立ち読み   戻る  

本書の刊行にあたって

 本書は海外でのNGO(非政府組織=Non Governmental Organization)活動中に発生すると予想される、戦争を含む人造災害と自然災害に対処する方法をできるだけ詳しく説明しようとしたものである。読者対象は国際開発学や国際社会文化学などを専攻しNGO活動に興味をもつ学生、およびこれから海外でのNGO活動に参加しようとしている社会人である。
 本書は準備篇と実践篇の2部構成とし、準備篇はNGO活動についての最低限の基礎知識を得られるように、また実践篇ではいざというときに現場で直ちに役立つよう、その技術をマニュアル形式で記述して、どこから読んでも必要な知識がすぐに得られるようにしておいた。しかし筆者が強調しておきたいのは、国内で事前に行っておくトレーニングの大切さである。そのため、放課後や終業後などに日常的に行う筋力トレーニング、山岳地をトレーニング地に選んで行う野外総合トレーニング法の概要を記して第1章に置いた。真剣に活動を希望するなら、必ず実践して欲しい。
 本書全体は、NGO活動を志す者以外に、海外のフィールドで人文科学・自然科学分野での研究活動を志す者にも読んで欲しいと願う。なぜなら、彼らが赴く地域もまた、自然環境が厳しかったり、政治的社会問題が内在している地域であることが多く、NGO活動以外の研究者といえども、現地住民との交際を無視することは許されず、また現地の政治的社会問題に無縁でいることは許されないからである。
 一方で、本書はフィールドを志す者が知っておいて欲しい測量術、気象学など関連する自然科学の知識は割愛した。本来、NGO活動に従事する者ほど幅広い学際知識を要求されるのだが、これらの学問分野はそれぞれが専門領域として独立しており、勉強すればするほど奥が深い。その分、それぞれによい解説書があるので、自分に合った分野や学問領域を探すためにも、勉強会を開催するなどして自主的に勉強して欲しい。なお、第5章で紹介した「救急法」は、受講希望者が一定人数に達すれば日本赤十字社に講師の派遣を依頼できるので、大いに利用するとよい。
 私たちが出かけるのは安全快適な地ではない。災害緊急救助地では快適な生活環境システム自体が崩壊しているから、快適なホテル住まいを期待するわけにはいかないし、動物生態学など自然科学を志す者が出かけるのは、自分たちが生活していた環境とは異なる、厳しい自然環境の地である。また生活困窮地や民族学調査・地域研究などで赴く、自分たちのことをより正しく世界の人びとに理解して欲しいと願う人たちが生活しているところは、往々にして政治的な問題が内在する地域である。そして、なんらかの武力衝突が頻発する地域にこそ、今すぐ援助の手を求めている人たちがいる。
 私たちが赴くのはこうした地域である。そこに生きざるをえない人びとは、私たちの興味を満足させたり、私たちの人生の思い出を美しく彩るために存在しているのではない。したがって、第1章で解説するトレーニングは、趣味やスポーツなど個人的な楽しみとして行うものでは決してない。トレーニング中はこのことを絶対に忘れず、疲れても奮起し、ふたたび立ち上がり、初志を貫徹せよ。どのような状況であれ、鍛え上げられた身体と知識で自分の身を守れる者こそが余力をもって無理なく、他者を助けられる力を持つのである。志を持つ者が本書を通じて、平時においては現地の人びと以上の、災害時や武力紛争時には兵士以上の体力と知識を発揮し、現地の人びとを支援できるようになることが筆者の願いである。                                 

目 次

本書の刊行にあたって

準備篇                           

第1章 トレーニングの方法 ………………………………………12

 1-1 自然環境への備え 身体トレーニング論  13
  筋力トレーニングの必要性  13
  身体疲労によって陥りやすい精神状態  13
  必要とされる身体・筋力とは  14
  自分の身体能力を知ることの大切さ  16
  倫理的観点  16
  身体トレーニング法  17
 1-2 生活環境への備え 生活技術トレーニング論  21
  生活技術習得の必要性  21
  習得すべき生活技術の範囲  22
 1-3 フィールド観察力トレーニング  23
 1-4 野外総合トレーニング法  23
  野外総合トレーニングとは  23
  山岳地で行うトレーニング法  24
  とくに習熟したい技術  24
  最低限必要な個人装備  25

