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目 次

 

序章 会津・二本松があったから日本は植民地にならずにすんだ  9

二本松少年隊 9
大人たちも少年隊に負けず勇敢に戦った 12
城を枕に討ち死にしたのは二本松藩だけ 15
二本松は武士道の精髄を尽くした 17

第一章 世良修蔵にみる東と西  19

奥羽僻遠の地にして天下の形勢に疎く 19
薩長の私戦 23
元凶は世良修蔵にあり 26
酒色的淫楽に対する東と西の感覚の差 28
世良事件の最大の被害者は二本松藩 30
世良の取り巻きたち 32
「奥羽皆敵」は恚U書 35
武士の面目 38

第二章 白河戦争  46

戦力比一対十 46
滑腔式銃(火縄銃など)の命中率はきわめて悪い 48
より高性能の施条式銃(ライフル銃)へ 50
前装施条式銃(ミニエー銃など)の発射速度は遅い 51
ゲべール・ミニエー対スナイドル・スペンサー銃 54
東軍に〈大砲〉はなかった 55
最新式銃は一挺千五百万円 58
大砲は科学技術の結晶 61
西軍唯一の敗戦 64
大榴散弾 66
一方的虐殺 68
白河奪回ならず 70

第三章 目指すは二本松  76

鎮撫から征討へ 76
無視された須賀川軍団 78
まず棚倉へ 80
いわき三藩も陥つ 83
秋田藩の〈裏崩れ〉 85
桂太郎の功績 88
三春は〈反盟〉した 90
二本松兵は虐殺された 94
本宮失陥 97
小浜進駐 100
西軍城下に迫る 103

第四章 降伏か死か?  108

勧降使の派遣 108
功をもって罪をあがなえ 111
黒羽藩は酷使された 113
降伏してからの方が損害が大きい 115
米沢藩は〈武士の誇り〉を失わされた 117
二本松藩がもし降伏していたら 120
大書院会議 123
ただ〈信〉に殉ずるのみ 125
徹底抗戦 126
重臣二人間に合わず 128
二心なし 131
非戦闘員の退去 133

第五章 少年隊出陣  139

少年隊は六十二名より多かった 139
補助的兵士 142
それぞれの出陣 144
木村砲兵隊 145
砲 戦 148
壊 滅 151
敗残へ 153
老人と少年 156
顕彰と慰霊のあいだに 158
大隣寺にて 160

第六章 落 城  167

二本松対決 167
二本松藩は三層の守備陣をしいた 169
朝 霧 173
三浦義彰(権太夫)の恬敵行為 175
決死隊 179
攻撃展開 181
最強的部隊 185
必死隊 189
焼 尽 191
武士道の精髄 194

第七章 流 亡  200

脱 出 200
母成峠 203
逃避行 206
武装解除 209
降 伏 212
善 政 215
護 送 218
処 分 220
一死をもって主人左京の罪を贖いたく候 222
風に散る 226

終章 武士道  233

二本松藩士岡山篤次郎・十三歳 233
介 錯 236
二本松藩そのものが「二心なし」だった 238
なぜ「武士道とは死ぬべきものと見つけたり」なのか 241
武士道とは人間道のうちの最高的形態 243

あとがき 247

コラム(一)「福島県は本当は恣本松県揩ノなるはずだった」 43
コラム(二)「非近代都市・二本松」 73
コラム(三)「時世の波に乗り切れない丹羽家の家風」 105
コラム(四)「関ヶ原で対応ミスをして国を失った二代目」 136
コラム(五)「三代目光重のミスは武士社会の隔離」 163
コラム(六)「藩主殺害事件」 196
コラム(七)「京都警衛」 230




あとがき

 

 

 要領が悪いせいかはわかりませんが、時代の変化にうまく適応できないという二本松人の特性(?)は、現代に至ってもあまり変わっていないようです。
  二本松には名物が少なくありません。名所・旧跡も数多くあります。春には、市内に戊辰以前からある寺々の桜が満開になります。かつての二本松城は今は公園になっており、そこの桜も東北では有数の規模を誇っております。市街を一歩離れると、いたるところ清らかな流れがあり、豊かな森もあります。キャンプ地もゴルフコースも散策路もあります。
  古い民話や伝説もあります。平安の歌人平兼盛の「みちのくの安達ヶ原の黒塚に、鬼棲めりというはまことか」、で知られる鬼女伝説です。今はそのあたりは『安達ヶ原ふるさと村』になっており、かつての武家屋敷や農村生活の様相がうかがえる資料館もあります。
  ロマン派には〈智恵子〉です。智恵子の実家は二本松の造り酒屋で、現在は記念館になっております。高村光太郎の「あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川」で知られる安達太良山(一七〇〇メートル)は、今はハイキングコースになっており、子ども連れでも簡単に登れます。ドライブ派でしたら、母成グリーンラインを越えて会津・裏磐梯あたりにまで足を伸ばしてもよいでしょう。
  市内ではちょうちん祭りです。例年十月四日〜六日まで行なわれ、日本三大ちょうちん祭りの一つといわれております。それが終わると菊人形展です。秋の深まるまで二本松の町は菊一色になります。懐旧派にはもちろん、本書の主題である二本松戦争関連です。城址公園だけでなくその周辺にも、当時の戦いに関する史跡が数多く遺されております。岳・塩沢、昔から知られた温泉もあり、冬期にはスキーも楽しめます。二本松には春夏秋冬を通じ、あらゆる世代・階層にも楽しんでもらえる施設も自然条件も備わっているといってよいでしょう。
  交通の便にも恵まれております。新幹線の郡山で在来線に乗り換えて東京からは二時間、高速道路を使っても三時間で行けます。
  にもかかわらず、二本松は全国区的にはあまりなっておりません。桜は三春の後塵を拝し、ちょうちん祭りは秋田の竿灯ほどは知られておらず、少年隊も会津の白虎隊のようには有名ではありません。実質ではいずれもひけをとっていないのにです。
  それもまた、時世の波をうまく御しきれないという、二本松藩以来の二本松人の特性によるものなのでしょうか。

