終わりに
はじめは二年の予定だったタイ国勤務が、タイ国家警察の要請もあり二度延長し、気がつくと十数年の月日が経過していた。一九九五年に微笑みの国「タイ」に着任したばかりの頃は、知らない土地で、見る物、聞く物がすべて初めてで、失敗は数知れなかった。
仕事と人間関係の壁に突き当たり、解決の糸口をもとめて灼熱の大地を大粒の汗を流しながら毎日さまよい歩いたこともあった。それも今から思うとなつかしい思い出で、数多くの人間模様のドラマを自分の目でしっかりと見てきたつもりだ。
私はどうしてタイ王国へ行ったのか。誰かに勧められたというわけではなかった。
一九九四年三月、最愛の妻を亡くし、来る日も来る日も誰もいない暗い我が家に帰り、手探りで電灯をつけてそのまま仏壇の前に座って、「今日も元気に帰ってきたよ」と、独り言を言いながら線香を二本取り出しマッチで火をつける。手を合わせてから「また、明日ね」と言って、一人きりの夕食をとる。そのころには部屋じゅうに線香の香りが広がり、妻が亡くなったことを実感させられる。
一年後、妻と暮らした家に一人でいるのはつらく、新天地でもう一度、自分の可能性を試してみようと、JICA(国際協力機構)が募集している技術指導専門官に応募することにした。これまで警視庁から刑事捜査の鑑識専門官が一名ずつタイ国に派遣され、現地の鑑識活動を指導している。任期は二年。選考試験に合格し、一九九五年一一月より、単身赴任した。これをきっかけに私はタイと深く関わることになり、現在に至っている。
日本の優れた技術や技能のノウハウを海外に提供する国際協力活動は、発展途上国の国造り、ひいては人づくりに多大な貢献をしている。それは人と人との心のふれあいを通じて行なわれるもので、決して一方通行の関係ではない。教える側も教わる側も、ともに学ぶことがたくさんある関係である。
やさしく、思いやりがあり、物を大切にし、愛国心を持ち、勤勉なタイ人の気質に、今の日本人が忘れかけている古き良き日本人の美点を見る思いがした。
タイから帰国して、いろいろなことが走馬灯のようにクルクルと頭の中に浮かんでは消えて行く。その思い出を記録に残すため、つたない文章でまとめてみた。
日本とタイ王国との平和がいつまでも続くことを願い、出会ったすべての人たちとの強い絆に心から感謝する。
微笑みの国「タイ」ありがとう。
戸島国雄(とじま・くにお)
1941年1月1日生まれ。1960年自衛隊に入隊。1965年警視庁巡査。1970年警視庁刑事部鑑識課現場写真係。三島由紀夫割腹事件、三菱重工爆破事件、ホテル・ニュージャパン火災、日航123便墜落事故、オウム真理教関連事件などを担当。警視総監賞部長賞等107回受賞。1995年JICA(国際協力機構)の専門官として、タイ内務省警察局科学捜査部に派遣され、犯罪捜査および現場鑑識の指導にあたる。1998年帰国。警視庁似顔絵捜査官が設立され、犯人手配用の似顔絵専門捜査官001号の任命証を警視総監より受理。2001年警視庁を定年退職。2002年3月JICAのシニアボランティアとしてふたたびタイに渡る。警察大佐を拝命。2004年12月、スマトラ島沖地震による大津波発生の直後から被災地に入り、遺体の身元確認に従事。2011年7月帰国。『似顔絵捜査官001号(仮題)』の出版も予定。
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