まえがき
日本と中国とは国のあり方が全く違っていた。日本と中国との距離は、日本とイギリスの間より遠いのである。一例をあげれば、江戸時代より前、日本における官吏は、人口の五%以下にすぎない武士が独占しており、かつ世襲であった。中国では「科挙」と呼ばれる公務員任官試験で官吏は選抜された。
加えて、日本の武士は生涯の一時期、江戸で暮らした。イギリスでも官吏は、ジェントリーという人口の五%程度を占める階級によって担われており、彼らの多くはロンドンに住居をもっていた。日英の社会は似ており、武士とジェントリーの世界観・倫理観は似たところがあった。
科挙の試験内容は、四書五経から時事問題についての解決策を、八股文という修辞に従って書き上げるというものであった。問題の内容についての調査、他国における解決策をみるのではなく、古代の結論に現代を押し込める必要があった。マルクスやレーニンの著作から解答を発見したり、コーランから結論を出したりする、共産主義やイスラム原理主義によく似ている。
いったん試験に合格した官僚は、試験内容に反する世界観には徹底的に反抗する。上下関係しかない役所から出られず、広い世界に出ることを嫌がり、因循固陋の考え方にとらわれ、人事にしか興味が向かず、冒険より官職を奪われまいとする。
汽船が発明されると軍隊を含めて全世界的な人の移動が始まった。科挙官僚はその世界観から、いっさい外国人との対等の交際ができなかった。外交そのものを拒否したのである。
中国とヨーロッパ諸国との最初の外交問題は、阿片輸入増大による貿易収支の悪化であった。中国人は貿易に現銀決済を要求し、かつ国内流通貨幣の大半は外国銀貨だった。貿易収支悪化は直ちに国内流通貨幣の縮小につながった。現代であれば、借り入れあるいは通貨発行量の増大よって乗り切るところである。ところが、清朝は武力行使によって解決する道を選んだ。
この事件を「麻薬禍」から把握するのは誤りである。阿片は、十九世紀前半の国際交易品としては最大であった。金銀、香辛料、茶、奴隷、武器のいずれよりも取り引き金額は大きかった。日本人とタイ人を除いて、阿片が身体に有毒であるとはみなさなかった。阿片は煙草や酒、茶、コーヒーと同種の嗜好食品と思われていたのである。
イギリスをはじめとするヨーロッパ各国が阿片の流通取り締まりに乗り出したのは、第一次大戦のときからであった。
この時代、外国官憲に「海賊行為」(パーマストン外相)を働かれて、自衛戦争に出ない有力国があったとは思われない。清朝は、イギリスを「区々たる小醜」とみなし、開戦したが、結果はあっけない返り討ちで、大敗北を喫し、条約で対等外交を約束した。それでも、清朝はいっさいの対等外交を拒否した。
理由は単純で、四書五経には外夷の貢礼についての規定しかなく、皇帝も科挙官僚も夷人と対等の交際をやれば国が滅亡すると思ってしまったのだ。そもそも儒教の統治方法とは「礼楽」である。「礼」とは、日本語の意味と異なり儀式一般であり、「楽」とは音楽であった。
聖徳太子が制定した十七条の憲法は、「和為貴」(和をもって貴しとなす)という言葉から始まる。この言葉は『論語』学而篇「礼之用、和為貴」からきているが、聖徳太子は「礼之用」(儀式をするには)をわざと脱落させている。聖徳太子は儀式などそれほど重要ではないとしたのであろう。
儒教では、音楽を用いた虚仮脅かしの儀式により、百官を感激させ、中華皇帝の権威を高め、反抗心を失わせようとするのである。外夷が貢物を献上する儀式、反逆した夷人を生捕りにして百官にみせる受降式は、中華皇帝にとり極めて重要な「礼」であった。
外交を拒否した清国に対し、英仏はアロー号戦争を挑み屈服させた。この戦争の結果、首都北京にようやく外国公使館が設置されるようになった。それでも「叩頭」、すなわち床に頭をたたきつけて拝跪せよと外国公使に要求した。外国使節が叩頭せず、傲然と顔を見上げて中華皇帝と向かい合う事態は、中華世界の崩壊にみえたのである。
これからあと、科挙官僚も外国との引き続く戦争を予期し、「中体西用」を唱え、ヨーロッパからの兵器輸入や国産兵器生産をはかった。それでも清仏戦争・日清戦争に勝利することはできなかった。そして発生したのが、北清事変である。この戦争では、清国は日本、欧米の八カ国に宣戦布告し、北京の公使館街を襲撃した。
戦争の間、八カ国に駐在していた中国公使は、何の迫害もうけなかった。かつての国民政府も現在の共産政府も、この戦いを帝国主義国家に対する義挙であるとしている。自国の公使は外交官特権によって守られながらの外国公使館襲撃は、中国においては正しいのである。
中国人からすれば、「博物地大」の国に、日本人と欧米人が押しかけ、勝手なことをしたので、責任は全て外国人にあるとみえるのである。加えて、中国が中華であるためには、中国人は、もっとも富裕でなければならず、今自分たちより富裕な人々は嫉ましい。
中国が成功し、中国人が富裕になるには、日本や欧米と同じく近代化の道を辿らねばならない。官僚が企画し皇帝が詔書を下せば、博物地大の中国では、進歩は、いとも簡単により速く可能であると誰も疑わなかった。官僚はいくつもの企画を出し、いくつもの詔書が出たが、中国が熱帯を除けば全世界最貧国である事態は、一向に改善されなかった。
あるアイデアが中国人の脳裏に閃いた。それは「中国が近代化できないのは外国人のせいだ」という責任転嫁であった。政府は排外主義宣伝を行ない、自分たちの失政は外国人のせいだと子供に教え込んだ。中国人にとって二十世紀は、外国人が中国の発展をあらゆる手段で妨害した時代になった。日本人と欧米人は中国において蛇蝎のように嫌われることになった。
「友好」とは対等の友人の間で率直な理解によって生じる。平等互恵外交を認めず、日本人を嫌う中国政府要人が世辞を用いて、「中日友好」を言うのに感激する日本の政治家の意識は推し量りがたい。「相手の好まないことはやらない外交」によって、真の理解など有りうるはずがない。
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