 本書は平成二十二年に「軍事情報」というメールマガジン誌に連載された、『数学者が見た二本松戦争』を底本とするものです。単行本として刊行するにあたり加筆・補正を加えました。その単行本化の企画は連載終了後、ただちに持ち上がったものですが、ある事情で一時、中断されておりました。平成二十三年三月十一日に発生した例の東日本大震災のためです。
  実をいうと私はその中断された時点で、本書の出版はかなり延期になるだろう、ことによったら出版そのものを断念しなければならないのかもしれないと、考えておりました。今回の震災では、二本松も含む東北地方が甚大な被害をこうむっております。その東北が舞台の、しかも一世紀半も昔の戊辰戦争の記録など、この出版不況の時代、刊行されても採算がとれるほど売れるとは、私自身、全く確信が持てなかったからです。
  それが本書の出版元である並木書房の「東北がこれほど大きな直接的被害や風評などによる間接的被害をこうむっている今日だからこそ、本書を刊行する意義があるのではないか」という強い意向により、予定通りの出版となったものです。
  たしかに、戊辰戦争における二本松藩の対応は、明治期のわが国論壇のリーダーだった徳富蘇峰が「会津・二本松があったから日本は植民地にならずにすんだ」と激賞し、実際に新政府軍の最高司令官として二本松に攻め入った板垣退助が「武士道の鑑」と絶賛したことでもわかるように、日本人の民族精神の原点というよりは美点の一つといえる武士道的精神を具現した見事なものでした。
  日本全体が、特に東北地方が未曽有の大災害にうちひしがれている時世だからこそ、二本松藩の軌跡を一般に知らしめることが重要であり、またそれが筆者の使命ではないのかと思い直した次第です。
  本書出版の機会を与えてくださった並木書房と、メールマガジン「軍事情報」を見返りなどなしにほとんど独力で発行されておられる竹本哲也氏に、あらためてお礼を申しあげる次第です。

 かつて平安の昔、奥州と関東・中部地方との境界には関所が設けられておりました。勿来の関、白河の関、念珠ヶ関のいわゆる奥州三関です。それらは当時は蝦夷と呼ばれていた奥州人の南下を防ぐためのものでした。だが、その役を果たしたことは一度もありません。奥州人がそれら三関を越えて南方に攻め込んだことは一度もなかったからです。むしろその逆でした。奥州人から見れば南方人にあたる頼朝が平泉に攻め入って藤原三代を滅ぼし、同様に南方人の秀吉や家康が奥州全土を屈服させました。二本松戦争をも含む戊辰戦争も、やはり南方人が奥州に侵攻し実力で攻め取ったような戦いです。
  以来東北人は、その実力で圧服させられた南方人を、縁の下の力持ち的に支える役割りを果たしてきました。近代日本における最大の国難日露戦争において、わが国を勝利に導いた要因の一つは、仙台・弘前ら東北の師団の勇戦であるといわれます。第二次大戦後のわが国の復興・高度成長を支えたのは、東北から出稼ぎや集団就職で南下してきた勤勉な労働者たちでした。今日においてもそれは同様です。例の福島原発のモンダイも、結局は都会地に電力を大量にそして安定的に供給してわが国の繁栄を支えるために、その縁の下の力持ち的役割を受け持たされた東北人が犠牲になった事件、のようなものでしょう。
  その東北が日本開闢以来という大自然災害で苦しんでおります。自力での復興はほとんど不可能的といわれております。私が東北人(秋田)だからいうわけではありませんが、かつてわが国の復興・繁栄を支えてくれた東北を、今度は日本全体で支え励ましてやる責任と義務があるのではないでしょうか。また実際、さまざまな人たちがそれぞれの立場での支援活動が行なわれているようです。
  私も本書において次のようなメッセージを発することにより、微力ながらその一翼を担いたい所存です。
『かつて東北にはかくも崇高な精神を有する集団がいた』
                                         渡部由輝

 

渡部由輝(わたなべ よしき)
1941年秋田県に生まれる。東京大学工学部卒。大学卒業後は学習塾、予備校で数学を教えるかたわら、数学関係の参考書・問題集・啓蒙書の著述に従事。なかでも『数学は暗記科目である』(原書房)は、数学の問題はいかにして解かれるかを明らかにした名著として、数学関係者の間で評価が高い。他に『数学はやさしい』『偏差値別数学』『発想力できまる数学』(いずれも原書房)、『崩壊する日本の数学』『小学校からの東大入試戦略』(いずれも桐書房)など、数学関係の著書多数。学生時代から登山と戦史研究を趣味とする。2010年から「数学と戦争」をテーマにした論考をメルマガ「軍事情報」で連載中。