「あとがきに代えて」
浅はかな側近こそご心痛のタネではないか
▼羽毛田長官の発言の中身が軽すぎる
この本の校正をしていた平成二十年十二月初旬、心配なニュースが飛び込んできました。今上陛下に不整脈などの症状が見られることから、ご公務をすべて取りやめて、休養されるというのです。
宮内庁の発表によれば、陛下が不調を訴えられたのは前月十一月十七日の朝でした。しかし陛下は駐日大使への信任状捧呈式、最高裁長官の親任式などのご公務や新嘗祭の親祭など、ほとんど毎日続くお務めを果たされました。
十二月二日に胃部の症状が現れ、血圧の上昇が見られるようになって、翌三日、宮内庁は検査と休養のためすべてのご公務のお取りやめを発表します。五日にも行事の取りやめが発表されましたが、陛下はお住まいの御所で定例の執務をなさいました。
八日には皇后陛下とともに国際生物学賞授賞式に出席されます。休養後、外出をともなう公務は初めてでした。この日付で、宮内庁は翌年一月二日の新年一般参賀の要領を発表しますが、例年同様、七回のお出ましが予定されていました。
翌九日(この日は皇太子妃殿下のお誕生日でした)、宮内庁は五日に行なわれた内視鏡検査の結果を発表します。記者会見の席上、名川良三東大教授(循環器内科)は「AGML(急性胃粘膜病変)があったのではないかと推測される」とご病状を説明します。
精神的、肉体的なストレスによって急激に生じ、適切な処置がなされれば比較的短期間のうちに良くなる、とのことでしたが、陛下は何に心身のストレスを急激にお感じになったのか、国民の関心はいやがうえにも高まりました。
驚いたのは、翌々日の十一日、定例記者会見で「天皇陛下のさまざまなご心労に関し、私なりに述べる」と前置きされて語られた、羽毛田信吾宮内庁長官の「所見」です。要約すると、ポイントは次の五点でした。
(1)陛下は皇后陛下とともに、皇太子妃殿下のご病気の快復を願い、心にかけてこられた。この数年、「両陛下は妃殿下が公務をなさらないことを不満に思っている」などの報道が散見されるが、陛下からこの類のお言葉をうかがったことはない。
(2)両陛下は妃殿下の広義のご健康をずっと心配されてきた。昨年、ポリープの切除手術を受けられた皇太子殿下と同様、健康管理に誰かが責任をもつよう願っておられる。
(3)適応障害と診断される妃殿下に関して、「皇室そのものがストレスであり、病因でないか」「やりがいのある公務をなされるようにすることがご快復のカギである」という議論がしばしばなされることに、両陛下は深く傷つかれた。
(4)今後は東宮医師団が直接の責任者となり、両殿下の定期検診などに当たってもらうことを考えている。
(5)天皇陛下のご負担軽減は、当面の対応として、ここ一カ月程度は、ご日程を可能なかぎり軽くし、天皇誕生日やもろもろの年末年始の行事などについて、所要の調整を行ないたい。
指摘したいのは六点です。
一点目は、宮内庁長官自身の存在の軽さです。会見で語られたのはほとんどが東宮家に関することですが、宮内記者会を相手にこと細かに説明するスポークスマン役なら次長で十分であり、長官の役目ではないのではないか、と私は思います。
二点目は、テーマの不適切さです。皇太子同妃両殿下の健康管理について、体制の不備があることが指摘されていますが、長官会見という、報道を前提とする公の場で語るべきなのか、大いに疑われます。両殿下の健康管理に東宮医師団が直接責任をもつことは当たり前のことで、定期検診もなく、皇太子殿下がポリープ摘出手術をする事態になったことは、直接、明確に東宮職の責任を問うべきです。各官庁寄り合い所帯の組織的連携のお粗末ぶりを暴露するかのように、「責任を誰がもつか」などと、いまさら傍観者のような発言を組織の長たる者がマスコミ相手に語るべきではないと思います。
三点目は、発言の中身が宮内庁長官の立場としては軽すぎるということです。最高責任者なら大所高所に立った議論をすべきです。
たとえば二日前の会見で金沢医務主管は「何が心痛で、何が心痛でないのか?」という記者の質問に対し、「天皇陛下は世界に一人しかおられない方」と答えています。まさにその通りで、天皇は「国中平らかに安らけく」と祈る世界に類なき祭祀王です。
その意味で、長官が冒頭、「天皇陛下には、かねて、国の内外にわたって、いろいろと厳しい状況が続いていることを深くご案じになっておられ」と述べているのは正しいことで、それで十分のはずですが、そのあと「また、これに加えて」と続けて、「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子……」などと、ご心労の原因を特定化しようとする姿勢は誤っています。箇条書きにして仮に百項目を並べ立てたとしても、陛下のお悩みは言い尽くせないでしょう。優先順位をつけることも、公正無私のお立場では困難です。皇位継承問題も妃殿下のご病気も大きなテーマですが、十分な説明を欠けば「未曾有の経済危機に国民が苦しんでいるときに、天皇は自分の『家』のことしか考えていない」とかえって誤解されかねません。
そんなことは百も承知のはずなのに、石橋を叩いても渡らない性格といわれる長官が、しかも二月の皇太子殿下への「苦言」騒動で懲りたはずなのに、真意がゆがめられて報道されることが十分に予想されるのに、憶測的に陛下を代弁するかのような所見を、なぜ会見で発表したのでしょうか?
