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まえがき

 英国の著名な戦略思想家、バジル・ヘンリー・リデルハートが、「平和を欲するならば戦争を理解せよ」といったことはよく知られています。
  確かに、戦争について無知であれば、平和について論じるにも限界があるように思われます。こうした言葉を聞けば、多くの人たちは、そうだ、もっと戦争や軍事についても冷静に学び、議論し、研究するべきだ、と感じるのではないでしょうか。私も基本的にはそうした見方に賛成です。
  しかし、よく考えてみれば、「戦争を理解すること」が、常に必ず「平和の実現」につながるとは限りません。というのは、まずそこには、論理的な必然性があるわけではなく、ただ期待や意気込みがあるだけだからです。
  社会の状況や諸問題は、それを正しく理解している当事者たちや中心人物の努力や誠意だけでは、どうにもならないことがあります。しばしば物事は、人々の気まぐれな情緒や、誤解や、利害、あるいは偶然や運としかいいようのないものによっても、大きく左右されるものです。
  特に戦争には、政治、経済、軍事の内実のみならず、地理、歴史、科学技術、宗教、時代の価値観、さらには指導者の人格など、実にさまざまな要素がかかわります。プライド、愛情、使命感、差別意識、憎しみ、狂気なども、人をいろいろな行動に駆りたてます。それらのすべてを十分に理解しつくし、コントロールすることは、大変困難です。
  また、戦争や軍事を正しく学んでおくことは、確かに社会を改善する条件の一つと考えられますが、どんな知識や技術にも、人や社会に対してマイナスの影響を与える可能性はあるものです。人が人である以上、ある問題についての分析や対応が、たとえ真摯なものであっても、誰もが納得のいく「平和」につながるとは限りません。それが人間や社会の冷厳な現実、あるいは宿命なのではないでしょうか。
  私は宗教学を専門としてきましたが、宗教学もまた、必ずしも、諸宗教に寛容な人間を育てたり、安定した幸せな社会作りに貢献できるとは限りません。学問が悪に加担し、悪を助長し、独善や偽善や差別を正当化した例は、過去にいくらでもあります。もちろん、人文社会科学も自然科学も、基本的には、純粋で一途な好奇心や探究心による営みです。しかし、しばしばその背後には、実に凡庸な名誉欲などが隠されていることもあります。
  どんなに高度な知識があろうと、人は判断や生き方を誤ることがあります。学問は幸せを保証しません。「幸福」を追い求める人間にとって、勉強や研究というのは、究極的には、この世のはかない営みかもしれません。宗教研究や戦争研究においては、特にそのことが、痛切に思われます。
  人間は、所詮は限界と矛盾を抱えた生き物です。人は優しさや善意を持つ一方で、どうしようもない欲望や身勝手さも捨てきれません。しかし、だからこそ、それから目をそらさずに、そうした矛盾をもっともよく露わにする「戦争」や「宗教」と向き合って、そこにあるさまざまな虚しさや絶望を、露悪的に見つめぬくことが大切であるようにも思われるのです。
  本書は「戦争」と「宗教」についてさまざまな角度から考えることを目指して、大学生や一般読者向けに企画されました。しかし、一冊で「宗教」のすべてが分かる本や、一冊で「戦争」のすべてが分かるような本は、この世にありません。時代や場所によって、実にさまざまな「宗教」や「戦争」があるからです。
  戦争について論じるうえでは、たとえば、国家や経済などについても考察が求められます。宗教について論じるうえでも、哲学・社会学・心理学など、さまざまな視点があります。時代や場所の拡大によって、事例研究の幅はどこまでも広がります。
  したがって、一冊の本で「戦争と宗教」の両方を十分に網羅することなど、あまりに困難です。本書は、そうした無理を十分に承知したうえでの試みですが、二人による共著というスタイルをとることによって、全体としてはおおむねバランスのとれたものにまとめられたかと思います。ここで取り上げた個々の話題の選び方そのものが、本書の個性だとお考えください。
「戦争」や「宗教」は、人間や社会の根本にある、実に奇妙で、不可思議で、困難な何かが、赤裸々に露呈される領域です。独特な宗教文化と、濃密な戦争体験をもつ私たち日本人は、もっと率直に、この二つについて考えてみてもよいのではないでしょうか。
  ここで取り上げた話題の一つひとつは、あくまでも導入的な解説ですが、最終的には全体として「人間とは何か」「社会とは何か」、そして「平和とは何か」という根源的な問題に突き抜けていくためのきっかけになればと思っています。
  本書のタイトルは、『人はなぜ平和を祈りながら戦うのか?』としました。ただし、タイトルがこうであるからといって、本書の最後で、その「なぜ」に対して明確な答えを提示しているわけではありません。これは、人間自身による根本的な解決は期待できない問いであり、背負い続けるしかないものです。無理に答えらしきものを示して取り繕うよりは、むしろ、人間は所詮はそういう動物なのだということを、ただ素直に見つめ、噛みしめることが大切であるように思われます。
  ここでは、平和を祈りながら戦争をする、という人間の矛盾をあらためて自覚し、またそれに由来する不安や不満、そして一縷の希望を、読者の皆様と共有することを意図して、こうした文言をタイトルに選んだという次第です。(石川明人)



