目 次
プロローグ 1
第1章 「宗谷」はこうして生まれた 13
廃工場と老守衛 13
川南豊作という男 18
ソ連からの発注の謎 22
ソ連には引き渡さず 27
松岡洋右と「宗谷」 32
第2章 海軍特務艦「宗谷」 39
「宗谷」、南の海へ 39
敵魚雷、「宗谷」に命中す 50
激闘、トラック島 58
第3章 危険な輸送任務 69
人は「特攻輸送」と呼んだ 69
医師としての本分 74
敵機、横須賀に来襲 77
そして終戦 81
第4章 引揚船として、再び 86
「宗谷」に帰ってきた 86
日章旗、そして軍艦旗なき航海 92
故国の沖で、力尽く 97
新たな命、失われた命 101
第5章 命懸けの逃走 107
誰もいない原生林で 107
金日成の企み 112
元山港をめざして 117
ラジオ屋の主人の好意 121
第6章 海のサンタクロース 126
喜びも悲しみも幾年月 126
「汽笛吹けば 霧笛答ふる 別れかな」 133
第7章 「宗谷」南極へ 136
運命の南極会議 136
どこに出しても恥ずかしくない船 143
南極観測船「宗谷」 149
老兵「宗谷」、最後のご奉公 155
第8章 「宗谷」外伝 164
豊作が重んじたこと 164
お国のために戦った人たちを… 169
ふたりのパイロット 174
三無事件と自衛隊 178 「宗谷」関連年表 186
参考文献・資料他 187
あとがき[新装版] 189
新装版あとがき
『奇跡の船「宗谷」』を上梓してから五年が過ぎた今、幸運の船と言われ、国とともに歩んできたと言える「宗谷」に大きな危機が訪れている。海の上に浮いているだけに、その保存には相当な経費がかかるのだ。
メンテナンスは「船の科学館」や、ボランティアの方々などが懸命にあたってくれているが、「宗谷」がここに係留されるようになってからすでに三十年以上、やはり一度ドッグ入りして大掛かりな修理を施す必要があるという。
翻って言えば、今日まで姿を見せてくれることの方がすごい。「宗谷」の誕生は昭和十三年、南極観測船として大規模改造を施したとはいえ、人間でもこの年齢になったら持病の一つあってもおかしくはない。実際、元気そうに見えるが、見えない部分は錆びているなど傷みも激しい。
それなのに「宗谷」は、ずっと海の上で雨風をものともせずに、人々に自らの歩んできた昭和史を語り続けている。どうも、このお父さんは、いつまでも現役でいたいと見える。
しかし、平成二十三年はこれまでにない試練の年となった。東日本大震災、そして相次ぐ余震に台風……、こうした影響で、「船の科学館」の運営元である日本海事科学振興財団を支える競艇事業収入が減少していることや、館内の傷みも激しいことなどから、「船の科学館」は休館、そして「宗谷」とともにここのランドマークとなっていた「羊蹄丸」は手放さざるを得なくなったのだ。
「宗谷」もこのタイミングで、よもやスクラップという話が持ち上がったが、今回「待った」をかけるきっかけとなったのは、意外な人物の登場だった。
「キムタクですよ!」
あの木村拓哉が? ミッドウェー海戦、魚雷の命中、トラック島の大空襲などなど、数々の危機を潜り抜けてきた「宗谷」であるが、今度の救世主はキムタク?