もしや陛下の名を借り、またもや記者会見を利用して、下火になっている女性天皇・女系継承容認・推進論を促進させようという深謀遠慮があったのかどうか。本文に書いたように、宮内庁では鎌倉節長官時代の平成八年から典範改正研究が組織的に始まったことが知られていますが、寝た子を起こす意図があるのかどうか。
陛下の代弁者といえば、もうひとつ気になるのは、二月の宮内庁発表では、御在位二十年を超える来年(平成二十一年)から、という陛下のお気持ちを尊重して調整を実施する、とされていましたが、十二月の長官所見では、「かねて、私は、天皇陛下が七十五歳のお誕生日をお迎えになり、平成の御代が二十年を超えるこの機会に、ご負担の軽減を勧めさせていただきたいと考えてきた」と、陛下のご意思が長官本人の意思にすり替わっています。
お気持ちが尊重されずに、日程が前倒しになったことに対する批判を見越しての姑息な取りつくろいでしょうか? それとも「お気持ちの尊重」という二月の発表が出まかせだったのでしょうか?
▼さらなる宮中祭祀の改変・破壊がないよう強く望みたい
四点目は、事実認識の不正確さです。
二日前、金沢医務主管は「陛下の心痛や具体的な負担軽減策は長官から所見が述べられる」と予告したことから、長官会見が注目されたのですが、医師が「(心身のストレスから発症までの時間は)短ければ時間単位。長ければ一カ月、二カ月の単位になる」と急性であることを説明しているのにもかかわらず、「ここ何年かにわたり、ご憂慮のご様子」として皇位継承問題などを示したのはまったくトンチンカンというほかはなく、国民に無用の誤解を招きます。
五点目として、実際、マスコミは、皇位継承問題での心労が病因だと長官が所見を述べた、と単純化して報道しています。
たとえば、毎日新聞は、長官は陛下が皇位継承問題で悩んでいることをはじめて明らかにした、と伝えています。読売新聞は「ストレスの中心に皇位継承問題があるとの見方を示した」、共同通信も「皇位継承問題とともに、皇室の現状にも気にかけている点があるとの見方を示した」と報じました。
ある記者などは署名記事で、陛下が女性天皇・女系継承容認の皇室典範改正を望んでいるかのように解説しています。先走りにもほどがあります。
浅はかな側近の減らず口をメディアがねじ曲げ、さらに際限もなく拡大させているとしたら、それこそ天皇のご心痛はやむことはないでしょう。皇室を支える重い任務にふさわしい人材はほかにいないのでしょうか?
