読者の皆様へ
「ダチョウは危険が迫ったとき、頭を砂に突っ込んで危険を見ないようにする」という。これは「不安全」な実態から目をそむけて「安心」を欲する、象徴的な譬え話である。
今の日本人の多くは、この譬え話でいうところの「ダチョウ」に似ていないだろうか? 言い換えれば、不安全なものを不安全と認める勇気が失われているのではないか?
身近な例では、北朝鮮の拉致問題があげられる。政府が認めた拉致認定者は現在まで十七人だが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による拉致の可能性を調査する市民団体である「特定失踪者問題調査会」によれば、「拉致の疑いが否定できない特定失踪者は、二百五十人以上にのぼり、うち拉致の疑いが高いとした失踪者は三十人以上に達している」という。
この人たちは、まったくの一般市民で特別の人が狙われたわけではない。しかも、拉致現場は日本全国のみならず海外にまで及ぶ。とくに問題なのは、拉致に加わった犯人が、いまだ一人も捕まっていないということだ。
この拉致の状況をシミュレートするために、関係者とともに実際に拉致状況を再現してみた。その結果、国家も国民も警戒心の薄い日本では、どこでも簡単に日本人を拉致できることが認識できた。とはいっても、一人の人間を拉致するためには、情報をとって準備をし、拉致した被害者を国外に連れ出すのに、少なくとも十名以上の協力者が必要だ。しかも、これまでの手口からは、その土地に詳しい人物、つまり現地の日本人が加担していないと難しいということもわかった。
このような拉致がこれまで頻繁に繰り返され、その犯人が一人も捕まっていないのに、誰もこの状況を危険視しないのはなぜだろうか?
同時にこれは国家の問題でもある。現実に拉致被害者が多数存在している。にもかかわらず政府は、「拉致はあってはならない」と言うだけで、新たな拉致防止の具体策もとらず、あたかも拉致は過去の出来事であるかのような態度である。通常、このような事案に対しては、まずは新たな被害者を出さないための対策をとったうえで、すでに被害にあった人たちの救出にあたるべきところだ。
現憲法の前文に記されている「平和を愛する諸国民の公正と信義」に期待するあまり、国際社会に「悪意」などあるはずがないと信じれば、毅然とした政治的対応など必要なくなる。また、諸外国に「危険と悪意の存在を認めると、対決を余儀なくされるので不安だ」というなら、まさに危険に目をつぶる「ダチョウ」である。
日本人が、もはや地域社会や国際社会の不安全な現実に立ち向かう気概を失っているとすれば、憂慮すべきことである。
冷戦後の国際社会の構造は、日本にとって極めて深刻な状況に向かいつつあるにもかかわらず、目の前の経済動向に翻弄されている。また、かつては世界でも有数の治安状態のいい国だった日本が、伝統的社会規範や道徳の崩壊から、今や自分のためには家族でさえ傷つけるような危険な社会へと変貌しつつある。
戦後、日本人の精神が荒廃した根源は教育にある。戦後の教育は、教育基本法によって憲法の思想を普及することに主眼を置いた。その憲法の思想とは何か。たとえば、憲法九条だ。この戦争放棄をうたった精神は、インド独立運動のガンジーのように、自己を犠牲にしても武器の前に無抵抗で戦う崇高なる非暴力の精神とはまったく無縁のものである。九条は人権という美名の下に、社会集団に対する犠牲的精神を嫌うエゴイストを正当化し、「侵略国の国旗を揚げて歓迎することはあっても、戦いは放棄する」という「精神価値の放棄」を日本人にあたえた。これは、奴隷的精神である。敵意のあるものに対して、一方が「戦わない」と宣言したからといって、平穏でいられることなど、現実にはありえない。いじめっ子に、無抵抗でいたらどうなるか予想がつくはずだ。
