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はじめに

 犯罪が複雑、多様化する現在、事件の解決には科学捜査が大きな役割を担っている。新聞やテレビなどでよく耳にするDNA鑑定や血痕の鑑定に用いられるルミノール反応などがそれだ。コンピューター技術を駆使したモンタージュ写真も犯罪捜査の現場で活躍していると思われるかもしれないが、現在ではほとんど使われていない。科学にも限界があるのだ。

  DNA鑑定もモンタージュもなかった江戸時代は「人相書き」が犯罪捜査に欠かせない手段だったが、実は、この昔ながらの人相書き(似顔絵)が現在、再評価され、犯罪捜査に重要な役割を果たしている。

  似顔絵の利点は何と言っても、その機動性にある。モンタージュと似顔絵の違いは、あとで詳しく述べるが、モンタージュ写真を作成する場合、目撃者や被害者ら事件関係者に東京・桜田門にある警視庁本部の刑事部鑑識課まで足を運んでもらい、機械の前で供述協力をしてもらわなければならない。その点、似顔絵は、スケッチブック一冊と鉛筆一本を持ってどこにでも駆けつけて、その場で、目撃者や被害者に会って、犯人がどんな顔をしていたか、話を聞きながら描けばいい。似顔絵はイメージを重視しているので、人物を特定しない分、かえって許容範囲が広くなり、幅広い情報を集めやすいという利点もある。

 私が似顔絵を描く場合、平均三〇分から四〇分ぐらいで素早く描き上げるようにしているが、子どもや幼児は飽きっぽいのでできるだけ早く仕上げないといけない。

  一カ月平均すると、警視庁管内の各警察署から一〇件から一五件ほど似顔絵の依頼がきたが、これまで似顔絵を描いてきて、いつも心に引っかかるのは、「人の記憶はどれだけ信頼できるものだろうか?」「人相、風体をどれだけ正確に再現できるだろうか?」ということだった。はっきり記憶していれば、証言は何度聞いても揺るぎないが、記憶があやふやだと証言しているうちに混乱して、二転三転してしまうことも多い。

  目撃者が複数いる場合は、見た人、見た位置、距離によって印象がずいぶんと違うため、整合性をとるのに苦労する。他人の言葉で記憶が左右されて証言が変わることもある。

  こんな経験をした。

  刑事が事件現場でよほど興奮していたのだろう。大声を出して、被害者から事件の状況や犯人の人相を聞いていた。その後、私が証言に沿って似顔絵を描くと、どうしてもその刑事の顔になってしまうのだ。それほど、刑事の調べが高圧的で被害者に強烈な印象を与えてしまったのだ。

  また、ある強盗事件で、夫が不在中に被害に遭った主婦は「主人にどう説明すればいいか?」ということばかりを考えていたのだろう。できあがった似顔絵がご主人の顔になってしまった。こういうケースは数えきれないほど経験した。

  狭い部屋で、証言者と向かい合って話を聞いていると、できあがった似顔絵が私そっくりになったこともあった。
  それほど、人の気持ちは繊細なのだ。

 私が似顔絵を描き始めた当初は、事件捜査に似顔絵を用いるということは想像もされていなかったが、実績をあげるにつれて評価され、今では似顔絵専門官も育成されている。似顔絵捜査は目立たない捜査手法だが、その出来映えが捜査の行方を大きく左右するのだ。

 本書は三八年間にわたる警視庁警察官人生と、一三年間に及ぶタイ警察での活動の記録の一部である。

  昭和三八(一九六三)年に警視庁巡査に採用され、蒲田警察署を経て警視庁刑事部鑑識課に転勤して以来、警部で退官する平成一三(二〇〇一)年まで、現場写真係として、殺人、強盗、強姦など数々の凶悪事件の事件現場を踏んできた。また、三島由起夫割腹事件、連続企業爆破事件、御巣鷹山の日航機墜落事故、オウム真理教による一連の事件等々、重大な事件事故も数多く担当した。

  本書では、似顔絵捜査官の事件簿とともに、手がけた多くの歴史的事件に隠されたエピソードについても触れてみたいと思う。

  なお、本文中の事件名・関係者名等、プライバシー保護のために一部変えている。



警視庁似顔絵捜査官001号[目次]

はじめに 1

1 蒲田警察署勤務 11

「七人の刑事」にあこがれて 11
新米巡査の初検挙 14
金庫破りの常習犯逮捕 17
列車踏切事故に初めて出動 22
刑事課の忘年会 25
青森まで指名手配犯を護送 28
雪の日の指紋採取 33

2 似顔絵との出会い 37

初めての即興似顔絵 37
似顔絵の特訓 43
陛下と署長のツーショット 45
上野公園の似顔絵師たち 54
「イラン人が食えて日本人が食えないわけがない」61

3 独学で似顔絵を始める 68

似顔絵描きの11カ条 68
身元不明の遺体を復元する 71
防犯カメラの映像から似顔絵描き 73
奥多摩の山中で見つかった腐乱死体 75
似顔絵で初の逮捕 79
人の記憶はどれだけ信用できるか? 82
自分の似顔絵が描けない 84
似顔絵に追い詰められた犯人 85
すぐにバレた狂言強盗 88
大先輩から似顔絵の依頼 91
機動性を発揮した似顔絵捜査 93

4 似顔絵捜査官 98

老人の目撃証言 98
四歳の小さな目撃者 104
「刑事さんよりもいい男」112
熟女の見栄とプライド 115
似顔絵作成中に犯人逮捕 117
霊が教えてくれた犯人 120
娘に乗り移った母の霊 124
伊豆の島で描いた似顔絵 126

5 昭和の事件簿 131

三島由紀夫割腹事件 131
三菱重工業連続爆破事件 134
ホテルニュージャパンの火災 137
羽田沖飛行機墜落事故 140
日航ジャンボ機墜落事故 144

6 タイ警察派遣 162

英語がまったく通じない 162
山の民と迎えた最初の正月 170
日本人はカモになる 178
いかさま賭博に泣いた日本女性 182
日本のおばちゃん三人組も騙された 187
目撃証言なしの似顔絵 190
敬愛する将軍閣下 194
無責任な若者 195
カオサンロード 199
オウム逃亡犯を追う 202
事件は続く 213
歓楽街の大捕り物 216
一枚の契約書に泣く 222
接待が事件となった 225
似顔絵の女 227

「あとがき」に代えて
似顔絵捜査官001号 232

戸島国雄(とじま・くにお)
1941年生まれ。1965年警視庁巡査。1970年警視庁刑事部鑑識課現場写真係。1976年初めて犯人の似顔絵を作成。1981年上野公園の似顔絵師のもとに2年間通いながら、独学で似顔絵描きをマスター。鑑識課在職中に千枚近い似顔絵を作成し、事件解決に貢献。警視総監賞・部長賞等107回受賞。1995年JICAの専門官として、タイ国家警察局科学捜査部に派遣され、鑑識捜査技術を指導。1998年帰国。2000年似顔絵捜査員制度の第1号を拝命。2001年警視庁を定年退職。2002年3月JICAのシニアボランティアとして再びタイに渡る。警察大佐を拝命。2011年7月帰国。著書に『タイに渡った鑑識捜査官?妻がくれた第二の人生』。