目 次

 まえがき――石川明人 1

  序章 「戦争」とは何か? 9

T 戦争の現実 23

  第1章 人は人を殺したがらない 24
   第2章 それでも戦争はなくならない 39
   第3章 戦闘における生理と心理 57
   第4章 宗教と戦争の関係 73

U 戦いの中の矛盾 89

  第5章 「人を殺すな」か「人を殺せ」か? 90
   第6章 聖書・キリスト教における「平和」104
   第7章 軍事大国アメリカの宗教 118
   第8章 日本のクリスチャンと戦争責任 134
   第9章 キリスト教史の中の暴力と迫害 147
   第10章 戦場の聖職者たち 161

V 平和への葛藤 173

  第11章 テロをめぐる善と悪 174
   第12章 戦うことは絶対に許されないのか? 189
   第13章 兵役拒否と宗教 205
   第14章 世界の諸宗教の平和運動 222

 あとがき――星川啓慈 236

 

■あとがき

 本書を執筆した私たち二人は、いずれも宗教学ないしは宗教哲学という領域で専門的に仕事をしてきました。宗教について勉強していると、「どうしても戦争のことを知らなければならない」という場合が出てきます。人間の歴史をふりかえれば、ほとんどの時代・地域において何らかの「宗教」が営まれ、同時に「戦争」も絶え間なく起こり、両者は密接に連関しているからです。
  また、宗教も戦争も、共に「生と死」に向き合い、理想と現実との葛藤を抱え、合理性と非合理性をあわせ持つ、実に不可思議な人間の営みです。宗教の研究者は、あまり戦争そのものについて論じませんし、戦争の研究者は、あまり宗教そのものについて論じません。しかし、この二つはともに、他の動物には見られないという意味で、実に「人間らしい営み」です。したがって、宗教に関心のある人は戦争にも関心を持つはずであり、また、戦争に関心を持つ人は宗教にも関心を持つことが自然であるように思われます。
  宗教には、人に心の平安を与えたり、人を救済したりするという側面があります。その一方で、宗教には苛烈な側面もあり、他宗教に対して非寛容であったり、戦争を推し進めたりもします。
  また、戦争という「悪」にしても、これまでにいろいろな原因やスタイルのものがありますが、それらのすべてが純然たる悪意をその源としている、ともいい切れません。「宗教」も「戦争」も、不可思議な矛盾をはらんだ営みです。
  人間は、理想や道徳を頭で知ってはいても、必ずしもその通りに生きていくことはできません。「戦争をやめてみんな仲良くしましょう」と口ではいっていても、学校や職場のささいな人間関係に悩み、すべての人と仲良くできるわけではないというのが、現実の人間の姿です。「宗教と戦争」というテーマにおいては、そうした人間の根本的な矛盾が露わになります。
  本書の究極的な狙いは、狭い意味での「宗教」や「戦争」にかかわる議論そのものにのみこだわることではありません。むしろ、それらの問題を手がかりとして、「人間の根本的な矛盾」を自覚し、それを問うことです。
「戦争と宗教の交錯」を通して意識される問い――人は何のために生きるのか、人はなぜ矛盾や葛藤を背負わざるを得ないのか、という問い――は、広い意味での宗教哲学的な問いだといってもよいでしょう。
  今回、私たちは「戦争研究と宗教研究という二つの領域を橋渡しするようなものを書けないか」と思案しました。大学生や一般の方々を読者に想定しており、また紙面も限られていますから、あらゆる戦史や宗教文化に言及することはできませんでした。けれども、「重要な問題をシャープに抉りだして見せた」という自負がないわけでもありません。
  本書で論じたテーマや問いかけが、今後の宗教や戦争をめぐる議論のささやかな足がかりになることを願っています。
  最後になりましたが、本書の出版を快く引き受けてくださった、並木書房さんに心から御礼申し上げます。また、原稿を読み特に軍事に関して多くのコメントをくださった、石神郁馬さんにも御礼を申し上げます。(星川啓慈)

各章の執筆分担は次の通り。
序章、第1章、2章、3章、4章、5章、11章、14章、あとがき(星川啓慈)
まえがき、第6章、7章、8章、9章、10章、12章、13章(石川明人)

星川啓慈(ほしかわ・けいじ)
1956年愛媛県生まれ。筑波大学第二学群比較文化学類卒業、同大学大学院博士課程哲学・思想研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、大正大学文学部教授。専門は宗教哲学。著書に『宗教と〈他〉なるもの』(春秋社)、『対話する宗教』(大正大学出版会)、『言語ゲームとしての宗教』(勁草書房)、『宗教者ウィトゲンシュタイン』(法藏館)などがある。

石川明人(いしかわ・あきと)
1974年東京都生まれ。北海道大学文学部卒業、同大学大学院博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。北海道大学助手、助教をへて、現在、桃山学院大学社会学部准教授。専門は宗教学、戦争論。著書に『ティリッヒの宗教芸術論』(北海道大学出版会)、『戦場の宗教、軍人の信仰』(八千代出版)、『戦争は人間的な営みである―戦争文化試論』(並木書房)などがある。