立ち読み   戻る  

はじめに(一部)

 本書の目的は二つある。一つは、陸軍中野学校(以下、中野学校)の創設理念や教育内容を正しく評価し、現代社会における情報戦争(情報戦)への対応に役立てることである。
  もう一つは、中野学校がスパイ組織として非合法な活動を行なっていたなどという、誤った認識を是正することである。
  これらの目的追求の前提となるのが、信頼し得る資料をもとに、筆者が学んだ現代の情報理論も交えて中野学校を正当に評価することである。
  しかし、「中野は語らず」が信条となり、戦前と戦後を通して、中野学校関係者(教官、卒業生、親族など)による口外は控えられ、同校に関する正しい情報に接するのも容易ではない。
  他方、戦後の映画『陸軍中野学校』や、中野学校出身者(卒業生)の小野田寛郎少尉のフィリピンからの帰国などにより、世間に同校の一面のみがことさらに誇張、脚色される傾向があった。
  戦後に刊行された第三者の手による一部著書では、話題性を重視したのか、中野学校関係者にとって憤怒を禁じ得ない記述も少なくない。
  本書は、そういった著作や報道に影響を受けて「戦前の中野学校では尋常でないハードな教育訓練が行なわれ、卒業生はなんでもできる」といった中野学校や同校出身者(以下、中野出身者)を過大視するスーパーマン的な伝説を信じる人には、やや失望感を与えることになるかもしれない。
  というのは、ここで描いているのは、「中野出身者は秀英であったが、一年程度の学校教育で、いきなりスーパー秘密戦士≠ェ育つわけではない」というスタンスだからだ。すなわち中野スーパー伝説≠フ否定論をとっている。
  なぜなら、この中野スーパー伝説≠アそが、残念ながら中野出身者が戦後の帝銀事件や金大中事件などの重大犯罪へ関与したなど、いわれなき風説を世に蔓延させている原因だからだ。
  それらの中野学校に対する誤認識が連鎖して、現在の陸上自衛隊情報学校などへの誤った認識につながる可能性も懸念される(すでに一部でそうした事態も起きている)。
  このようなことは同情報学校の前身である調査学校および小平学校で一〇年以上も教鞭をとった筆者としてはどうしても看過できない。
  そこで、数年前に自衛隊を退官し、一民間人として外部から組織を眺めることができるようになった今、戦時での秘密戦の実相と秘密戦士を育成する学校教育のあり方を再び研究し直して、後世にいささかなりとも助言を残すことができればと考えた次第である。

 

目 次

はじめに 1

第1章 秘密戦と陸軍中野学校 17
   秘密戦とは何か? 17
目的が秘密である戦争手段/秘密戦とは「戦わずして勝つこと」/秘密戦と遊撃戦の違
い/極秘マニュアル『諜報宣伝勤務指針』
   秘密戦の四つの手段(諜報・防諜・宣伝・謀略)25
「諜報」は秘密戦の基本である/「宣伝」は秘密戦の中で最も知力を要する/秘密戦の主
体は「謀略」/消極的防諜と積極的防諜の違い/防諜は防御的であって最も攻撃的
   中野学校に関する誤解の背景 37
秘匿された中野学校の存在/映画『陸軍中野学校』の影響/小野田少尉帰還からの誤解

第2章 第一次大戦以降の秘密戦 44
   第一次世界大戦と総力戦への対応 45
総力戦思想の誕生と秘密戦/不十分だった日本の秘密戦への対応
   国際環境の複雑化と国内の混乱 47
複雑化する国際環境/二・二六事件と軍部の影響力増大
   共産主義の浸透 51
ソ連共産主義の輸出/日本共産党の活動/対日スパイ活動の増大
   盧溝橋事件勃発と支那事変の泥沼化 55
盧溝橋事件の勃発/支那事変の泥沼化

第3章 陸軍の秘密戦活動 60
   陸軍中央の組織 60
参謀本部第二部の全般体制/陸軍省兵務局の設置/第八課(謀略課)の新編
   秘密戦関連組織 64
陸軍技術本部/「陸軍第九技術研究所」(登戸研究所)/関東軍防疫給水部本部(第七三
一部隊)
   対外秘密戦の運用体制 70
   極東方面での対ソ秘密戦活動 72
特務機関の設置/満洲事変後に関東軍の情報体制を強化/対ソ諜報の行き詰まりとその打