憲法九条の精神では、同胞が拉致され、その家族が苦悩している状況を自らの問題として考えることもなく、ましてや理不尽を正すためには戦いも辞さないという発想はまったく出てこないだろう。
結局、戦後の日本人が憲法精神に従って放棄したのは「戦争」ではなく、「戦うことも辞さない正義心を持った生き方」なのではないか。
「世のため人のため」に精一杯尽くすことを良しとし、「少なくとも人様に迷惑をかけないように」と教えていた日本の社会道徳は、「自分のためにだけ生きる」憲法思想に取って代わられ、上から下まで自己の欲求を最優先する輩が日本を占有している。
日本人本来の美しくて強い精神文化である「家族のような国を創ろう」という神武天皇建国の精神や、「正しいと信ずることを貫き通すためには、自分の肉体の生死など気にかけない」という武士道の犠牲的精神は憲法思想の敵として追い詰められてきた。
経済成長と経済効率がすべてで、何事も金に置き換えて価値判断するようになった戦後の日本人は、金儲けのためには戦うが、公共の理念や正義のためには戦わない。最近は、個人の利益のためにすら戦わない無気力な人間がいるようだが、戦わない種族は保護でもされないかぎり絶滅する。
現在、大きな問題となっている環境破壊も、日本人の自然観が、自然との調和から経済効率優先に変わったことに原因がある。これは、異常発生したバッタの群れが、植物を食い尽くした挙げ句、自らも死んでいく有り様に似ている。
経済活動を優先するあまり、貴重な日本の山野が破壊され、そこに根づいている土着の伝統文化が瀕死の状態に陥ってしまった。恐竜が絶滅したのも、欲望をコントロールできずに巨大化し、子孫を持続的に維持する限界以上の食物を食い尽くしたことも一因にちがいない。
本来、自然こそ最大の公共財であり、我々自身も自然の一部であることを自覚しなければ、人類も同じ結末を迎えるだろう。
人権や自由という装飾された表層の陰にあるもの、つまり、個人の富の獲得を目的とし、すべての価値観をマネーで評価するグローバル資本主義がその本性を現した。その波に呑み込まれた日本人が、本来の日本の心を見失ったまま、金に狂ったバッタの群れに食いつぶされるのを傍観するわけにはいかない。
私は、この本を通じ、グローバリズムの抱える問題を素材として、日本人が歴史的に構築してきた自然観と人間観が、現代および将来の社会に極めて重要な意義を有していることを伝えたいと思う。ただ、日本人の自然観と人間観というのは、自然の神々から与えられた清純な感性であり、この心の感覚を、人が作り出した、いわゆる理論的な方法で伝えるには限界があって、うまく伝えることができるか不安がある。
私の文章の拙いところは、どうか読者の皆様の洞察と感性で補っていただき、一人でも多くの日本人が、神話からつながる日本文化の真価を取り戻し、暗雲におおわれた現代の世界に、地球の未来へとつながる明かりを灯すことができればと願ってやまない。
現代の戦闘者へ
米国特殊作戦学校(SWCS:通称「グリーンベレーQコース」)に留学中、特殊戦部隊のオフィスで「武士道」という日本語の文字を見かけた。そこで「君たちはこの文字の意味を知っているのか?」と質問してみた。彼らの答えは、忠義の対象がマニュアル化された理論であったり、戦いを共にするチーム・メイトであったりと米国人独特のメンタリティーが含まれてはいるものの、死生観としては立派なものであった。
今や日本人の多くが忘却し理解できなくなってしまった感のある「武士道」が、「正しいと信ずることのため自己の生死をも問わず行動する精神」として米国の特殊戦部隊の中で生きていた。
ひるがえって、武士道を生み出した日本の現状はどうか? 自衛隊はどうか?
