんになったら、覚えるのは大変だぞ。ゲームは、いつでもできる。おジイさんやおバアさんになってからしなさい!」
どこまで言葉が通じているのか見当つかなかったが、私は叱咤を続けた。
「そこ、授業中は帽子をかぶっちゃダメだ! 取りなさい」
「私は今日、髪の毛の形がヘンです。許してください」
真っ赤なアディダスの帽子をかぶったスリランカ人学生が、たどたどしい日本語でいいワケをした。
「ダメだ! 髪なんざ、ハゲてから気にしなさい。今すぐ取るんだ!」と、私は自分の坊主頭を指さしながら強くにらみつけた。私自身は、頭頂部の薄毛が気になり出した30代半ばから、ずっと丸坊主に刈りあげていたのだ。
すると、それを聞いていたルスタムが、こらえかねたように爆笑した。それにつられて、ほかのウズベキスタン人学生らも大笑いをした。職員の一斉交代という異常事態にナーバスになっていた学生たちは、私のがむしゃらなイニシアチブを好意的に迎え入れてくれたようだった。
その日、授業4コマを無事に終えると、ルスタムがつっと前へ進み出てうやうやしく一礼した。
「みんな、この学校がどうなるか、とても心配していた。でも、山下先生が来たので本当に安心しました。あなたはいい先生だ。ありがとう」
芝居がかったお辞儀する彼に、「調子のいいヤツだな」と苦笑すると、ほかのウズベキスタン人学生らが盛大な拍手をし、それをあおるようにスリランカ人勢も口笛を吹いた。ベトナム人学生たちはほおづえをつきながらニタニタ笑っていたが、いつの間にかルスタムと私のやりとりをケータイで撮影しており、その動画を私に見せつけて親指をピッと立てた。
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