最後の六点目は、これがもっとも強調したいことですが、ご公務取りやめについての発表でも、その八日後の定例会見で明らかにされた羽毛田長官の「所見」でも、歴代天皇が第一のお務めと考えてきた宮中祭祀に関する「調整」について言及がありません。平成二十年二月、三月の発表と、少なくとも表面上、内容が一変しています。
本文に書きましたが、二月の発表では、金沢一郎医務主管は、ガン治療による副作用の影響で新たな療法の必要性について述べ、風岡典之宮内庁次長は、運動療法実施のためにご日程のパターンを一部見直す、と補足していました。
そして翌三月には、ご負担軽減のために、祭祀の態様について所用の調整の検討が進められていることが、両氏の連名で追加説明されたのでした。
いみじくも三月の発表が「宮中三殿祭祀と両陛下のご健康問題」と題されていたように、「ご日程の見直し」の標的とされたのは祭祀でした。しかし十二月の長官「所見」では、祭祀の「さ」の字も見当たりません。
金沢医務主管らの会見によると、陛下が変調を感じられたのは十一月二十三日夜の新嘗祭を一週間後に控えた十七日の朝とのことですが、陛下は新嘗祭を粛々と親祭になり、さらに十二月一日の宮中三殿での旬祭もお務めになったことが宮内庁のホームページに掲載された「ご日程」から読み取れます。陛下は、祭祀王としての自覚から新嘗祭の親祭を強く望まれたのか、とも拝されます。
しかし今後しばらくは、祭祀が「調整」の対象外ではあり得ないのでしょう。金沢医務主管は「『陛下はご公務が忙しいから、日程が詰まっているからこんなことになる』と単純には考えないでほしい」と言いつつ、「しばらくの間は大事をとって、天皇誕生日とか、年末年始のご日程などを思い切って軽いものに変えていくことが大事だ」と進言し、羽毛田長官は「ここ一カ月程度は、ご日程を可能な限り軽いものに致したく、天皇誕生日やもろもろの年末年始の行事などについて、所要の調整を行ないたい」と応じています。
それならなぜ長官は祭祀の「調整」について、きちんと説明しないのでしょう? 口をつぐんでいるのは、何かやましさがあるのでは、と疑われても仕方がないでしょう。祭祀は天皇の私的行事にすぎない、と考えるからなのか、それとも、公務員だからいっさい宗教に関わるわけにはいかない、という厳格な政教分離主義の発想があるからでしょうか? 基本原則を明示しないまま、祭祀を「調整」することは、まさに官僚的な秘密主義であり、なし崩し的に密室で祭祀を破壊した入江相政侍従長時代への先祖返りにほかなりません。
むろんご負担の軽減は緊急の課題です。
平成十九年のこの時期は、栃木県行幸やタジキスタン、スリランカ両国大統領との会見などがありました。冬本番となる十二月以降はとくに主要な祭祀が集中し、さらに年末年始の重要な祭儀が続きます。天皇第一のお務めである祭祀が、ご高齢で、しかも療養中の陛下にとっていっそう激務であることは間違いありません。
それなら法的根拠や伝統的裏づけがあるわけでもないようなご公務のお出ましを削減し、あるいは御名代として皇太子殿下を立てるという方法を本格的に検討すべきだし、祭祀であれば、大祭なら皇族または掌典長に祭典を執行させ、小祭ならば皇族または侍従に拝礼させるという慣例が参考にされるべきです。
ところが、宮内庁は二月に「昭和天皇の先例に従う」と発表してしまいました。
昭和四十年代以降、入江侍従長らは、ご健康、ご高齢に配慮するとうたいつつ、いわゆるご公務を祭祀よりも優先させ、「簡素化」(入江日記)と称して、宮中祭祀の改変・破壊を断行したのですが、官僚的な先例踏襲は伝統破壊の再来以外の何ものでもありません。
何よりも陛下のご健康、ご長寿を祈るとともに、宮内庁が方針を転換し、入江時代の「悪しき先例」を踏襲することを断念するよう、そして祭祀の正常化に取り組むよう、強く強く望まずにはいられません。本文に書いたように、天皇の祭祀こそ日本という多神教文明の中心だからです。
▼空洞化が進んだ宮中祭祀
しかしまことに残念ながら、「昭和時代の先例」を免罪符とする、宮内官僚たちによる祭祀破壊の悪夢はまぎれもない現実となってきました。
新聞報道によると、平成二十年十二月十五日の賢所御神楽はご休養中の天皇陛下に代わって掌典次長が拝礼しました。
