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「おわりに」(一部)

 私たちが生きていく上での判断はいつでもセカンド・ベストでしかない。正しい決断、間違わない行動をいつもしたいと願っている。これがベストの判断だと思って行動する。しかし、事が終わったあとから見れば必ず、ああすればよかった、これが分かっていれば違ったように考えたのにと後悔することばかりである。だから、過去の人々の誤りをただあげつらうだけの非難は、無敗の後出しジャンケンと同じになり、あまり意味のあることではないように思う。
  私たちは結局、歴史については「物語」でしか理解できない。登場人物の言行を集め、それを因果関係や相関関係にまとめあげ、一つのストーリーをつくりあげる。そのなかで善玉、悪玉に人を仕立てて納得する。だが、それでは過去の時代を生きた人に寄り添うことはできない。それは同時に、いまをともに生きている自分の周囲の人への眼差しの温かさや冷たさに関わってくる。歴史を学ぶということは、現在を知り、他人との共感をどれだけ持てるかということに意味があると私は思っている。

 高木は完全に成功したわけではなかった。少なくとも海軍でも脚気は撲滅できなかったのだ。それは彼もまた、脚気のほんとうの病因を知らなかったからである。米を減らし、麦を食べさせ、タンパク質を増やしたことが彼のとった行動だった。それがまぐれあたりになった。たまたまタンパク質を多く含む食品の中にビタミンB1が多く含まれていたからである。
  ただ、それだからといって、高木も間違っていたとは笑えない。世界の中でも先駆けて食物と脚気の関連について気が付いた着意と、世間の多くの反対に屈しなかった勇気と努力はほんとうに尊いものである。医学の発見は過去の多くの失敗のあとに生まれてきた。
  森はどうだったか。高木や海軍を攻撃した森もまた苦しかったに違いない。研究者の言動は、その人のパラダイムに左右される。生育歴や学習歴などによって形成される社会観、人間観、歴史観などの総和を方法論というが、より広い意味のパラダイムといわせてもらう。森は国家によって選ばれ、国家の命令で学んだ。彼の境遇はすべて国家の配慮の賜物だと信じていたことだろう。そこに権力を持たされた者の悩みがあった。
  森は文豪鴎外としても生きたが、発展途上の国家の官吏としても十分に生きた。彼が医務局長であった時代、医官の人事を公正に行ない、軍陣衛生学を広め、後継者を育てた。脚気病調査会を立ち上げ、公平な態度でそれを主宰し、死ぬ直前まで研究会に出席し続けた。森は脚気研究の推移やそれへの評価などは何も書き残してはいない。
  森の責任の取り方は言い訳もせず、弁解もせず、ただ調査会の運営に誠実に対応したことだと高く評価するのは私だけだろうか。(荒木 肇)

目 次

はじめに 1

第一章 脚気の始まり 25

   脚気という憂鬱な病 25
    高木兼寛という若者 39

第二章 西洋医学の導入 45

   軍医誕生以前 45
    英国医学かドイツ医学か 64
    薩摩藩とウィリス 68
    海陸軍軍医の発足 75

第三章 脚気への挑戦 95

   高木の帰国 95
    脚気の原因は兵食にあり 110

第四章 陸軍の脚気対策 134

   陸軍兵食の始まり 134
    陸軍と脚気 142

第五章 森林太郎の登場 158

   森の医学研究のパラダイム 158
    海軍の「洋食採用論」を否定 164
    日清戦争の脚気の惨害 174
    台湾の叛徒鎮圧と脚気発生 187
    海軍軍医の告発と陸軍軍医の反論 198
    高木兼寛の退官以後 221
    北清事変の脚気の惨害 230

第六章 日露戦争の脚気惨害 234

   開戦時の陸軍兵力 234
    衛生部の配慮 237
    日露戦争の脚気 242

第七章 臨時脚気病調査委員会 267

   脚気調査会の発足 267
    オリザニンの開発 283
    海軍の脚気再発 297
    フンクの『ビタミン』の出版 305

 参考・引用文献 318
  陸海軍医務局長の歴任者 320
  おわりに 321

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか−安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊-自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『あなたの習った日本史はもう古い!』(並木書房)がある。