第2章 NGO活動の行動基準………………………………………27

 2-1 NGOの役割  28
  役割と機能  28
  社会的土壌の前提  29
  政治に対する前提  30
  活動と第三国への介入  30
  NGOをチェックするのは誰か  31
 2-2 NGO活動の基本単位  31
  単独活動が理想になる理由  31
  単独活動が余儀なくされる場合  33
  組織化する場合  33
 2-3 現地NGOとの付き合い方  34
  宗教団体とNGO活動  34
  現地の人に協力を依頼する場合の注意  34

第3章 活動中の心理学 予想される悩み …………………36

 3-1 活動中の心理チェック  37
 3-2 人間不信に陥ったら  38
  有史前からの現象  38
  文化を超えた現象  38
  庶民の知恵と強さ  38
 3-3 民族紛争宿命論に陥ったら  39
 3-4 民族主義・民族自決主義に反論できなかったら  40

第4章 情報収集の方法……………………………………………………42

 4-1 一般的な情報源  43
  情報収集の方法  43
  情報収集時の一般的注意  44
  集めた情報の正否の目安  45
 4-2 自然環境の情報源  46
 4-3 自然環境情報のチェック項目  47
 4-4 偶発的事件に対する事前想定対処計画  49

実践篇                            

第5章 保健衛生の知識と救急法……………………………54

 5-1 健康を維持する方法  55
      十分な水の摂取  55
      十分な食物の摂取  57
      衛生管理の方法  58
 5-2 緊急に対処すべき症状  61
      呼吸障害  61
      激しい出血  61
      ショック  61
 5-3 緊急保命の手順  62
      気道確保と気道維持  62
      止血法  63
      ショック防止と処置  67
 5-4 骨と関節の怪我  68
      骨折  69
      脱臼  70
      捻挫  74
 5-5 噛み傷と刺し傷  74
      処置法  75
      ハチの刺し傷  75
      クモの噛み傷とサソリの刺し傷  76
      ヘビの噛み傷  77
 5-6 さまざまな傷  79
      外傷  79
      皮膚病と軽い病気  81
      凍傷  82
      霜焼け  83
      火傷  83
 5-7 環境障害  84
      熱射病  84
      低体温症  84
      下痢  85
      腸内寄生虫  85
 5-8 現地の民間療法  86

第6章 火起こしの技術と火の使い方…………………87

 6-1 火の基本原則  87
 6-2 場所の選び方と準備  88
 6-3 焚き火の材料の選び方  89
 6-4 火の焚き方  91
 6-5 着火法  92
 6-6 役に立つヒント  96

第7章 飲料水と植物性食物の知識………………………97

 7-1 水を浄化する方法  97
      浄化方法  97
      有害な水を飲んだ場合  98
      脱臭方法  98
 7-2 水を見つける方法  99
      さまざまな自然環境と水源  99
      水の代わりに他のものを飲んだ場合  99
      その他のヒント  100
 7-3 植物性食物の一般的知識  101
 7-4 世界標準可食性テストの方法  102
      有毒植物の一般的な判断基準  103
      実施手順  103

第8章 シェルターの作り方 ………………………………………105

 8-1 シェルター用地の選び方  106
      自然からの安全確保  106
      武力紛争地の場合の条件  106
 8-2 シェルターの種類  107
      ビニールシート差し掛け型  107
      シートテント  109
      3本ポール型パラシュートティーピー  110
      1本ポール型パラシュートティーピー  112
      無支柱型パラシュートティーピー  113
      その場の材料を使った差し掛け小屋  113
      沼沢地用ベッド  115
      自然の地物を利用したシェルター  116
      デブリーハット  117
      木の根元を利用した雪穴シェルター  118
      砂漠用シェルター  118
      地下式シェルター  119

第9章 道具・装備類の応急代用品 ………………………121

 9-1 紐縄類  121
      強度テストの方法  121
      紐類の材料  121
 9-2 リュックサックの作り方  122
      ホースホー・パック法  123
      スクウェアー・パック法  124
 9-3 衣類と断熱材  124
      パラシュート構成材  124
      植物の繊維  124
 9-4 調理用具と食事用具  125
 9-5 ドリル  125