十二月二十三日は天皇誕生日で、天長祭が行なわれましたが、陛下ご自身の親拝はなかったようです。
二日後の二十五日は大正天皇例祭ですが、天皇陛下は御代拝だったものと思われます。
元旦の四方拝は、報道によると、お住まいの御所の庭でモーニング姿でお務めになり、歳旦祭は掌典職による御代拝となったようです。
何が残念なのか、まず賢所御神楽です。
賢所御神楽というのは、元宮内省掌典の八束清貫の「皇室祭祀百年史」(前掲『明治維新神道百年史第一巻』所収)によると、十二月中旬(だいたいは十五日)に行なわれる祭儀で、その趣旨は皇祖・天照大神の神霊を慰めることにあるとされています。
御神楽の淵源は、記紀神話に描かれた有名な天照大神の「天岩戸隠れ」の物語に基づくといいます。歴史も古く、清和天皇の貞観元(八五九)年に始まり、賢所で行なわれるようになったのは一条天皇の長保四(一〇〇二)年で、白河天皇の承保四(一〇七七)年以後、毎年行なわれるようになったといわれます。
祭儀に際して、まず賢所の装飾、調度が一新されます。天岩戸に隠れた天照大神がお出ましになり、常闇の世にふたたび光が差したという神話につながるもので、したがって新たな一年の祭祀が始まる神の新年と考えられるほど、この祭儀は重要視されているようです。
午後五時に天皇陛下が賢所に玉串をたてまつって拝礼され、続いて皇后、皇太子、皇太子妃が拝礼されたあと、白砂が一面に敷きつめられた賢所前庭の神楽舎内で、午後六時から第一段、第二段と延々六時間にわたって御神楽が奏されるのです。
この間、天皇陛下をはじめ皇族方は端座して慎まれ、終了の知らせのあと、ようやく就寝されるのだそうです。
ところが平成二十年は、読売新聞によると、天皇陛下は側近の侍従ではなく、掌典次長による御代拝となりました。皇后、皇太子、皇太子妃については伝えられていません。
問題点として、少なくとも三つ指摘されます。
まず第一点。読売の記事によれば、今回の天皇のご代拝は、平成になって初めてとされています。むろん陛下のご負担軽減のためでしょうが、すでに指摘したように、先日の長官所見では「ここ一カ月程度は、ご日程を可能な限り軽いものに致したく、天皇誕生日やもろもろの年末年始の行事などについて、所要の調整を行いたい」というばかりで、祭祀の「調整」が明言されていたわけではありません。
宮内庁のいう「昭和の先例に従う」とは、先述した密室で祭祀を破壊した入江侍従長時代への先祖返りを指すのでしょうか?
二点目は、賢所御神楽は小祭と位置づけられていますから、以前は天皇の親拝がない場合は皇族または侍従に拝礼させる、というのが慣例でしたが、昭和五十年九月以降、わざわざ掌典次長という新しいポストをこしらえ、代拝させる制度に変更されました。
すでに説明したことですが、天皇に代わって側近の侍従に拝礼させるからこそ意義があるのにもかかわらず、侍従は公務員だから祭祀という宗教に関われない、という誤った政教分離の考えから、側近ではない、そして公務員ではない、私的使用人という立場の内廷職員に替えられたのでした。
敗戦後、占領軍は宮中祭祀を「天皇の私事」として以外、認めませんでしたが、いまふたたび天皇の祈りは私事におとしめられたのです。暗黒の占領前期への逆戻りです。
三点目は、これに関連することですが、またこれも繰り返しになりますが、同じく昭和五十年に皇后、皇太子、皇太子妃の御代拝が廃止されています。それ以前の入江日記に、香淳皇后がお風邪のため御代拝になったという記事が散見されるように、かつてはごく自然なこととして行なわれていましたが、その後、御代拝の制度が側近によって廃止されたことは、西尾幹二先生の東宮批判にしばしば登場するように、今日、皇太子妃殿下が「いっさい祭祀に出席していない」という、いわれなき批判の原因になっています。
今回、読売新聞の記事は、天皇以外の皇族の拝礼については言及していませんが、天皇陛下は掌典次長の御代拝で皇族は御代拝もない、というような状況がもし続くとすれば、原武史教授などが大げさに祭祀廃止論を提起するまでもなく、天皇の第一のお務めであるはずの祭祀は内廷職員だけが関わり、皇族すら直接関わらない、というように空洞化していくことになるでしょう。
▼祭祀がストレスの原因だとでもいうのか?
