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松陰以前と以後 1 行動し、活きた思索を拡げる 1 ?「松陰以前」と「松陰以後」4 第一章 吉田松陰は何者か? 15 日本思想の探求者、そして求道者 15 旅に生きた詩人 21 水戸で『大日本史』に出会う 28 ジョン万次郎 31 激昂すると狂気という正気が宿る 35 維新の策源地、萩にて 43 人間としての成長 51 本居宣長の肖像画をみて驚いた 57 最初の松陰伝は徳富蘇峰が書いた 60 志士たちを発奮させた『新論』65 佐久間象山の巨大な影 70 横井小楠 77 第二章 松陰の思想と行動 81 ? 「死」についての考察 81 草莽崛起 87 繰り返し訴えているのは「至誠」93 松陰の思想は軍人精神に昇華した 95 武士道とは無縁の国ぐに 98 中国ではまったく顧みられない陽明学 104 先駆けて死んでみせる 109 第三章 松陰「以前」111 ? 「革命」ではなく、日本的な「維新」を説く 111 遣唐使をなぜ廃止したのか? 114 長崎から平戸へ遊学 118 尊皇の心と忠臣蔵 126 松陰の絶筆が発見された 128 松陰はなぜ平戸へ行ったか 132 現代版「元寇」の予兆 135 佐藤一斎とは何者か? 140 第四章 松陰につづく人たち 148 その後の佐久間象山 148 ? 「密出国の成功者」新島襄 150 松陰の血脈を継ぐ人たち 152 会津の至誠は天に通じなかった 154 保守主義者としての中江兆民 158 司馬史観の根幹にあるのは狭量な思いこみ 161 特攻隊生みの親、大西中将の自刃 164 安倍首相の松陰神社参拝の意義 167 GHQは吉田松陰を教えることを禁止した 174 君は国のために死ねるか 177 保守復活の兆し 180 いずれアメリカは日本を捨てる 184 第五章 情報、諜報、そして広報 189 松陰、諜報戦の重要性を説く 189 吉田松陰と孫子 193 密航して自ら「間諜」にならん 201 スノーデン事件の衝撃 206 松陰なら、偽善の外交を糾弾しただろう 213 儒学者が憧れた支那の現実 217 軍の破天荒な腐敗も始まった 222 終章 吉田松陰と三島由紀夫 229 ? 「戦いはただ一回であるべき」229 福田恆存を通してみる三島由紀夫 234 下田の三島由紀夫、下田の吉田松陰 241 人に先んじて 249 「あとがき」にかえて 霊魂を超えて思想がよみがえる 251
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「あとがき」にかえて 霊魂を超えて思想がよみがえる 本書の題名が思想の復活を意味するのは、もちろんそれなりの理由がある。 魂は復活するものだが、それは霊魂を超えた思想、理想の復権でもあり、日本の現状を見ていると保守復活の流れが日々濃厚となってきている。まさに大河ドラマになりにくい吉田松陰が登場するという画期的な出来事と直截に結びつくのではないか。 三島由紀夫が晩年に東武デパートで行なった「三島由紀夫展」は「小説の河」「舞台の河」「肉体の河」「行動の河」の四つに仕分けされていた。学生時代の筆者も見に行ったが黒が基調の不気味な写真パネルが並び、一緒に見入った古賀俊昭(現都議会議員)が、「三島さん死ぬんとちゃうか」とぽつり言ったことがいまも鮮明に耳元に残る。三島由紀夫の諌死はその一週間後だった。 三島展に倣って吉田松陰の人生を仕切ってみると「旅人」「教育家」「兵学者」、そして「思想家(行動する思想家)」となるのではないか。 過去に小説も含めて数百冊はあるといわれる吉田松陰論の嚆矢は徳富蘇峰である。戦前は日本思想の神のようにカリスマ化され、また著作は広く人口に膾炙された。 戦後、GHQの占領時代にウルトラナショナリストとか右翼とかいわれた松陰は危険視され、諸作の多くが焚書扱いにもなったが、主権回復後、徐々に全集がでるに及び、人気が回復した。受験期ともなると松陰神社に合格祈願に訪れる人はあとを絶たない。 