序
安土城天守閣のことだけを天主と書く。それ以外は全て天守閣と書くことになっている。
なぜだろうか?
安土城天主は不思議な建物だった。実はそこは住居として使われた所なのである。織田信長はそこに寝て、そこで食事した。そしてそこから青い琵琶湖を眺めて暮らした。
ところが、安土以外のどこの城でも天守閣に人は住まなかった。ほとんど何の用もない、がらんとした空間が天守閣である。普段は誰も人が近づかなかったそこは、魑魅魍魎が跋扈すると決まって噂されるところでもあった。
だがなぜだ? なぜ眺望の開けた天守閣を人は好まないのだ? 信長以外の人間は、どうしてそこを住まいとしなかったのだ。人を凌がんと競った戦国の男は、より高く住むことには惹かれなかったのだろうか?
天主とはもちろんキリスト教の神のことではない。まして日本古来の神々とは違う。十六世紀のこの国に生きた、ある狂おしい魂の持ち主を指している。
それは、もちろん織田信長のことである。
織田信長は自らを天の主と考えていた。
彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うに至った。(ルイス・フロイス『日本史』)
「だから、彼の住まう楼閣は天主と呼ばれたのだ」
そう考えることは、信長という人を知れば知るほど短絡的とは思えないのである。それどころか、青い屋根瓦と金箔に彩られた安土城天主こそ、信長そのもの、信長自身をかたどったものではなかったかと思うほどである。
見る人は、よく晴れわたった朝、湖水に正しい影を結ぶ天主の姿に信長の晴朗な心を。夏の午後、空は暗夜に似て、雷光が照らし出す天主からは、誰もが知る信長の憤怒の形相を読み取っていたはずである。
すると、必ずこんな質問があるだろう。
「それでは天守閣とは何だ? 天守閣という言葉にはどんな意味があるのだ。そして天守閣にはなぜ人が住まないのだ。いや、それとももしかして、そこは人が住めぬ所だったのか?」
天主と天守の違いは、表記法の混乱ではない。もっとはるかに深い意味がある。
天主……世界の主、宇宙を司るもの。
天守……天を守るもの。または、天に守られるもの。
二つの言葉は、実は全く正反対なのだ。
では天守という言葉は、なぜ使われるようになったのだろう。
自らを天主と称した信長の記憶が、後の人に頭を垂れさせたのか? つまり天守とは「天の主である織田信長を守る」という意味なのか? それとも、単に自分の城に傲慢きわまりない呼称を使うのを嫌った結果なのか?
それとも? 天守という言葉には全く違う何かがあるのだろうか?
もしそうだとしたら、それはいったい……?
あとがき
「本能寺の変」の叛逆者と言えば、明智光秀に決まっている。ところが本書では、光秀を大忠臣(見方によってであるが)、真の叛逆者を織田信長だったと結論している。
だから、そこだけを聞けば、全くの奇説・珍説に他ならない。例の「ジンギスカンは義経だった」の類である。「本能寺の変」については、一時期、謎解きゲームのようなことも流行ったが、それと同類と見られても仕方ないだろう。
だが読み終えられた後、どんな感想が残っただろう。本書の言うところを評価してくれる読者もあるいはおいでかもしれない。「本能寺の変」の真実とは、信長が朝廷に対してくわだてたクーデター、あるいは示威行動の失敗だったということをである。
あらゆる事件には二つの側面がある。つまり、事件そのものと、その背景である。市井の事件の場合、事件そのものが人の耳目を引くが、背景について興味を持つ人はまずいない。そして、すぐに忘れられる。
ところが「本能寺の変」の場合、歴史を変える大事件であっただけに、研究の方向が事件そのものではなく、その背景に行ってしまうのである。だが、そこはご多分に漏れず、全く闇の中の世界である。残念ながら事件の背景について証拠らしい証拠は何も残っていないのである。
それだけに研究者の努力には大変なものがあった。とくにここ十年ばかりの間に、「本能寺の変」については、非常に良心的、かつ非常に優れた研究が幾人かの方によって発表されている。それによって織田信長という人物、あるいは当時の政治状況の多くが分かってきた。これは大変な成果である。
だが残念なことに、いま一つ「本能寺の変」を詰めきれていないという感想を持たれる方も多いのではないか。その原因の一つには、事件に対する考察の曖昧さがあると思うのである。
「本能寺の変」は、ともかく桁外れの大事件であっただけに、相当確かな記録がいくつも残されている。証拠の質も量も、毎日のように起きる市井の殺人事件などよりは、よほど豊かであると考えていい。だからこそ、視点を変えて、事件そのものに着目することで、逆に事件の背景に迫り得るかも知れぬと考えるのは、ごく自然の発想なのである。
本書の第一部は、事件そのものの考察である。そこから得た結果は、決して目新しいものではない。だがそれは、相当衝撃的なこととして読者の前に再登場することになったかも知れない。
第二部は、第一部によって示された道程をたどったものである。そして、そこに待っていたものは、全く意外な結論であった。
「信長こそ本当の叛逆者であった」
という、およそ想像外のことである。
確かにこのことは、それまでの常識を覆すことである。実は筆者自身も、これには相当戸惑うところがあった。本当に確信が持てたのは、あるいは、本書の執筆が終えた後だったかも知れない。それというのも、執筆中読み直した資料、あるいは新しく読んだ資料、それらの資料に、
「信長謀反が事実である」
ことを、確信し得たからである。少なくとも、それを否定する根拠となる文献は存在しないように見えるのである。
筆者は歴史家ではない。それだけに、自分の考えに果たしてどれほどの価値があるものかよく分からない。あるいは、本書のたどたどしい考察が、世間を騒がせ、真面目な研究の足を引っ張る結果に終わるなら、それは筆者としては全く遺憾きわまりないことである。反対に本書が、「本能寺の変」の謎を解明することに少しでも寄与するところがあれば、これは筆者にとって望外の喜びである。
ともかく懸案のものを書き上げ、ここしばらくほっとしている。やっと肩の荷が下りた気もするのだが、同時にやり残したことの多さも実感している。
とくに、記述の中で中国戦役のことについて、ほとんど踏み込めなかったことが残念である。それと、信長の異様きわまりない死が、後世にどんな影響を与えたかもきちんと書きたかったことである。それは豊臣政権ばかりか、朝廷にも、徳川幕府にも、その有り様について実に重大な影響を与えているように考えられるからである。
だが、いずれも膨大な紙数を要することだけに、ここでは問題をいくつか示す程度で終わってしまった。いずれその辺は、機会を改めて書いてみたいものと考えている。
本書は読まれた通り、研究書ではない。できるだけ読みやすく、面白くを眼目にしたものであるから、筆者の想像も遠慮なく書かせていただいた。ただ、引用については、少し狙いとは違って難解な面も残るが、基本的に原典通り採らしていただいた。
最後に出版の機会を与えていただいた、並木書房出版部と、途中ご協力賜った方々に感謝申し上げて筆を置きたい。
円堂 晃(えんどう・あきら)
1952年生まれ。1974〜2001年まで神奈川県、群馬県で中学校国語教員。専門の日本文学の他に歴史と古美術に興味を持ち研究にあたる。とくに日本古陶磁器に明るい。本書は著者の第一作となるが、元来は長編小説「信長後記(未完)」第四部として構想されたものである。近々上梓予定のものとしては、吉良上野介に視点をあてたノンフィクション「忠臣蔵」の研究(並木書房)がある。群馬県太田市在住。円堂晃は筆名。
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