次に十二月二十三日、天皇誕生日の天長祭です。
本来は午前中に天皇陛下が宮中三殿を親拝されたあと、皇太子殿下が拝礼されるのですが、宮内庁のホームページによれば、殿下だけがお出ましになったようです。天皇・皇后両陛下の「ご日程」には「祝賀」行事ばかりがいくつも掲載されています。
平成二十年暮れの宮内庁長官の「所見」は「天皇誕生日やもろもろの年末年始の行事などについて、所要の調整を行いたい」と述べ、祭祀の「調整」についてはひと言も言及していませんが、実際はもっぱら天皇第一のお務めである祭祀を狙い撃ちにして、いわゆるご公務についてはほとんど「調整」しないという言行不一致が行なわれています。
入江日記の昭和五十六年十一月七日には、祭祀はすべて取りやめにし、植樹祭と国体はお出ましに、という提案がなされたように記録されています。簡単にいえば、祭祀を廃止し、国民の目に見えるご公務だけは存続するという提案でしたが、今日の宮内庁の「調整」は祭祀嫌いの俗物侍従長の先例をじつに忠実に踏襲しているように見えます。
天皇誕生日の二日後は大正天皇例祭が皇霊殿で執り行なわれます。小祭ですから、本来なら天皇が皇族および官僚を率いて拝礼され、掌典長が祭典を行なうのですが、宮内庁のホームページによると、皇太子殿下と秋篠宮同妃両殿下のお出ましがありました。
天皇陛下は掌典次長による御代拝、皇太子殿下は拝礼され、皇后陛下と皇太子妃殿下の拝礼はなし。秋篠宮同妃両殿下は祭儀に参列されたということなのでしょう。
皇后陛下と皇太子妃殿下の拝礼がないのは、側近の公務員は祭祀という宗教に関わるわけにはいかないという誤った政教分離解釈によって、昭和五十年に御代拝の制度が廃止された結果です。
明けて平成二十一年の元旦には、天皇陛下が神嘉殿南庭で伊勢神宮、山陵、四方の神々を遥拝する四方拝が行なわれ、引き続き、歳旦祭が宮中三殿で行なわれるのですが、新聞報道によると、四方拝は神嘉殿南庭ではなくお住まいの御所の庭で、黄櫨染御袍ではなくモーニング姿でお務めになり、歳旦祭は側近の侍従ではなく掌典による御代拝となったようです。
入江侍従長の日記を読むと、昭和四十五年ごろ、新嘗祭の取りやめ、四方拝の洋装、歳旦祭の御代拝に取り組んだことが記録されています。四十四年十二月二十六日には、入江が昭和天皇に「四方拝はテラス、御洋服で」と提案したとあります。宮内庁はいよいよ入江時代の「悪しき先例」の踏襲に踏み出したのです。
ただ、かすかな救いは、今年の四方拝が御所のテラスではなく、庭上で行なわれたことです。
八束清貫元宮内省掌典によると、四方拝が庭上で行なわれるのは、「庭上下御」といって、天皇が殿上ではなく、みずから地上に降り立って、うやうやしく神々を仰ぎ、それだけ深い崇敬の念を示されるということですから、庭上で行なわれるのは望ましいことです。
しかし、天皇しかお務めにならない一年で最初の祭儀について、黄櫨染御袍からモーニングに、場所は神嘉殿から御所に変更し、しかし庭上で、というのでは、何を基準とした「調整」なのか、さっぱり分かりません。
装束にしろ、祭式にしろ、それぞれ意味があるのであって、無原則に改変することは破壊行為であり、神への冒涜以外の何ものでもありません。
何度も繰り返してきたことですが、ご負担の軽減は必要であり、法的根拠や伝統的裏づけがあるわけでもないようなご公務のお出ましを削減し、あるいは御名代として皇太子殿下を立てるという方法を本格的に検討すべきです。祭祀なら、天皇の親祭がご無理なら皇族または掌典長に祭典を行なわせ、親拝が難しいなら皇族または侍従に拝礼させるという方法をとればいいのです。
羽毛田長官は「所見」で、「陛下のお疲れを減らし、ストレスになりそうな状況をできるだけ減らすために、ここ一カ月程度は、ご日程を可能な限り軽いものにする」と語りました。
しかし実際のところ、年末年始のご日程については、誕生日記者会見が中止され、新年一般参賀のお出ましの回数が五回に減らされたぐらいだけで、その一方で、祭祀は無原則に蹂躙されています。分刻みの祝賀行事はストレスにならず、天皇第一のお務めである宮中祭祀こそストレスの原因だとでもいうのでしょうか。
