はじめに
「私は拉致問題による日本国民の憤怒を十分に理解する。同様に日本も逆の立場に立って考えなければならない。強制徴用から従軍慰安婦問題に至るまで、日帝三六年の間の数千、数万倍の苦痛を強いられた我々国民の憤怒を理解しなければならない」と、盧武鉉韓国大統領は語っている。
「言葉は力」であるかもしれない。だが、これは出鱈目な発言であり、一国の元首のものとして適切ではあるまい。
というのは、もし現在街を歩いているドイツ人を誘拐して、「ヒトラー・ドイツ治下において、数千、数万倍の苦痛を強いられた我々の憤怒を理解しなければならない」と、犯人や友人、または同じ民族に属する人が発言していいものだろうか? そのうえ北朝鮮による拉致問題の場合、誘拐犯は謝罪しているのである。
盧武鉉のとんでもない発言はこれに止まらない。
「北朝鮮の核武装は日本向けだから心配ない」
これはアメリカ政府要人への発言である。だがアメリカ人は、アメリカ向けではないから安心せよ、というアドバイスをどう考えるだろうか?
「アメリカに行ったことがない、ということが、反米主義者を意味するのであれば、反米主義者でもいい」
盧武鉉は選挙前にこのように言っており、根は反米主義なのであろう(彼は大統領になるまで訪米経験がない)。
さらに二〇三〇世代と呼ばれる若者の反米主義にのって大統領選にも当選したのである。
「(北朝鮮の)ミサイル発射によってアメリカが一番大きい失敗をした」
この発言は盧武鉉のものではないが、閣僚がこのように発言したことを支持し、「アメリカはいっさいミスのない国だと思っていますか?」と反論しろと指示している。
日本人がこういった発言を聞けば、少なくとも「外交的には不適切」と感じるだろう。現に少なくない日本人が、首相の靖国神社参拝(そして首相は私的なもので、単に慰霊と平和を誓うためと説明しているが)について、外交的配慮が足りないと批判している。
だが、これら盧武鉉発言はいずれも公的なものであり、「心の中」「私的」なものだと説明しておらず、「取り消し」も「謝罪」もしていない。
さらに盧武鉉が批判の標的としている日米は、一九九七年金融危機の際、もっとも熱心に韓国を支援した国である。そして、盧武鉉の前任の大統領であり、支持者でもあった金大中は政敵である朴正煕によって日本のホテルから誘拐され、その一命を日米から救われているのである。
また盧武鉉の発言は、信念からとは思えない節がある。なぜならば、内政では食言や発言の訂正を何回も行なっている。盧武鉉の心の中に信念のようなものがあるか疑わしい。
では、なぜこのような発言を繰り返すのか?
理由は単純で「票」「支持率」をとりたいのである。すなわち、現代韓国で「反米」や「反日」は票になるのである。この庶民の鬱屈した心情の根底には、日米の成功に対する嫉妬がある。
普通、政治指導者は政権をとったあとは、こういった庶民感情を無視する。これは当然のことで、そのようなものに従っては、外交問題解決のため何回戦争をやっても足りない。そのうえ、庶民感情における「敵国」とは、しばしば戦争で勝利できない相手である。
ところが朝鮮は、過去何度もそのような無謀な戦争やテロ、不信行為をやり、そのつど敗北し、そのつど屈辱的な和平を呑まされているのである。
そして、国王や大統領自ら、無謀な戦争やテロ、犯罪行為に手を染めることを恥じない。一方、現実をつきつけられた官僚が、内紛を繰り返しながら、国王や大統領を諫言・弾劾した。これが朝鮮史である。
本稿では「韓国」「朝鮮」といった用語は区別せず、時代に応じて、カジュアルに使った。また朝鮮人名表示については、日韓新聞社協定成立以降、朝鮮語の発音を使うことが多く、大体それに従った。ただ、それ以前の人名は日本の慣用表現を用いた。ただ厳密なものではない。
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