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目次

檄 楯の會隊長 三島由紀夫 3
憂国忌趣意書 林 房雄 8
プロローグ あれから四十年が経過した 三島由紀夫研究会 15

第一章 「憂国忌」前史(昭和四十年〜四十五年) 23

「憂国忌」の源を辿ってみる 齋藤英俊 25

《証言》富士の原野の高笑い――体験入隊「一期生」のこと 山本之聞 35
    日学同黎明期の活動と森田必勝氏のこと 高柳光明 39
    全日本学生憲法会議の思い出 小針 司 51
    「わが友ヒットラー」の時代考証――三島さんとの出会い 後藤修一 54
    ワセダハウス 42

第二章 「三島事件」の衝撃(昭和四十五年〜四十六年頃) 57

三島事件前後の民族派学生運動 玉川博己 59

《証言》学生を励ました支援者の熱誠――日学同関西総支部 赤松一男 73
    高校生組織を母体に発展――日学同東海総支部 松田 豊 77
    壬生の屯所の仲間たち――日学同京都支部 府越義博 81
    「全国高校生協議会」のことなど 後藤修一 85

第三章 三島由紀夫の「不在」のはじまり(昭和四十六年〜五十一年頃)87

高揚する新民族派運動 片瀬 裕 89

《証言》憂国忌外史 石 大三郎 109
    神々と ともに成りませ 街づくり――日学同九州総支部 福島 敬 117
    福岡憂国忌 馬場日出雄 120

第四章 十年後の三島由紀夫(昭和五十二年〜五十五年頃) 123

追悼十年祭 憂国忌 佐々木俊夫 125

《証言》回想・三島由紀夫文学セミナー 唐澤 淳 139
    研究会を支えた女性たち 佐々木俊夫 142
    重遠社創建 後藤晋一 145
    散逸した資料について 佐々木俊夫 153
    檄文朗読 132

第五章 昭和から平成へ(昭和五十五年〜平成元年頃) 157

憂国忌を支えた新民族派の活動 佐々木俊夫 159

《証言》昭和天皇崩御 菅谷誠一郎 181
    重遠社国際部 後藤修一 186
    国際青年年世界大会に日本代表として出席 藤井義久 188
    自衛隊体験入隊のこと 正木和美 191

第六章 追悼二十年目の高揚(平成二年〜九年頃) 193

追悼二十年祭 憂国忌 佐々木俊夫 195

《証言》私が市ヶ谷台一号館の保存を求める理由 石 大三郎 201
    追悼二十年企画「三島由紀夫映画の世界」を開催 佐々木俊夫 208
    もう一つの「東京裁判」訴訟 206

第七章 受け継がれゆく憂国忌(平成十年〜二十二年) 213

三島由紀夫研究会の現在 菅谷誠一郎 215

《証言》三浦重周氏の自裁 後藤晋一 226
    あれは幻の歌だったのか――追想 三浦重周さん 山平重樹 234

終章 『英霊の聲』は現代日本に蘇るか 宮崎正弘 237

資料編 261

憂国忌追悼文――林 房雄 262 保田與重郎 263 浅野 晃 264
「追悼の夕べ」発起人名簿 265
「憂国忌」発起人名簿 265
「憂国忌」四十年の記録 268
日本学生同盟結成趣意書 278
「日本学生新聞」創刊号抜粋――林 房雄 280 三島由紀夫 280
三島由紀夫研究会
  結成趣意書 281 公開講座等開催記録 282 文学セミナー開催記録 300
  憲法問題研究会公開講座開催記録 303