   中国大陸での対支那秘密戦活動 78
満洲事変以前の対支那秘密戦活動/満洲事変による開戦謀略/土肥原、板垣の謀略工作/
失敗したトラウトマン工作

第4章 中野学校と学生 87
   中野学校の沿革 87
防諜機関「警務連絡班」が発足/岩畔中佐の意見書「諜報・謀略の科学化」/後方勤務要
員養成所長、秋草俊/養成所創設に向けた思惑の相違/中野学校創設に反対した支那課
   中野学校の発展の歴史 97
中野学校の四つの期/創設期(一九三八年春〜四〇年八月)/前期(一九四〇年八月〜
四一年一〇月)/中期(一九四一年一〇月〜四五年四月)/後期(一九四五年四月〜四五年八月)
   中野学校の学生 109
入校生の選抜要領/入校学生は主として五種類に分類/各種学生の概要
   中野学校および同学生の特徴 116

第5章 中野学校の教育 121
   創設期の教育方針と教育環境 121
秘密戦士の理想像は明石元二郎/準備不足の教育・生活環境/校外教官─杉田少佐と甲谷
少佐
   創設期の教育課目の分析 130
一期生が学んだ教育課目/判断力の養成を重視/科学的思考を意識した教育/危機回避能
力の取得/実戦を意識した情報教育/実戦環境下での謀略訓練/自主錬磨の気概を養成する
   太平洋戦争開始後の対応教育 146
占領地行政と宣伝業務/遊撃戦教育への移行/遊撃戦の基礎となる候察法
   中野学校の問題 150
情報理論教育は不十分/秘密保全が情報教育を制約/軍事知識の欠如
   中野教育の特徴 158

第6章 なぜ精神教育を重視したか 160
  「秘密戦士」としての精神 160
名利を求めない精神の涵養/生きて生き抜いて任務を果たす/自立心の涵養(二期生、原
田の述懐)
   楠公社と楠公精神 167
「楠公社」の設立/記念室での正座と座禅/楠公精神を学ぶ
   秘密戦士の「誠」173
「誠」とは何か?/民族解放の戦士となれ/武士道と秘密戦との矛盾克服
   楠公精神はなぜ重視されたのか 181

第7章 中野出身者の秘密戦活動 184
   長期海外派遣任務の状況 184
第一期生の卒業後配置/一、二期生の海外勤務
   国内勤務の状況 192
満洲事変以後に諜報事件が増大/軍事資料部での活動/神戸事件と中野出身者
   北方要域での活動 196
不透明なソ連情勢/中野出身者の活動
   中国大陸での活動 200
和平に活路を求めた政治謀略/日の目を見なかった政治謀略/中野出身者の活動/六條公
館の活動消滅
   南方戦線での活動 208
南方戦線の状況/南機関による対ビルマ謀略/「F機関」などによる対インド謀略/蘭印
での中野出身者の活動/豪北での中野出身者の活動/失敗した少数民族工作/人間愛を貫
いた中野出身者の活動
   本土決戦 223
沖縄戦と中野出身者の活動/義烈空挺隊と中野出身者/終戦をめぐる工作

第8章 中野学校を等身大に評価する 231
  「替わらざる武官」とは何か 231
過大評価が生み出す悪弊/中野学校の創設がもう少し早ければ?/「替わらざる武官」と
は何か/国家としての政戦略がなかった
   中野学校への誤解を排斥する 244
秘密戦の誤解を解く/根拠不明な謀略説を排除する/情報学校は中野学校の相似形ではな
い/謙虚にして敬愛心を持つ
   インテリジェンス・リテラシーの向上を目指して 255
秘密戦の研究は排除しない/批判的思考で発信者の意図を推測する/インテリジェンス・
サイクルを確立する/愛国心を涵養する/新時代の人材育成のあり方

おわりに 265
主要参考文献 270

上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。株式会社ラック「ナショナルセキュリティ研究所」シニアコンサルタント。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年にかけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定年退官。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引き』『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』『中国戦略“悪”の教科書―「兵法三十六計」で読み解く対日工作』『情報戦と女性スパイ』『武器になる情報分析力』(いずれも並木書房)、『未来予測入門』(講談社)。