「まえがき」にかえて
日本刀を見ると、この国のかたちが見えてくる
筆者には日本刀が、この国のかたちに見える。公家と武家の調和と相剋の歴史を秘めているように思えるからだろうか。平成十年に筆者が創刊した『武道通信』(壱之巻)の特集は日本刀。特集の題目を「日本刀を鑑ると、この国のかたちが見えてくる」とした。刀劍鑑賞での「見る」は正しくは「鑑る」。
米国政府が日本占領政策のためルース・ベネディクト女史に、日本人の精神構造を解き明かすよう依頼した研究論文の市販本に付けられた題目は『菊と刀』であった。菊は天皇、刀は武士。言い得て妙である。ベネディクト女史は日本の地を踏んだことはないが、もしや米国の地で日本刀を見たことがあったのではないか。刀劍の知識は皆無でも、彼女の感性が日本の何たるかの一片を捉えたのではなかろうか。何の根拠もない筆者の空想である。
ベネディクト女史を引き合いに出したのは、日本刀に縁がない御仁にも、機会があれば日本刀を見て、刀劍鑑定書にある専門用語や鑑賞方法にこだわらず、感じたままを心に刻んでいただきたいとの思いからだ。この国、祖国のかたちが見えてくるはず。そんな願いから本書を著した。
であるが、本書は刀劍の鑑方の書ではない。刀劍の霊性、霊力を信じ、戦場で命を託し、また守護神とした刀劍について、「武」を担ったサムライたちはどう語るだろうかと想い描いた書である。ゆえに「見る」とした。また、「剣」は旧字の「劍」とする。筆者のこだわりである。
「サムライと日本刀」を語るサムライ役に土方歳三を選んだ。箱館(函館)戦争と称される旧徳川幕府軍と明治新政府軍の戦いでの土方歳三を追って、二十振の日本刀を脇役として登場させた。
そしてまた、ひとつの仮説を挿入した。
土方歳三が入門した天然理心流の興りは幕命であった。徳川家康は「敵は必ず西からくる」と、甲斐武田の遺臣を江戸の西の守り口、八王子に住まわせ半士半農の防人とした。八王子千人同心である。
全国に打ち毀しが勃発した、世にいう「天明打ち毀し」は徳川幕府瓦解の前触れであった。寛政と号が改まったときの老中松平定信は、家康に倣い、千人同心のテコ入れをはかった。それが天然理心流の興りであったとの仮説である。
土方歳三が二十振の日本刀を語るのを聞くとき、やはり、最小限の刀劍の知識が必要となる。この「まえがき」のあとに、日本刀の各部の名称などのごく簡単な図を載せた。また、語るのは、すべて大刀の刀身のみであるゆえに、日本刀を語るうえで欠かせない日本の工芸美術の粋である柄、鍔、鞘などの外装である拵えは省いた。ただ、読者諸氏の胸の内に、常に日本刀のイメージを思い浮べておいていただきたいため、拵えの図も載せた。本書の版元から以前刊行された拙著『使ってみたい武士の作法』から一部流用した。ご容赦願いたい。
いまひとつ、ご容赦願いたいことがある。
この二十振は、日本刀を語るうえで、つくられた時代、つくられた地方をなるべく重なることなく選びたかった。宮本武蔵、荒木又衛門、榊原健吉、新選組の土方歳三、近藤勇、沖田総司の差料は歴史・時代小説でことに有名であるが、ほかに名刀として知られる刀や、時代思想を反映した刀、歴史の彼方に消えた刀鍛冶地の刀も選びたかった。ゆえに新選組隊士や倒幕志士、箱館戦争を戦ったもののふ(武士)の差料は、彼らの出自、幕府時の役職から差料としていてもおかしくないと推測した一振である。
前口上が長くなった。幕が開く。とき明治元年(一八六八)十月十九日(新暦十二月三日頃)。蝦夷地、森町鷲ノ木浜の海上。海は荒れ、海風が土方歳三の襟元で断たれた黒髪を逆立たせる。 |