第10章 乾燥地域での活動…………………………………………127

 10-1 地形のタイプ  127
      高地山岳砂漠  128
      岩礫台地  128
      砂砂漠と砂丘砂漠  128
      塩水低湿地  129
      侵食地形帯  129
 10-2 環境要素  129
      少ない降雨量  130
      強烈な日差しと炎暑  130
      大きな気温差  131
      まばらな植生  131
      高濃度ミネラル分  131
      砂嵐  131
      蜃気楼  132
 10-3 水の必要性  133
      作業レベルと水の必要量  133
      熱障害を防ぐ水分摂取量の指標  134
 10-4 熱障害の処置法  135
      熱痙攣  135
      熱消耗  135
      熱射病  135
 10-5 熱障害の予防法  136
 10-6 砂漠でのその他の危険  136

第11章 熱帯地域での活動…………………………………………138

 11-1 気候  138
 11-2 森林の種類  139
      熱帯雨林  139
      二次林  140
      熱帯季節林とモンスーン林  140
      乾性疎林  140
      サバナ  141
      塩水低湿地  142
      淡水沼沢地  142
 11-3 道のない密林の歩き方  142
 11-4 飲料水の確保  144
 11-5 キャンプ地の選び方  145
 11-6 熱帯での危険  145
      虫から身を守る方法  145
      その他の注意  146

第12章 寒冷な気候下での活動………………………………148

 12-1 寒冷気候と環境  149
      湿性寒冷気候の環境  149
      乾性寒冷気候の環境  149
 12-2 風冷効果  150
 12-3 寒冷地での基本原則  150
      基本原則  151
      その他の注意  152
 12-4 保健衛生  153
 12-5 健康上の危険  153
 12-6 寒冷障害  154
      低体温症  154
      凍傷  155
      霜焼けと浸水足炎症  156
      脱水症  157
      寒冷性排尿過多  157
      日焼け  157
      雪盲  157
      便秘  158
 12-7 火  158
      燃料  159
      注意すべきこと  159
 12-8 飲料水  160
 12-9 移動  161
 12-10 天候変化の兆し  162
      風  162
      雲  162
      煙  163
      鳥と虫  163
      低気圧  163

第13章 信 号 …………………………………………………………………………164

 13-1 信号手段  165
      注意を喚起させる視覚信号  165
      聴覚信号  170
 13-2 コード標識と合図  170
      SOS信号  171
      地対空救難コード標識  171
      ボディーシグナル  171
      航空機からの合図  171


あとがきにかえて 行動したいと考える読者へ

 本書の背景

 本書は恵泉女学園大学ジオグラフィカル・ソサエティーのために編まれた小冊子から生まれた。恵泉女学園大学国際文化学科で非常勤講師として、タイ北部に居住する山地民に関する講座を受け持っていたとき、二つのことに気づかされた。一つは学生諸君の異文化に対する興味の強さと海外に出かけることの気軽さ、海外NGO活動に参加したいとする熱い想いである。もう一つはそんな学生の想いに対応しきれていないカリキュラム編成の現状だった。学生の希望とそれに応えられないカリキュラム。その矛盾は、NGO活動に関連する分野が学問的には歴史が浅く、教育システムとして体系づけるには指導教員の養成不足、学問上のデータや業績の蓄積不足、他分野とのカリキュラム調整などに、大学のように総合的な体系を整えなければいけない教育機関としては、いま少しの時間が必要なことに起因しているのだろう。
 しかし学生諸君の想いには答えなくてはいけない。そこで一介の非常勤講師でも、すでに決められている大学のカリキュラムに抵触することなくできることはないかと考え、NGO活動や人文科学・自然科学分野のフィールド調査に必要な生活技術を学ぶクラブ活動を思い立って、ジオグラフィカル・ソサエティーを学内に創設し、指導用の小冊子を編んだ。
 その小冊子では、本書の原型となるさまざまな筋力トレーニングの方法と生活技術を記した。一方で、四季を通じて学生諸君と手近な山に出かけ、野宿を含む野外総合トレーニングを行った。そこで学生諸君は人間にとって飲料水と食料がいかに重要か、また疲労が人間に及ぼす影響などを、自分の体験を通して学習した。また、NGOの支援対象となる現地から来日し、今は日本に在住する方々を招き、さまざまな意味で闘いの日々だったパーソナル・ヒストリーの一端も学生諸君に分け与えてもらった。
 訓練すべきことは多かった。たとえていえば、登山家ならエベレストの山頂に登り、無事に下山すれば活動は終了するが、NGO活動を志す者は、エベレストの山頂に登っても、山頂に留まって実りある何らかの活動をしなければならない。したがって、クラブ員は一流の登山技術を習得するのはもとより、登山家以上の体力が必要とされることになった。また学ぶ範囲も幅広く、自然科学や民族学などの一般的な人文科学の知識の他、保険・衛生や軍事学にも精通しなければならなかった。とくに軍事学は必須だった。なぜなら、武力紛争が生じる可能性が高いか、すでに生じている地域では、進攻してくる軍事組織が近代的な軍事組織か、私兵に近い集団かで対応が異なる。
 たとえば兵站は確保されているかいないか。確保されていなければ略奪行為が行われる可能性が高いし、不祥事が発生する可能性も高い。国際公務員である国連職員や、国家公務員であるPKO(平和維持組織)隊員が一時撤退したからといって、NGOも撤退しては、NGOの趣旨に反する。NGOは民間団体である社会的立場を生かし、自分の生命は自分で責任をもち、たった1人でも現地に留まらなければいけない。なぜなら、国連職員やPKOが撤退したときこそ、現地の人びとが支援を切に願うときだからである。そのための軍事知識だった。