長官の「所見」は天皇陛下の「ご心労」について説明されていましたが、今回の祭祀の「調整」は陛下のお気持ちを尊重したものといえるでしょうか。今上天皇は皇位継承後、皇后陛下とともに祭祀について学び直され、昭和四十年代以降、入江侍従長の時代に改変・破壊されてきた祭祀の正常化に努められたと聞きますが、だとすれば、いま側近の官僚たちが昭和の「悪しき先例」を持ち出し、祭祀の破壊にふたたび着手したことに、むしろご心痛はいかばかりかと拝察されます。
戦後の宮中祭祀は、昭和二十年暮れのいわゆる神道指令を起点として、ほぼ二十年ごとに正常化と破壊を繰り返しているように見えます。
本文に書いたように、占領後期に正常化が始まり、三十四年の皇太子(今上天皇)のご結婚の儀は「国事」と閣議決定され、四十四年には宮中三殿の国有財産化も可能であるという公的解釈までなされましたが、同じころ揺り戻しが始まり、祭祀の改変が入江侍従長らによって進められました。四十三年に毎月一日の旬祭の親拝が年二回に削減されたのが最初でした。そしてやがて昭和天皇の御大喪では、大喪の礼は国の儀式、葬場殿の儀は皇室行事というように二分され、国の儀式から鳥居や大真榊が撤去されました。
今上陛下は即位後、祭祀の正常化に努められましたが、御即位二十年を前にして、側近らによる破壊がふたたび始まりました。昭和の時代と同様、ご高齢、ご健康問題が理由とされていますが、すでにご承知の通り、真因は誤った政教分離の考え方、そして日本の多神教文明の価値を見誤っていることにあります。まさに宮中祭祀は危機のときを迎えているといわざるを得ません。天皇の祭祀が日本の多神教文明の中心であれば、なおのことです。側近たちは取り返しのつかないことをしています。
▼今日の皇室の危機はすなわち日本文明の危機
ことほど左様に、現代日本でもっとも高度な教育を受けたはずの官僚たちには、日本の多神教文明の価値が見えないようです。官僚のみならず、知識人のみならず、私たち自身、その価値を見失っている。つまり、天皇の祈りを中核とする日本の多神教文明が大きく揺らいでいる。その根本的原因は近代以来の一神教文明との交渉の結果、自然的、社会的環境が激変し、それにともなって国民性が変化したことにあるのだろうと私は考えています。
たとえば、アルベルト・アインシュタインという人がいます。物理学者として世界にその名を残したばかりでなく、日本の伝統美と日本人の純粋性を深く理解した人として知られます。
アインシュタインの来日記録『アインシュタイン││日本で相対論を語る』(講談社、二〇〇一年)によれば、関東大震災の前年の大正十一年晩秋に来日したアインシュタインは、日本各地をめぐり、大学で相対性理論を講演したほか、明治神宮や日光東照宮などに参詣し、貞明皇后に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、さらに名もない民衆にいたるまで、じつに数多くの日本人と交わり、「日本のすばらしさ」に魅せられました。
日本の自然の美しさに感動すると同時に、自国をこよなく愛し、しかも遠慮深い、日本人の国民性にとりわけ惹かれたアインシュタインは、この国民性がどこに由来するのか、を探り、自然との共生、一体化であると見抜きました。
飽くなき探求心は天皇にもおよび、熱田神宮では「国家によって用いられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇がまつられている。木は神社建築にとって大事なものである」と印象をつづり、京都御所では「私がかつて見たなかでもっとも美しい建物だった。……天皇は神と一体化している」と旅日記に書き残しました。
アインシュタインは、自然との共生が日本人の国民性の源であり、日本の宗教伝統の基礎となり、天皇を中心とする国家制度にまで発展したことを、わずか一カ月半の滞日で理解したのでした。
穏和な海に囲まれ、緑に覆われた、山紫水明、四季折々に美しく変化する日本列島の豊かな自然こそ、天皇を中心とする多神教文明の揺りかごであることを、一神教世界からやってきた天才はたちどころに深く理解したのでした。
一神教と多神教では発生のプロセスが異なります。
鈴木秀夫東大教授によると、一神教は五千年前、エジプトのナイル川のほとりで生まれたといいます。地球の寒冷化と乾燥化にともなって、サハラは砂漠化し、人々はナイル河畔に集中し、流民を安い労働力や奴隷とする古代エジプト文明が誕生しました。乾燥化は森林を消滅させたのと同時に、宗教を変えました。多神教の神々が脱落し、唯一神が生まれました。