あとがき 305
執筆者経歴 306


プロローグ あれから四十年が経過した

 没後、四十年にもなるというのに未だ三島由紀夫文学のブームは去らない。
  大学の卒論の選択でも一番人気。海外でも日本を代表する作家は三島というのが定番。文藝評論家の秋山駿氏が言ったように三島由紀夫は「死後も成長し続ける作家」である。書店には必ず三島由紀夫本が並んでいる。
  三十年忌直前には山中湖畔に「三島由紀夫文学館」が開館し、レイクサロンと銘打った催しも数回もたれている。
  この三島由紀夫文学館では専門家が資料の発見に取り組んできたが、従来の定説をくつがえすような貴重なノートなどが山積みで、たとえば『盗賊』という作品には五、六通りのシナリオが存在していたことが分かった。これらの研究成果は新しい全集にほぼ収録された。また年二回刊の『三島由紀夫研究』(鼎書房)もすでに九巻である(平成二十二年十月現在)。
  ともかくあの驚天動地の衝撃から四十年。ちょうど川原の小石をとびこえるような、時間的空間が感じられるだけ、すべては昨日の出来事のようにも思える。
  そして三島由紀夫の諫死事件以後、日本がますます悪くなった。日本が日本でなくなると氏が予言したように。
  事件直後に黛敏郎氏が〈精神的クーデター〉だと言われたが、そのメッセージを当時理解したひとは少なかった。あれほど口をきわめて三島を批判していた江藤淳氏も三島と西郷隆盛を同列において論じるという劇的なる変化。いまでは憂国忌は『歳時記』に入る季語となり、国民的行事として憂国忌が迎えいれられた。
  国際環境のなかでの日本の孤立した位置の情けなさ、やるせなさも憂国忌に集まる参加者の胸に去来するのかもしれない。
  昭和四十五年の秋までに全共闘運動は雲散霧消し、全学連はバラバラになって内ゲバの繰り返し。学生運動、政治運動は右も左も下火となって政治の季節は終わろうとしていた。どんな惹句をもうけて政治集会を開催しても、会場は閑散として閑古鳥が鳴いていた。
  自主憲法、自主防衛、領土回復などを訴えてきた民族主義学生運動の小さな灯火もまさに燃え尽きて、誰にも知られず消えようとしていた。そんな折に三島・森田両烈士の事件は勃発したのだった。
  事件前の三年間、日本学生同盟(日学同)の講演会などに応援にきてくれていた三島由紀夫の言動は過激だった。初期の楯の会は日本学生同盟のメンバーが主体で構成されていた。三島とともに自刃した森田必勝は、日学同に前年の一月まで所属、全日本学生国防会議議長を務めた。
  だが三島は大衆組織とか、地道なオルグ活動とかの日本学生同盟の路線にはまるで興味をしめさなかった。憲法改正、防衛力強化などといった考え方は同じだったが政治運動の方法が異なっていた。したがって自衛隊での決起をうながしたうえでの自刃は学生運動側から言えば、天と地が入れ替わったような衝撃となった。
  事件の報を聞いて五味康祐氏(剣豪作家)は「俺達はなんと下らない戦後人生をおくってきたのか」と自嘲気味に発言。福田恆存氏は「わからない、私には永遠にわからない」とする名言を残した。
  新聞もテレビも三島を犯罪者のごとく扱っていたから文壇、論壇の人々はなかなか積極的に三島評価にたちあがらなかった。三島をあしざまに罵倒したほうがマスコミの主流に乗れると計算高い評論家も大勢いた。大きく揺れた世論だったが、事件直後から文壇を中心に追悼会の発起人を募っていくうちに、三島由紀夫氏を真っ正面から追悼しようと張りつめた空気が急激に広がった。
  そして、林房雄、佐伯彰一、黛敏郎、藤島泰輔、山岡荘八、川内康範氏ら四十数人がたちあがり、昭和四十五年十二月十一日池袋の豊島公会堂でひらかれた最初の三島追悼会には一万人が結集した。
  日本学生同盟所属の学生は裏方に徹し、会の準備は迅速に進んだ。「追悼の夕べ」と名づけられた会には全国から浄財も寄せられ、同調者は急速に広がった。
  左翼各派はいっさいの妨害をしなかったばかりか、むしろ旧三派系やノンセクトラジカルといわれた全共闘系の学生も三島由紀夫の行動に大変な衝撃をうけた。なぜなら言動と行動が一致をみせる陽明学――これこそが氏の思想の中核――を戦後知識人は忘れてしまい、言挙げのなんたるかを長きにわたって閑却してきたからである。「命より大事なものがある」、「伝統、文化をまもる」ためにこういう行動をとることもあるのか!
  事件の衝撃と感動はたちまちにして海外に報ぜられた。一般市民にも澎湃として拡大しはじめ、祖国のおかれた危機を学ぼうとする若者たちを輩出させた。日本人がうけた衝撃はそれほど深いものであった。こうして初回の追悼会には総代を林房雄がつとめ川内康範、藤島泰輔、黛敏郎、麻生良方氏らが発言、また会場には中河与一、保田與重郎氏らの顔があった。これが憂国忌の原型になった「追悼の夕べ」である。
  翌昭和四十六(一九七一)年二月、三島氏の思想と行動を通して日本を考えよう、との趣旨で「三島由紀夫研究会」の結成をみた。結成趣意には〈その祖国への愛と憂いを継承する〉などが謳われた。
  爾来、原則毎月一回、日本を代表するあらかたの知識人、教授、文藝評論家、アーチストなどが三島を論じ、おもいでを語ったりする会が三島由紀夫研究会「公開講座」と銘打たれて開催され、いまも続いている。
  憂国忌開催にはこの三島研究会があたり、当時は学生、青年が主体だった。OLや劇団員、市井の人々、とりわけ若い女性の参加も目立つようになった。三島を論じる動きも活発になった。
  文学論、哲学論、ドキュメントなど、いわゆる〈三島本〉が書店にあふれる。林房雄、村松剛、村上兵衛、野口武彦、奥野健男、坊城俊民、野坂昭如氏らがつぎつぎに単行本を上梓、雑誌は三島特集号をだす。映画も上映される。氏の原作による芝居も上演された。そして一周忌が近づいた。瞬く間だった。憲法改正を叫んでいる三島氏の檄文から、改憲運動も力をえた観があった。

