はじめに
「ここのところの色はもう少し濃いほうがいいんだな」
こう言ってよくアドバイスしてくれたのは、私の叔父・山下清です。
私が小学生のころの夏休みの宿題はいつも貼り絵でした。
相手が誰であろうと合わせることができずマイペースをくずさなかった叔父は、人に#教える$ということを極端に嫌っていました。ですから、叔父のもとに美術大学の学生などが弟子入りの志願に来ると、ことごとく断ってしまい、生涯を通じて弟子をとることはありませんでした。
それを考えると、叔父から直接貼り絵の指導をうけていた私は、山下清の唯一人の弟子といえるかもしれません。
画家・山下清、そして彼を終生かわらぬ愛情によってささえた母親・ふじ、弟の辰造、辰造の妻・礼子。私にとってはそれぞれ叔父、祖母、父、母という人たちです。あとから加わった私・浩と私の弟・茂が山下家のメンバーです。
叔父から教えられたこと、学んだことはたくさんあります。そのなかで今も強く心に残るのは「あるがままの自分に正直に生きよ」ということです。このことは、本書を読み進んでいただければ、読者の皆さまも感じていただけるのではないかと思っています。
四九歳という若さで人生の幕を引いた山下清――。
人は彼を「放浪の天才画家」と呼んでいました。
放浪中のできごとについては、これまでいろいろな書籍やテレビドラマ、あるいは映画などによって、おもしろおかしく紹介されてきました。しかし、どれも知的障害者としての山下清像が先行しすぎているのです。そのイメージのもとに絵画作品も批評されていることは非常に残念です。
「兵隊の位になおすと……」という流行語まで生み出したり、奇妙な言動で笑いを誘い、映画やテレビドラマを通じて広く知られた山下清像が、まったく実像とかけはなれているとは言いませんが、家族だけが知るもう一人の山下清がいたこともまた事実です。
人並みはずれた記憶力の持ち主で、超がつくほどの几帳面な性格。作品を制作するときも、自分で決めた作業時間を忠実に守ります。
また、いたずらが大好きで、負けず嫌い。相手が子供といえども絶対に手を抜かず、トランプでも何でも自分が勝つまでやめません。
放浪時代は着の身着のままの姿でしたが、ほんとうはたいへんオシャレで服装にも気をつかっていました。マスコミにその言動が注目されるようになると、自分がどう扱われているかとても気にするナイーブな一面もありました。
自分の体を大切にするあまりいろんな健康法をつぎつぎと試してわけがわからなくなったり……。叔父が大嫌いだったサインをしてくれたおかげで、家族全員が飛行機事故に合わないですんだ、などということもありました。
ほんとうの山下清を知ってほしい。そうすれば叔父の作品もまたちがった角度から見てもらえるのではないか――。そんな家族の思い、願いから一冊の本にまとめてみました。
叔父が残したかずかずの作品は、見る人たちになにかあたたかいものを感じさせる貴重な作品として評価されています。
私たち遺族は、次の世代の人びとにも作品を見てもらえるように、作品の保存に力を注いでいます。
劣化した作品の修復作業などをはじめ、近年にわかに表面化してきた贋作問題など、山下清の名を汚さないことを念頭において対応しています。
なぜそこまでしなければならないのか――。
そうしなければ、いままで叔父の作品に対して、数多くの人たちからいただいた評価、あるいは鑑賞していただいた方々の純粋な気持ちというものがすべて台無しになってしまうからです。
そのため私たちは、叔父の作品を未来永劫つたえていけるようできるかぎりのことをしていく覚悟です。
本書では、これまで表面には出なかった、家族しか知らないさまざまなエピソードを紹介しながら、もう一つの山下清像に迫っていきたいと思います。
目 次
はじめに
第1章 天才画家・山下清 11
日本を代表する素朴画家 11
驚異的な記憶力 14
絵を描くための放浪ではない 17
貼り絵に生かされた虫捕り 21
清の弟子は生涯ただ一人 24
素描画や陶磁器の絵付け作品 28
百貨店を超満員にした清 34
第2章 放浪の果てに 36
新たな放浪への旅立ち 36
姿を消したほんとうの理由 40
徴兵を逃れ、ふたたび放浪へ 42
放浪中は住み込みで働いたことも 47
貼り絵との出会い 50
一躍有名人になった放浪画家 53
「ゴッホなんて知らない」 56
全国くまなく歩いた清 59
「もう放浪はしません」 63
どこに行っても見つかる清 66
第3章 素顔の山下清 69
おもしろいことを言うと、みんなが喜ぶ 69
少しならうそはついてもいい 72
辰造と礼子の結婚 75
イタズラ好きな清 80
超がつくほど几帳面な性格 82
人には見せなかった負けず嫌いな一面 84
動物に好かれるニオイがする 86
魚釣りの名人? 88
なんでも試す清の健康法 91
清の最大の楽しみ 96
忘れてならないことは「清に頼め」 98
有名人・山下清 99
清の女性観 103
外出するときはベレー帽 106
家族旅行で仕事から逃避 109
大嫌いなサインで命拾い 112
第4章 山下清交遊録 116
映画やテレビドラマ化に戸惑う 116
テレビのバラエティーショーに二年間出演 123
山下清を発掘した人たち 126
式場隆三郎先生との出会い 128
「週刊朝日」で徳川無声氏と対談 130
芸術家から見た人間・山下清 135
「絵が売れればゴッホも死ななかった」 139
ゴッホとの共通点 142
ゴッホに涙? 147
山下清の絵にすくわれた人たち 148
第5章 晩年の山下清芸術 152
ヨーロッパへのスケッチ旅行 152
キャンバスにおさまらなかった大作 156
ライフワークとしての『東海道五十三次』 157
最後のことば 161
再評価される『東海道五十三次』 166
第6章 次代に伝える山下清の作品 170
教育の現場に役立つ 170
全国各地を放浪する遺作 173
表面化した贋作問題 174
二十一世紀にひきつぐための修復作業 183
あとがき 187
山下清の年譜と主な作品 189
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