 もうひとつの背景

 クラブ活動のための指導用の小冊子には、下敷きにした参考書があった。アメリカ合衆国陸軍が兵士のために編んだ『サバイバル・マニュアル』である。この教本は、世界各地を環境別に分けて、航空機・船舶事故など平時や戦場でのさまざまな状況を想定して、そこからの離脱・生還方法を記したものである。第2次世界大戦中にその原本が作られて以来、何回か内容が改訂されているが、その原本を執筆・編集した主要スタッフの1人にチャールズ・アレン・K・イネステイラー氏がいる。ベルギーからカナダに移住し、カナダ騎馬警官やカナダ空軍パイロットを務めたイネステイラー氏は、その豊富な極地体験をかわれ、1929年からバード少将のアメリカ南極探検隊に副官として参加し、観測基地に単独で越冬した高名な極地探検家でもある。また、第2次世界大戦後はイギリス軍のほか、民間航空会社の教官として、サバイバル技術の指導普及に務めた。
 1967年に北極点到達を夢見て、アムンゼンの越冬訓練地でもあったノルウェー北部のラップランドでトナカイ牧畜の仕事に従事し、いまだ第2次インドシナ戦争の戦火が終息していなかった1970年代初めから北部タイ山地民社会に関わりをもっていた私は、彼の子息ラノルフ・D・イネステイラーと仕事先で知り合いだった縁で、1981年にこの教本を翻訳し、以後、合衆国陸軍の改訂版に合わせ、『アメリカ陸軍サバイバル・マニュアル』のタイトルで2002年までに4回の出版をしている。
 なぜ私が同書を出版したかといえば、当時の日本は若年層を中心にアウトドア・ブームと諸外国の田舎にリュックを背負って出かけるバックパッキング・ブームが湧き起こり始めていたから、その時流に合わせて危機管理の知識を社会還元しようと考えたことも理由の一つである。しかしもう一つの理由もあった。当時、いまだNGOという語と概念は世界に誕生しておらず、欧米のほとんどの国で徴兵制が維持されていた時代、海外で出会う(今で言う)NGO関係者のほとんどは入隊経験をもち、程度の差はあれ、軍隊で最低限のサバイバル訓練を受け、本人が生まれ育った自然環境とは異なる自然環境での生活技術や保健衛生の知識、事故の際の対処の仕方などを知っていた。一方で、海外で彼らとともになんらかの支援活動をしたいと考える日本の若者は、常識ともいえる知識を彼らと共有しておらず、その結果、海外に出かけた日本の若者には、本人が気づかないまま、行動と、行動によって得られるはずの認識の獲得に制約が生じているように思えたからでもある。
 したがって、今後、欧米各国のNGOメンバーと同レベルの行動知識を得たいと考えるなら、本書を役立てて欲しいし、さらなる知識を得たいなら、サバイバル・マニュアルの最新版『米陸軍サバイバル全書』(2002年、並木書房刊)を参考にするとよい。
 2002年9月11日現在、一部NGO関係者の間では、「日本が国際社会での地位にふさわしい貢献をするためにも、紛争地にNGOを派遣したいが生命の危険があるし、民間には危機に対処する訓練施設もないので、危険な紛争地には日頃から危機に対処する訓練を受けている警察出身者や自衛隊出身者を派遣するよう、政府が考えて欲しい」との声もある。しかし、この発想は社会の未熟さを自ら白状しているようなもので、日本社会の恥である。なぜなら、政府と関係を持たないことを大前提とするNGOの趣旨にまったく反するし、知識がないなら、NGO自らが訓練施設を造るなり、志があるなら一人一人が自主的にトレーニングに励むべきだからである。
 たとえば今日、紛争の最前線に乗り込んで武力行使を許さない手段の一つとして、「人間の楯」運動がある。この方法をとる欧米のNGO団体のほとんどは、威嚇射撃を含めた銃弾の中で身を守る訓練を参加者に義務付けている。幾度も繰り返すが、紛争地で行動するなら兵士以上に、また災害地や貧困地で行動するなら現地の人以上に、劣悪な生活環境に耐えうる体力と生活知識が必要となる。それには日頃のトレーニングしかない。
 本書は、以上の背景の中で書かれたものである。