「人の命は地球より重い」などという社会風潮の中で教育された者には「自分のために生きることが正義」であり、「自己の生死を問わず行動する」などと言った日には犯罪者扱いさえされかねない。
しかし、我々は、異常なる殺人者が社会の中に潜在し、いつ誰がその凶器の餌食になってもおかしくない世の中で生活している。そうした社会では、自己保全のためではなく、他者の保全、そして社会の正義のために自己犠牲を覚悟して行動できる人間が希求される。少なくとも自衛官、海上保安官、警察官などは、それを使命として期待されている以上、武士道のような精神的支柱を必要としているのである。
グローバリゼーションの進展と米国のブッシュ前大統領の「テロとの戦い」への呼びかけに応じて、日本も国連以外の枠組みで自衛隊の海外活動を展開してきた。そして、これらの任務に参加する隊員は、少なからず「死」を意識せざるを得ない現実に直面することとなった。
しかし、戦後、自衛隊は長きにわたり政治的に「存在すること」だけを期待され、国土防衛と言いながら、現実味のない教育訓練を繰り返してきた隊員は、大過なく退職を迎えることを当然と感じ、「死」に直面する場合の精神的訓練を受けてきていない。彼らに「自分は何のために死を覚悟してまで行動するのだろうか」という自問が出てくるのは当然であろう。あるいは「自分はいざというとき本当に引き金を引けるだろうか」という疑問も、「何の目的で人を殺してまで行動するのか」という問題に置き換えられよう。
要するに、自己および他人の死をも踏まえた行動哲学の欠如という問題に直面するのである。海外での自衛隊の活動は国益のためと称しているが、国のために命を捧げた靖国の御霊に対し、一貫して冷淡な態度をとる政府の下では、その犠牲的精神と行為は顧みられることはなく、単純なる経済的国益のために隊員の生命を犠牲にすることはできない。
私は、特殊作戦群長として当時の部下にこう言った。
政治・宗教テロリストは、彼らの正義に基づいて決死の覚悟で行動している。彼らと戦うなら、それに負けない正義と覚悟を持ち合わせなくては勝てない。また逆に、正義感も持ち合わせずに「命令ならば殺します。命令ならば死にます」という機械人間は、戦闘員として不適切な人物と言わざるを得ない。必要なのは、任務行動に際して、他人や自分の「死」に直面しても正義を貫き行動できる精神的支柱を備えた戦闘員である。ましてや、指揮官は自分だけでなく部下の生死に関しても責任を有する。部下が何のために人を殺し、自分の死をも許容するのかについて、責任を深く自覚しなくてはならない。
何よりも、日本の戦士たる自衛官にあっては、武士道を実践することが日本の核心的な伝統を継承しつつ日本を守ることになる。それは、領土や経済的利益を守るよりはるかに重要なことである。日本人が日本人でなくなって、土地や金にしがみついていたのでは日本を守っているとは言えまい。
自衛官にとっての武士道は、日本の武人がそうしてきたように、己の肉体の要求を後にしても、精神が欲する公共の正義を守り抜かんとする強力な意志と行動である。
これを象徴するのが、日本武術の特長である「入り身」にある。相手との間に自らの安全が保たれる間合いをとって戦うのではなく、自ら進んで相手の間合いの中に入り込む。技は「入り身」と呼ぶが、これに必要な精神は「捨て身」つまり「決死」である。「決死」を覚悟しながらも、激情したり、体を強張らせたりせず、「必殺」の一撃に全身全霊を捧げるのである。
つまり、生死に執着しない心情を保つことができれば、体もリラックスしたまま柔らかく無駄なく相手の動きと呼吸に合わせて必殺の間合いに入り込めるのだ。これは、日本の戦闘者ならば必ず身につけてもらいたい必須の要件だ。
また、近代国家において軍隊は、政治に管理された国家の一機能集団であるが、同時に軍人は国家における徳操(公共心)の象徴として存在していることも忘れてはいけない。
明治天皇の御製に「靖国の社にいつく鏡こそやまと心の光なりけれ」とある。
靖国の英霊のやまと心を継承し体現できるのは、邪気・邪悪な心に侵された日本人ではなく、徳操を備え正気に満ちた現代の武士たる戦闘者である。
自ら、日本の戦闘者たらんと願うものは、日本の歴史を背負い、武士道を受け継ぐ武人として雄々しく生きてもらいたい。
|