「憂国忌」命名の秘話
  毎年命日のたびに恒常的な追悼会の企劃が練られたが、最初の議論は追悼会の名称だった。「憂国忌」に決まるまでに「潮騒忌」、「金閣忌」などいろいろな意見があった。とくに文学ファンは政治にのみ傾斜することに躊躇した。
  一九七一年の春には三島事件の裁判が始まり夏には遺骨盗難事件なども起こった。憂国忌の準備には三島研究会を主体に全国から手弁当で有志が参集した。直前には関西の学生らがバス二台で駆けつけたし、当日の九段会館には早朝から行列ができはじめ、昼にはなんと武道館をぐるりと回って千鳥が淵公園まで一万人以上の列ができた。
  発起人も川端康成、小林秀雄らが引きうけ忽ちにして著名作家、文化人、俳優、実業家、評論家、大学教授ら数百名にふくらんだ。山岡荘八氏は「白き菊 捧げまつらむ憂国忌」とする献句をとどけてくれた。遠く海外からもサイデンステッカー、アイバン・モリス氏らからのメッセージが届いた。
  こうして第一回憂国忌(第二回追悼会)は黛敏郎、藤島泰輔両氏の司会で始まり、映画「炎上」(市川崑監督)が上映された。乃木神社宮司らによる修祓式はじつにおごそかにして厳粛な儀式となった。幕間には空手や剣道の奉納演武があった。ひきつづいての追悼挨拶には常連のほかに戸川昌子、仲宗根美樹さんらの顔もあった。楽屋には三島由紀夫の父親、平岡梓氏が発起人代表の林房雄氏をたずね礼をのべる一幕もあった。
  このあと、世情は次第に落ち着きをとりもどしたかに見えたが、赤軍派ダッカ事件等がおこり、一方で日本は経済的繁栄にますますうつつをぬかし始める。「日本を真姿にもどすのだ」と叫んだ三島の諫死が風化してしまう。
  二回目の憂国忌(三回目の追悼会)は千駄ヶ谷の日本青年館に場所をうつし、その後、しばらくはあちこちと会場をうつしながら(警備の関係でなかなか会場の引き受け手がなかった)も、三島映画に出演した俳優など珍しいゲストもまじえながら続けられた。
  祭主は林房雄、林武、保田與重郎、浅野晃、宇野精一、佐伯彰一、嘉悦康人、竹本忠雄、小田村四郎氏らに交代しながらも、毎年毎年の祥月命日に憂国忌は開催された。
  参加者の動機はどのようなものなのか?
  誰に言われたわけではない。それでも日本をなんとかしようと地下から沸き出てくる清流のように、ひとびとは集い続ける。憂国忌を盛大に行うことこそが三島・森田の荒ぶる魂の安らぎになると信じているかのように。
  どんなに成功裡に終わっても誰もが「魂はしずまったから来年は止めよう」と言い出さない。苦労がないといえば嘘になる。パネル写真の保管や、事務局の維持は難儀で、しかし全国の篤実な支援者らからのカンパや三島研会員らの浄財によって維持されてきたことは特筆しておかねばならない。
  さらに二十五回忌からは憂国忌発起人に浅田次郎、中村彰彦、遠藤周作氏ら六十名近くの著名人があらたに加わり、さらに三十年忌には中西輝政、久世光彦、立松和平、小林よしのり、古川薫氏らも加わった。
  事件直後と現代とで隔世の感があるのは、「憂国」という言葉への抵抗感の消滅だ。
  あの時代、左翼優勢のマスコミはどんなことにもイチャモンをつけ、このため多くの作家、文化人や俳優たちは憂国忌に一歩の距離をおいた。その感覚はなくなったばかりか、最近は雑誌が三島特集を組むと、積極的に書く作家が増えた。確かに時代は大きく変貌を遂げたと言ってよいであろう。時間が経ち歳月が流れ、三島評価が劇的にかわり、いまや左翼言論人さえが三島を認めざるを得ないほどの状況である。たとえば吉本隆明をみよ。
  日本の政治的失態、そのリーダーシップの欠如への失望がひとびとを何かしなければ、なんとかしなければ日本がほろびてしまうのではないのかとする危機意識となって人々を突き動かしている。
  拉致問題、教科書問題、女系天皇容認反対、外国人参政権、夫婦別称など政治の偏向に果敢に戦いをいどむ新しい民族主義的な保守運動の興隆ぶりを見よ。これら「保守化」への激甚な動きもまた、表面的な現象ではなく、本格的である。日本の歴史に誇りを持ち、国民が伝統的な精神を取り返す日、その日こそ三島・森田両氏の荒魂が安堵するときである。
  本書は「憂国忌」開催四十年という節目にあたっての、舞台の裏をささえた人々の生きた証言と記録である。


                                    平成二十二年九月
                                    三島由紀夫研究会