西洋の一神教は砂漠で生まれたのに対して、東洋の多神教はインドの森林で成立しました。灼熱の砂漠の思想はやがてユダヤ・キリスト教となり、深い森林の黙想はバラモン教、仏教に展開しました。一方は唯一絶対神、天地創造と終末を信じ、他方は世界の無始無終、万物流転を説きます(鈴木『森林の思考・砂漠の思考』NHKブックス、一九七八年)。
砂漠で生まれた一神教は森を破壊する文明でもありました。
絶対神のもとで人間を世界の中心に位置づけ、自然を征服し、支配する思想はユダヤ・キリスト教に受け継がれ、ヨーロッパでは十二世紀以降、アルプス以北の大森林地帯が急速に開墾され、消滅していきました。破壊の先頭に立ったのは宣教師だといいます。森に住むケルト人やゲルマン人の伝統的アニミズムの神々を排斥し、聖なる森を切り開き、聖木を切り倒しました。邪教の巣窟である森の闇に光を与え、異教徒を野蛮な儀式から解放することが正義と信じて疑うことはなかったのです。
自然征服の文明はやがて全世界へと広がります。北アメリカではヨーロッパ人の開拓により、入植から三百年間でじつに八割の森林が消滅したといわれます(安田喜憲『講座文明と環境9 森と文明』朝倉書店、一九九六年)。
砂漠に成立した一神教が森の文明を侵略し、緑の大地を砂漠化したのです。
それなら日本はどうでしょうか? 縄文時代の日本列島は九九パーセントまでが照葉樹林と呼ばれる深い森に覆われていたといわれます。稲作が伝わり、水田農耕が北部日本にまで展開されたあとも、国土の七割は依然、森に包まれています。
とはいえ自然の照葉樹林はいまや〇・一パーセントにも満たないといわれます。都市化によって田園は蹂躙され、雑木林や田畑は生命感のないコンクリート・ジャングルに置き換えられ、街は自然の色彩を失っています。道路はアスファルトに一様に覆われ、住宅もオフィスも、神社仏閣までが無機質のセメントで固められています。
他方、国民の半数はサラリーマンで、転勤による移動は一人平均二・七五回。一生を同じ土地で過ごす日本人は四人に一人もいないといわれます(伊藤達也『生活の中の人口学』古今書院、一九九四年など)。日本人は農耕民の定住性を失い、恒常的に移動を繰り返す、いわば遊牧民と化しています。
ヒト、モノ、カネの国際的移動が年ごとに拡大し、日本はいまや世界最大の食料輸入国です。生まれた土地の恵みで命をつないだ時代は遠い過去となりました。
多様な風土が多様な人間の気質と信仰を育むのだとしたら、画一的な都市空間、自然との結びつきを失った衣食住が日本人の精神に何をもたらすかは明らかです。
明治以来の近代思想や近代科学の導入のあげくの果てに、アインシュタインが見抜いた「自然との共生」どころか、日本人の心はもはや自然から離れています。ある調査によると、「山川草木に霊を感じる」という人は大都会では五人に一人しかいないといいます。
第十章でとりあげた原武史明治学院大学教授の宮中祭祀廃止論は、戦後の農業社会の衰退によって農耕儀礼である宮中祭祀が形骸化した、と説明し、戦後の社会構造の変化を論拠のひとつとしていますが、そうではなくて、近代以来の百年以上にわたる一神教化の現象ととらえるべきなのでしょう。天皇を中心とした多神教的近代化がいつの間にか天皇抜きの一神教的近代化にすり替わった結果でしょうか。
アインシュタインの天才ぶりは、自然との共存が国民性の源であり、日本文明の原点であることを見抜いただけではありません。まさに伝統と西洋化のはざまで揺れる日本の近代化の困難を見通し、今日の日本を予感していたのでした。
であればこそ、旅の途中で書いた「印象記」のなかで、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」日本に理解を示しつつ、その一方で、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」と訴えることを忘れませんでした。
アインシュタインだけではありません。アジアで最初にノーベル文学賞を受賞した「ベンガルの詩聖」ラビンドラナート・タゴールもまた、日本の近代化に警鐘を鳴らし続けた人でした。タゴールは親日家で、生前、四度の来日を果たしますが、大歓迎にわく日本国民に対して、来日のたびに日本は伝統の美しさを失っている、と慨嘆したと伝えられます。