 行動したいと考える読者へ

 本書を読んで、自分も行動してみたいと考えるなら、ぜひ行動することだ。しかし、単独活動の自信を得るまでどこか適当な団体に入会したいと希望するものの、自分に適したNGOをどうやって探せばよいか分からない読者もいることだろう。その場合、新聞記事の集会案内や自治体広報紙誌の伝言板、あるいはインターネットなどで活動内容と団体連絡先を調べればよい。さまざまなNGOの活動情報が得られるから、その中から活動内容に興味を感じたNGOに連絡をとり、集会や活動に参加してみることが行動への第一歩となることだろう。
 ただし忘れてはならないことが一つある。それは、支援を必要としている人びとは身近なところにいる、ということである。本書で取り上げた海外での支援活動の他にも、支援を必要としている人びとには、介護を必要としている高齢者や身体の不自由な人たち、ホームレスの人たち、または勉学意欲があっても種々の理由で就学できない児童、孤立無援のまま環境保護に取り組んでいる人など、国内にもさまざまな分野に無数にいる。また支援にも、労力を提供する方法から金銭の寄付までさまざまな方法がある。
 それにもかかわらず、誰が困っている人なのかが分からず、また行動したいけど何をすればよいか分からないなら、まだ何もしない方がよい。それはものを見る目が培われていない証拠だから、高校生なら後日の行動のために進学して専門知識を得る道に進み、大学生なら勉学に励んで現実を見通す基礎的な視点を養うほうがよい。また社会人なら、さらなる知識の習得に努めた方がよい。そして最終的には自分の経済的基盤を確立してから行動に移ったほうが、何も分からずに行動するより、無理なく行動できる。
 上記の読者になぜ今すぐの行動を勧めないかといえば、支援活動には持続こそが大切で、勝手な中断は支援対象となる人びとにとっては、迷惑にしかならないからである。また、現地の人びとの視点に立てる若い人の中には、紛争地で理不尽な場面を目撃したら、銃を手にする人も少なからずいる。しかし、銃で問題は解決しない。銃を取るなら地元に起業し、経済戦を戦うほうが効率がよい。事業の利益をさまざまな形で地元に還元して支援活動を行う、いわゆるNPO(非営利組織=Non Profit Organization)の設立である。そのためにも知識を蓄えよ。その方が問題解決の早道である。そして今は、身体を鍛え、生活技術を習得し、ものを見る目を養う準備期間に当てよ。