実はこのたび、木村拓哉主演のドラマ「南極大陸」がTBS系で放映されることになり、「宗谷」でも収録が行われた。そうしたことなども鑑み、この船に関してはしばらく保存できることになったのだ。
とはいえ、あくまでも暫定的な決定であり、今後、長期的に保存するための方策があるわけではない。関係者の表情は複雑だ。
ただ、それにしても、本館も、「羊蹄丸」も見られなくなる中、「宗谷」だけが留まるというのは、まことに運がいいとしか言いようがない。
この強運の船をアッサリ諦めてしまえば、日本の運もなくなってしまうのではないかという気もしてしまう。
そんなことを考え、悶々としながら迎えた九月三十日、「船の科学館」が休館となる日、同館を訪れると、平日にもかかわらず多くの人々が駆けつけていた。
入り口には「ごきげんよう船の科学館」という看板が出ている。「サヨナラ」でも「お別れ」でもない「ごきげんよう」というひと言に、再出発する心意気を込めようと、館長はこの言葉にこだわった。
「ごきげんよう」のセレモニーは、閉館時間が近づく薄暮の中で行われ、三十七年間の無事を感謝する神事が斎行された。「羊蹄丸」では、かつてこの船に乗っていた関係者が集まり、出港の様子を再現。
隣にいる「宗谷」から「ご安航を祈る」を意味するUW旗が掲げられる。そして「羊蹄丸」は、UW1旗でそれに答礼する。
「当時はとにかく忙しくて、着いたらすぐに出港だったんですよ」
と、元キャプテン西澤弘二さんがしみじみ回顧しながら解説してくれた。出港直前に、乗客と一緒に悪魔が乗り込まないよう追い払うためだという銅鑼が鳴らされ、いよいよ別れの時となる。
長い汽笛が鳴り響く中、船内にいる人々から一斉に紙テープが投げられた。青函連絡船華やかなりし頃の光景そのままだった。「宗谷」もよく知っている時代の日本人の姿だ。「蛍の光」が流れる中、人々はいつまでもその場を離れようとしなかった。
そして、「宗谷」だけが残った。
かのキムタクは、雑誌(Myojo)のインタビューで「宗谷」について語っている。
「アイツってね、信じられない強運の持ち主なんだよ。戦争にも出ているんですよ」
自ら撮影場所を「宗谷」に指定したといい、後世に伝えることの大切さも付け加えている。
「戦後、何もなくなったところから、力を尽くして南極に行った人たちがいるという、過去の事実を新たに知るきっかけのようなものになってくれればいいなと……」
南極観測と言っても、あの頃はとにかく行っただけだった、などと言う人もいるが、「最初の一歩」を踏み出した人たちがいなければ、何も始まらなかった。
その「最初の一歩」である一次隊〜五次隊までの操舵長を務めた三田安則さんが、平成二十三年、他界した。
三田さんについての思い出はたくさんあるが、今でもその光景が浮かんでくる印象深いシーンがある。
三年前、「宗谷」が七十歳ということで、船上で古稀祭の神事を行った時のことだった。「宗谷」に関わった色々な人が集まっていた。
川南豊作氏の長女幸子さんをはじめとする親族、「軍艦宗谷会」のメンバー、海上保安庁関係者……、それぞれが玉串奉奠と参拝をしていき、「宗谷」で南極に赴いた南極観測隊の順番になった時だ。すべての人が同時に立ち上がると、誰が音頭をとるわけでもないのに寸分違わずに柏手が打たれた。
私は数多くの神事に参加したことがあるが、こんなに感動したことはない。その時の皆さんは、まさに命を分かち合った同志そのものであり、神々しかった。
おそらく、皆、三田さんに合わせて柏手を打っていたのだろう。私はなんとなく、そう確信した。そして、あの場にいた皆さんの心にいつも「宗谷」がいるような気がした。
「宗谷」の物語に登場する人物は、あまりにも多い。川南豊作から木村拓哉までを魅了し、厳しい世の中を生き抜いてきた。
休館セレモニーを終え、名残惜しい気持ちを抱えながら、またこれから先のことも心にひっかかりながら、お台場を後にした。
何の気なしに、振り返ると「宗谷」がニッコリと微笑んで「元気がないのか?いつでもここにいるから、会いにおいで」と言っているような気がした。
これから「宗谷」をどうするのか、それが今、私たち日本人の宿題となっている。
桜林美佐(さくらばやし・みさ)
昭和45年、東京生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。防衛省「防衛生産・技術基盤研究会」委員。著書に「奇跡の船『宗谷』」「海をひらく−知られざる掃海部隊」「誰も語らなかった防衛産業」(並木書房)、「終わらないラブレター−祖父母たちが語る『もうひとつの戦争体験』」(PHP研究所)、「日本に自衛隊がいてよかった−自衛隊の東日本大震災」(産経新聞出版)。
http://www.misakura.net/
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