残念ながら、というべきか、アインシュタインの予感は的中し、来日から八十年後のいま、日本は文明の相克に身もだえしています。最高の教育を受けたはずの高級官僚たちが、あるいは現代を代表する知識人やマスコミ人たちが、そして私たち国民が天皇を中心とする多神教文明の価値を見失っています。今日の皇室の危機はすなわち文明の危機なのです。
そのような時代に、今上天皇が私なき祈りのなかで、米づくりをなさっているのみならず、山に苗木を植え、海に稚魚を放流し、豊かな自然の回復のため先頭に立たれていることがどれほど重要なことか、この本の読者なら理解されることでしょう。天皇の祈りを失ってはなりません。
さて、いよいよ最後です。
この本を書くに当たっては本文に示した文献のほか、多くの方々の研究や考察を参考にさせていただきました。取材でお世話になった方々もたくさんいらっしゃいます。すべて明示することは困難だし、差し控えますが、この場をお借りして、心から深く感謝を申し上げたいと思います。
ただ、とくに次に述べる三人との出会いと支えなくして、この本が生まれなかったことだけは触れないわけにはいきません。
おひとりは出版元・並木書房の奈須田若仁社長です。旧友の紹介で奈須田さんとお付き合いいただくようになったのが、この本が出版されるきっかけでした。天皇・皇室のことがあまりにも誤解されている、という共通認識で、まずはインターネットでメルマガを書いてみたらどうか、と勧めてくださったのが奈須田さんです。
平成十九年秋にスタートした「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンは、多くの方々のご協力があり、評論家の宮崎正弘さんや花岡信昭さんのメルマガや日本最大の軍事メルマガ「軍事情報」などにも紹介されて、読者登録数が数カ月の間に、千、二千と増え、総合ランキングの上位に位置するようにもなりました。奈須田さんの助言と激励に支えられて毎週重ねられた試行錯誤はいまこの本に結実しました。
私のつたない文章にいち早く関心をもって読んでくださったメルマガの読者にも、謝意を申し上げなければなりません。
もうひとりの出会いは、神社新報の社長だった葦津泰國氏です。本文に何度か登場する戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦先生のご子息です。葦津さんに叱咤され、悩みこけ、ときに強く反発しながらも、夜遅くまで図書館にこもって古今の文献を読みあさり、国内のみならず海外にも取材し、日本の食文化や宗教伝統、あるいは文明について、七転八倒しながら考察を深めた約二十年のエッセンスが、この本には散りばめられています。
葦津さんと知り合えたことが、日本の宗教伝統の価値を私に自覚させ、比較文化的、比較文明論的な目を養わせました。葦津さんという神道人の魂に触れることがなかったなら、いまごろはまだ低次元のジャーナリズムに自己満足し、いま流行りの東宮批判などに付和雷同して、拍手喝采を送っていたかも知れません。葦津さんとの出会いがこの本を書かせたのです。
三人目は妻です。人生には順風のときも逆風のときもありますが、この本は順風のときに、ではなく、公私ともに困難なときにまとめられました。生きるのが下手な私を、不平を言わずに黙って支えてくれたのが妻でした。
妻はまた、私のもっとも身近な、そしてもっとも辛辣な批評者でした。私の文章は総合情報誌時代のクセがなかなか抜けず、読みづらいところがあるようです。妻には何度「分かりにくい」とダメ出しされたことでしょう。きつい指摘にときに逆ギレしながら、分かりやすい文章を心がけ、この文体も磨かれましたが、今度は「分かりやすい」と認めてもらえるかどうか。
妻の存在なくしてこの本は考えられません。面と向かっては照れ臭くてなかなかいえない感謝の気持ちを込めて、この本を妻に捧げたいと思います。
平成二十年十二月 陛下のご健康を祈りつつ
斎藤吉久
斎藤吉久(さいとう・よしひさ)
昭和31(1956)年、福島県生まれ。弘前大学、学習院大学を卒業後、総合情報誌編集記者などを経て、現在はフリー。オフィス斎藤吉久を主宰。得意分野は、天皇・皇室、宗教、歴史、食文化など。melma!から「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンを発信中。最近の雑誌発表記事などは「斎藤吉久Webサイト」のアーカイヴズで読めます。 |