 結びにかえて

 先人はいる。たとえば、19世紀後半から20世紀全般にかけて数々の業績を挙げたノルウェーの海洋学者フリチョフ・ナンセン(Fridtjof Nansen=1861〜1930)は1906年、スウェーデンからのノルウェー独立に尽力してノルウェー初代駐英大使となった後、1917年のロシア革命、また1918年の第1次世界大戦終結とともにヨーロッパ各国に出現した政治亡命者とロシア飢餓民の救済にあたりつつ、1920年に設立された国際連盟で難民救済を訴えた。これにより、彼は国際連盟より難民救済の国際事務所長に任命され、民族と国家を超えて難民を救済する組織作りを世界で初めて行い、ヨーロッパで国籍を剥奪された難民200万人に「ナンセン旅券」と呼ばれるようになる身分証明書を個人の立場で発行して、彼らの生活安定に役立てた。そして1922年のノーベル平和賞を受賞し、彼が中心となって設立したナンセン難民国際事務所も1938年にノーベル平和賞を受賞した。1901年に始まったノーベル賞の歴代受賞者のうち、生前と死後の2回にわたってノーベル賞を受賞した者は、100年を超えるノーベル賞の歴史の中で、フリチョフ・ナンセンただ1人の栄誉である。
 しかもその受賞部門が専門とする科学ではなく、平和賞であるのが興味深い。今日では忘れられているが、このナンセンは若き日に当時のヨーロッパで英雄視されたほどの極地探検家で、19世紀後半に北極が海であることを実証した科学者として、海洋学・地理学史上にその名を残している人物でもある。北極が海か大陸か地理学上の謎だった当時、ヨーロッパ北部に生えるスコット松がシベリア沿岸に漂着しているのを見て、彼は北極が広大な海であり、スコット松は海氷に閉じ込められたまま海流に乗って北極海を横断したとする仮説を立てた。それを実証するために氷に閉じ込められても船体が壊れず、逆に氷圧で氷上に押し出される丸底の探検船フラム号を建造した。そして1895年、計画通りに氷上に乗り上げたフラム号とともに北極海を漂った。彼はフラム号が北極点近くを通過すると予想していたが、予想より南を通過すると判断された時点で、隊員1名をともなって新シベリア諸島沖でフラム号と別れ、徒歩で北極点に向かった。しかし食料や装備の不足により北緯86度14分で北極点到達を断念し、海氷上を歩いてフランツ・ヨゼフ・ランド経由、母国ノルウェーを目指した。その旅は過酷だったが、1年後、フラム号がヨーロッパ北極圏のスピッツゲルゲン島に達したのとほぼ同時期に母国に生還を果たしたほどの体力と生活技術の持ち主であった。
 フラム号の丸底船体の発明で地球最大の謎を解明したナンセンは、その他にも、犬橇に使役したイヌを食料に転用したり、行動中に狩猟したアザラシの皮で小舟を造るなど、過酷な環境の中で創意に満ちた発想と方法論を編み出し、また彼が選択し工夫した装備一式は「ナンセン式」と呼ばれて、後に続くR.アムンゼンらに大きな影響を与えた。たとえばアムンゼンはフラム号を借用して南極海に向かい、犬橇を引くイヌを食料に転用して1911年、人類初の南極点到達に成功している。また他にも科学者としての彼は、数多くの海洋観測器具を発明し、海洋学の巨人として海洋現象の解明に多くの業績を残している。
 しかし、世界的な海洋学者であり極地探検家であるナンセンが、なぜ難民救済に乗り出したのか。一つには、彼が第一級の科学者として、地球規模での視点をもっていたことが挙げられるだろう。たとえば彼がフラム号で北極海漂流実験を志した19世紀末は、ヨーロッパとアジアを結ぶ通商のための最短航路として、北極海の利用が考えられていた。彼の実験航海は、地球規模での経済効果をも視野に入れたものだったのである。一方で、彼は母国ノルウェーの独立運動を平和裏に進める活動を通じて、政治の世界をも体験した。自然物としての地球と、人造物としての政治。今日、ノルウェー政府が世界平和に国家として取り組む伝統も彼の影響といわれている。そして3番目の理由として考えられるのが、世界一過酷な自然環境の中で営まれた生への戦いにより、同じように生への戦いを強いられている人びとを見逃すことができなかったという想いだろう。そしてその想いを実行可能と考えさせた自信は、探検家として培われた体力と生活技術への自信に違いない。
 なお、ナンセン難民国際事務所の仕事は第2次大戦後の国際連合において国連難民高等弁務官事務所に引き継がれ、ナンセン旅券の精神は「世界人権宣言」や「難民の地位に関する条約」の中に結実している。
 このような先人たちがいたことを、どのような困難なときであれ、忘れてはいけない。友は現地の人びとと先人たちの中に見つけよ。貴方は1人ではない。
                               2002年10月

                                鄭 仁和
鄭 仁和(てい・じんわ)
1948年東京生まれ。在日韓国人2世。上智大学卒業。日本シーサンパンナ文化協会会長。在日シャン人文化友好協会顧問。元駐日アフガニスタン・イスラム共和国大使特別補佐。論文に『「難民」という共同体意識から見た北部タイ山地民社会』(「民族学研究」2002年6月、日本民族学会)、訳書に『米軍サバイバル全書』(並木書房)、著書に『いつの日か海峡を越えて』(文藝春秋)、『遊牧』(筑摩書房)など。