立ち読み   戻る  

目 次

風と口笛の乗りもの 地球を駆けたい アルプスの自転車
「海外遠征隊ご用達」で衝動買い 一生モノ「ゴロー」の登山靴
鍛えた刃物は二百四十七種 江戸誂え鍛冶の切り出し
ユーコン川への夢馳せる 異色ビルダーのカナディアン・カヌー
鉄慈しむダマスカス鍛え 四国梼原町・影浦工房の猟刀
江戸工芸の粋伝える 二代目「竿富」の和竿
プロが鍛えたプロの海道具 安房の磯金、突き銛
昔の賢いお爺さんの知恵 山の民の弁当箱「井川メンパ」
荒磯の香り匂いたつ 房総八街の釣り用角籠
男の子の永遠の宝モノ 風前の灯、かね駒の肥後守
気儘な旅烏が選んだコンテナー HOSONOのリュック&小型バッグ
あとがき


あとがき

 この数年来、夕方五時になると、ハンで捺したように酒である。十分と時間が狂ったことはない。どんなに忙しくても、体内時計が「アルコール・タイムですよ」と、正確に告げてくれる。私は仕事を放り出し、仕事部屋兼昼寝部屋から這いだして、ダイニング・キッチンのテーブルにつく。六時には、すでに人事不省、昏睡状態に陥っている。
 酒の切れ目は、キッカリ七時間後である。午前一時に目が醒める。モゾモゾ台所へ入っていき、コーヒーを淹れる。マグ・カップを持ったまま、万年床に戻る。やがて白々明けに、家人の寝室から犬がやってくる。フサフサの髭をたくわえたシュナウザー種のメス犬である。犬は、フスマの破れ穴から首をつきだして、じーっと私の様子を窺っている。数分後、破れ穴を潜りぬけてひっそりと近寄ってきた犬は、ひんやり濡れた鼻面で、私の首筋を押しあげる。知らん顔を決めこんでいると、かつぎ上げた前肢をふり下すようにして、私のハゲ頭を引っ掻きはじめる。爪を立てないように、気を遣っているのが判る。散歩の催促をしているのである。
 目醒めてからそれまでの五〜六時間が、私の「勉強時間」ということになっている。「勉強」しているかといえば、むろん、していない。全然、していない。

 壁にしつらえた書棚に、私の遊び道具が並んでいる。カメラ、交換レンズ、ストロボ、双眼鏡、リール、タックル類、ナイフ、砥石セット、水筒、簡易ストーブ、コッヘル、コンパス、偏光グラス、パイプ、ジッポ、時計、眼の入っていないダルマ、アフリカやアジアの仮面、大工道具、彫刻刀セット、暗視装置、絵の具箱、飲みかけの酒ビン等々。書棚の脇のフックには、大小七つ八つのバッグ類が下がっている。

 腹這いになったまま、本を読む。アキると、書棚から地図を抜きだして、かつてほっつき歩いたことのあるルートを確認し、ぼんやり旅を反芻しながら時間を捨てる。三十分に一本の割でタバコを灰にする……。
 たとえば、今朝。
 私は、パタンと本を閉じると起きあがり、この数年、いっしょに旅してきたリュックを棚のフックから外す。万年床にあぐらをかくと、なにがなしに前かがみの、点検の姿勢になっている。すりむけてケバ立った底革、ほつれかかった負い紐の縫い目、染みついた汗のシミ、フタの裏ポケットから出てきた皺だらけの領収書、時刻表を写したメモ、博物館やら美術館やらの入場券の半券、ひきちぎったガイド・ブックの地図。かつて厚い渋紙のようだった九号の帆布は、穿きなれたジーンズのように、手ざわりがこなれている。リュックの底を覗きこむと、懐しい旅の匂いが詰っている。カビと汗の乾いた匂いを吸いこむと、それは様ざまな記憶を生き返らせる変にチクチクしたエーテルと化す。あのときはああだった、こうだったと記憶の断片をもてあそんでいると、旅空の下で出遇った男や女、碧空に刺さった遠い大伽藍の尖塔、出まかせに下りたった港町で嗅いだ潮の香り、看板まで飲み続けた古都のバルの薄闇、パゴダの谷間に落ちていった赫々たる夕陽の震え、茫々と海辺で過ぎていった刻み目のない時間││溶けかかった記憶のディテールが、明滅しながら、やがて、あざやかに立ちあがり、迫ってくる。
 長年使いこんだ遊びの道具たちは、たとえ古リュックひとつでも、道具としての存在を超えている。ときに忠実な下僕であり、戦友であり、伴侶であったばかりでなく、意識の底に深く痕跡を刻み、持ち主の肉体や精神の一部になっている。原稿用紙に向かって、自分史を書くまでもない。使いなじんだ道具たちは、持ち主の思索と行動の軌跡をとどめた一冊の記録となっているのである。ガイドのひしゃげた一本の釣竿然り、ブレードの研ぎ減りしたナイフ然り、形の崩れた傷だらけのブーツ然り││。

 この本は、私自身が日ごろ使い馴染み、あるいはいつか使ってみたい遊び道具を採りあげたものである。タイトルが示す通り、登場する道具は、すべて年季の入った職人によって、ひとつずつ丹精こめて作られている。どのひとつにも、工場から送り出される製品にはない、手のぬくもりと、職人の心意気が閉じ込められている。夜更けにこれらの道具を手にとって、じっと耳を澄ませば、野に吹く風や、磯に砕ける波の叫び、農夫や杣人の息づかいが聞こえてくる。やわらかで自然なデザインと組み立てそのままに、心をなごませる使い勝手のよさが、手作りの道具のよさであろう。使い込めば使い込むほど手に馴染み、味わいと愛着が深まる。それというのも、何代にもわたって作られ、使われてきたこれらの道具には、素朴な見かけの懐に、作り手と使い手の知恵と経験が積み上げられているからである。
 古くなったら捨てるのではなく、直し、手を加え、使う側の成長に合わせ、道具そのものを育てていく愉しみも、手作りの道具ならではの魅力であろう。遊びにどんな道具を選ぶかは、男たちにとって、ないがしろにできない主張のひとつである。大ゲサを承知でいえば、ライフ・スタイルを選択することとイコールである。
 昭和三十年代を境に、職人とその仕事の衰退がしきりにいわれてきた。しかし、取材で各地を歩きまわってみると、意外にも彼らの仕事は、見直されつつあるとの印象を強く受けた。均質で没個性的、ほどほどによかろう、安かろうというツルピカ製品にあきたらず、手の仕事を尊重する男たちが、むしろ増えているように思われたのであった。
 私は、文明の根底は、「手の思考」によって築かれると考えるが故に、この国から手でモノを作る尊い伝統が消えてしまわないよう願わずにはいられない。その意味では、職人の仕事を支持する層が、少しずつでも増えていることを評価したい。
 本書が、職人とその仕事を見直すささやかなよすがとなれば、これに勝る著者のよろこびはないのである。
織本 篤資


織本篤資(おりもと・とくすけ)
1941年東京都生まれ。フリー・ライター。60年代より世界各地への放浪を重ねる。著書に『犬をつれて旅にでよう:スペイン・ポルトガル放浪300日』(並木書房/中公文庫)、『ナイフ学入門』、『和式ナイフの世界』、『ナイフの愉しみ』『和竿の旅(仮題)』(いずれも並木書房)。