序
イエズス会巡察師フランシスコ・カブラル司祭が、天草志岐浦に上陸したのは元亀元(一五七〇)年のことである。東洋の布教に遠大な野望を抱くカブラル司祭は、すぐに日本の現状が期待とほど遠いものだと気づいた。中でも腹立たしいのは宣教師たちが土地の悪習に染まっていることで、服装なども必要以上に華美なものだったことである。
「聖職者はもっと質素にすべきです。自分に厳しくなくてはなりません」
宣教師の修道服は、すべて黒木綿にすべきと説く三十七才のカブラル司祭に、六十才の日本布教長コメス・デ・トルレス司祭らはあわてた。
「私たちはだれも自分を飾るためにそうしているのではありません。ここは師が考える以上に見かけが大事な国です。私たちが質素な身なりをしていれば、それだけで価値のない者とみなされるでしょう」
その国の実情に合った布教を主張するトルレス司祭らの考えを、貴族出身で独善的なカブラル司祭は理解できなかった。やがて信徒は離れ、カブラル司祭への反感は日増しに高まっていった。しかし、老齢のトルレス司祭が亡くなると、日本布教長に任命されたのはカブラル司祭であった。来日以前からカブラル司祭と対立する、ニエッキ・ソルディ・オルガンティーノ司祭など「あの方ではこのあといったいなにがどうなるかわからない」と嘆いた。
そのカブラル司祭が、来日後一人の日本人をインドに送ったことは司祭に近い数人以外には秘密にされていた。どこで知り会ったのか、ポルトガル語を上手に話す初老の男を、ゴアにあるイエズス会本部に日本語教師として送ったというのである。
長崎を出てから日が経つほど、ガレオン船の空気は奇妙なものに変っていった。イエズス会から預かった男があまりにも陰気だったからである。男はいつも黒頭巾をかぶり目だけを見せ、首に大きな銀の十字架を下げていた。だがその日本人をキリシタンと信じる者はいなかった。船員たちは口々に「あいつは悪魔の使いだ。あんな男がいるとこの船が呪われる」と言った。さらにもう一つ、男が気味悪かったのは、日暮れのころしか船室を出なかったことである。そのときだけ男はデッキに上がり海に沈む夕日を眺めていた。
船員たちが、
「海は青空の下で見るのが美しい。あなたはなぜ夕焼けの海ばかり見ているのだ」
と聞くと、男は一度だけその理由を話した。
「わしは夕日を見ているのではない。深くなってゆく闇を見ているのだ」
円堂 晃(えんどう あきら)
1952年生まれ。1974〜2001年まで神奈川県、群馬県で中学校国語教員。専門の日本文学の他に歴史と古美術に興味を持ち研究にあたる。とくに日本古陶磁器に明るい。2005年にノンフィクション『「本能寺の変」本当の謎―叛逆者は二人いた』、2006年に『政変忠臣蔵―吉良上野介はなぜ殺されたか?』(並木書房)を発表。群馬県太田市在住。 |