ところが、不思議な現象がいまもつづいている。 教育家として、求道者としての松陰像は確定されたが、他方で「思想家」としての松陰はいまだ誤解されつづけている。あまつさえ、吉田松陰が「兵学者」であったことは綺麗さっぱり現代日本から消えているのだ。 孫子を究明し戦略的発想からの情報論として『孫子評註』を著した、その松陰の軍学者の側面を深く追求した吉田松陰論は森田吉彦ら少数しか存在しない。 筆者は戦国武将の伝記なども時折執筆しているので孫子の研究を以前からつづけているが、吉田松陰はさすがに山鹿流の兵法を極めているだけに地勢編は常識であり、風林火山などの戦術論は参考程度であるとして重きを置かず、孫子の要諦は「用間編」(スパイ、インテリジェンス戦略)にあると見抜いた事実こそ最も重視するべきと考えている。 ? 「蓋し孫子の本意は『彼を知り己を知る』に在り。己を知るには篇々これを詳らかにす。彼を知るの秘訣は用間にあり」(『孫子評註』) ?「用間」とは「間諜」の重要性である。国家が死ぬか生きるかはすべて軍隊の充実と情報戦争にあり、的確な情報を速く入手するばかりか、それを正しく分析し、武器として情報心理戦を戦うとするのが、じつは孫子の肯綮、吉田松陰はそのことを見抜いた。 現代人の吉田松陰への誤解は戦後の虚無的ともいえる非武装中立論、乙女の祈りのような平和願望、あるいは国際社会から身勝手と批判される「一国平和主義」の悪影響が甚大である。 外交とは戦争のソフトパワーの戦場であることを忘れた外務官僚が列強と交渉すれば、譲歩に次ぐ譲歩を重ね、結果的に日本の国益を著しく損なう。対米交渉は唯々諾々と、対中国には位負け……。 孫子の反語は「敵のことを知らなければ戦いは必ず負ける」である。 こうした文脈から筆者は従来の松陰論が軽視しがちだった兵法者としての実像に紙幅を多く割いた。 松陰が「旅人」というカテゴリーでは、実際に旅した行路をたどり、現場の風にあたり、土地の臭いを嗅ぎながら彼がなにを見、なにを考えたかを再考してみた。飛行機も新幹線もない時代の松陰はほとんどが徒と船旅だったが。 また思想遍歴を総括すれば、山鹿素行の軍学を学び、孔孟をへて支那の古典を渉猟する前期から、平戸・長崎へ遊学するや国際情勢に刮目すると同時に会沢正志斎の『新論』に心酔し江戸から水戸へと遊学する中期。そして水戸で『大日本史』を学び、自国の歴史がかくも誇るべき輝かしさに溢れていることを再発見した後期の吉田松陰は狭窄な防衛論を超えて、佐久間象山の開国論になびき、行動する思想家を目ざすようになる。 儒学を講じ、孫子を注釈する晩年は憂国の情ますます深まり、過激な主張を唱えるが、功業をもとめる後輩らを諫め、国家百年の大計が重要と説く。そのためには尊皇攘夷から尊皇開国、公武合体より倒幕論に急激に傾いていく過程は本文中に縷々述べた。 本格的な保守政権誕生以後、とりわけ若者と女性の間にあって真性の保守主義とはなにかが篤い議論になり始めた。松陰の思想への深い理解が始まったのである。 そして吉田松陰は何度でも復活する。 宮崎正弘(みやざき・まさひろ) 昭和21年金沢市に生まれる。早稲田大学英文科中退。『日本学生新聞』編集長、月刊『浪曼』企画室長をへて、昭和57年に『もう一つの資源戦争』(講談社)で論壇へ。以降『日米先端特許戦争』『拉致』『テロリズムと世界宗教戦争』など問題作を矢継ぎ早に発表して注目を集める。中国ウォッチャーとしても知られ、『中国・韓国を本気で見捨て始めた世界』『世界から嫌われる中国と韓国 感謝される日本』(徳間書店)『「中国の時代」は終わった』(海竜社)、『習近平が仕掛ける尖閣戦争』(並木書房)など多数。三島由紀夫を論じた三部作『三島由紀夫“以後”』『三島由紀夫の現場』(並木書房)、『三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか』(清流出版)『取り戻せ!日本の正気(せいき)』(並木書房)など文芸評論家でもある。 ホームページはhttp://miyazaki.xii.jp/ |