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●目 次

はじめに 
  七百通のアンケート
  戦後教育半世紀の現状
  陸上自衛隊の若者教育 
  若者たちの笑顔の元になるもの

第1章 集団の中で個性を生かす

  居心地のよい集団
  自尊感情を育てる陸上自衛隊の集団 
  自己実現にむけて
   「お前は部隊の代表なんだよ」  第四三八会計隊(川内)米村誠2尉
   頑張る「お母さん」候補生  第六後方支援連隊 輸送隊(神町) 八鍬みどり士長
   「人中心の組織なんです」  第六特科連隊第五大隊第十中隊(郡山) 渡辺邦孝1尉 
   上司に贈られたありがたい言葉  第一普通科連隊 重迫撃砲中隊(練馬) 片山慎二(元)士長
   俺を守るために分隊長は銃を執った  北部方面輸送隊 第三〇五輸送中隊(真駒内)右田優次1曹と森靖弘3曹

第2章 若者のこだわりを直視する

  自分をありのままに受け入れてくれない学校
  それぞれの「こだわり」にやさしい自衛官
 「自己同一性(アイデンティティ)」の成り立ち
  「どうしてですかの細田君」  第二飛行隊(旭川) 細田勝己3曹
   無茶な挑戦でも  第五音楽隊(帯広) 井雲大助3曹
   上司のまなざし  西部方面通信群第三〇二通信支援中隊(健軍) 佐藤立栄3曹

第3章 なしとげた、やってのけたの充実感

 「ゆとり」の間違ったとらえ方
  暇がない、時間がない中で得るもの
  変わる若者に驚く人たち
  やらせてみて失敗から悟らせる
  命令に盲従しない
  「先のこと」を考えて  第十二通信大隊 本部管理中隊(相馬原) 石栗伸太郎士長
  「らっぱ」の響き  第二十二普通科連隊 第一中隊(多賀城) 河村拓士長 
  「異なる経験」を通して  第四地対艦ミサイル連隊 第一中隊(八戸) 一言和男士長

第4章 「自分はどこにいるのか」という不安の中で

  うわべの「認識」ばかりを大切にしてきた教育
 「生きる意欲」を育てることを失った教育
  「いまどこにいるのか」の教育をする陸上自衛隊
  相談を受けたらただ聞いてやれ
   目の前のことから  第十八普通科連隊 第二中隊(真駒内) 前田忠男3佐
   口を出さずに  第一普通科連隊第三中隊(練馬) 矢口博政士長
   長続きしない自分  第十対戦車隊(春日井) 大橋巧3尉
   苦しんでいる人のために  第五高射特科大隊本部管理中隊(帯広) 中田運平士長
   その場の生活の糧ではなく  第二十七普通科連隊第一中隊(釧路) 篠原達也3曹

第5章 「師弟同行」という勲章

 「熱血教師」の陥りやすい罠
  新隊員教育隊の出会い
  ともに追究する意味での「師弟同行」
  「あいつは、大器晩成だよ」  第十一戦車大隊 第三一七戦車中隊(真駒内) 本村慎太良士長 
   自衛隊はいつも下から見られるところ  第二施設団第一〇四施設器材隊(船岡) 太田哲也3曹
   あの人と走りながら  東部方面武器隊第三〇八武器野整中隊(富士) 斎藤敏正3尉
   いろんな人と接して  第三四八会計隊(善通寺) 石川由紀候補生

第6章 「モデル」を持つ人たち

  子育ての下手な日本人
 「サザエさん」という戦前のモデル
  若者たちの期待に応えられない教師たち
  モデルの条件――自衛隊教育の特徴 
   あの女性自衛官に憧れた高校生  第十二師団司令部付隊(相馬原) 橘内博美士長(輸送科)
   助教だった陸曹の姿が  第十二師団司令部付隊化学防護小隊(相馬原) 古川和臣候補生 

第7章 「孤独」という挫折から立ち直る時

  挫折の本当の中身とは
  孤独に陥った若者を救う
   ふたを開けたら面白くなった  第一後方支援連隊補給隊(練馬) 須藤健太郎士長 
   一人ぽっちでない。自衛隊という所は  第六施設大隊第二中隊(神町) 人見哲也3曹(技術陸曹)
   周囲とぶつかりながら  第一〇四基地通信大隊 第三一九基地通信中隊(北熊本) 山下昇3佐 
   自分という人間が見えた  第四普通科連隊第三中隊(帯広) 金沢宣明士長 

第8章 教えることと育てること

  学ぶことが何につながるかを知りたかった
 「物心両面」で自衛隊が私を育ててくれた
  育てる側に立って
  自衛官生活、最大のハイライト
  共に悩み、考えること
  国家の守りの使命感を育てる

第9章 自衛隊と陸軍と学校教育
       ―近代市民国家の「もう一つの学校」―

  自衛隊を無視してきた教育界
  制度いじりと社会状況の論議のむなしさ
  教師たちが責任を問われにくい状況
  必要なのは「教師のあるべき姿」論と「学校」論
  もう一つの学校「自衛隊」
  近代市民国家の軍隊 
  戦前社会の中の学校教員と兵役
  小学校教育に期待されたもの
  陸軍が構想した良兵=良民教育 
  軍隊教育を再評価する―社会の近代化に果たした役割

第10章 教育の側から陸上自衛隊を見る

 「学校教育」を支えてきた「暗黙の了解」
 「学校は社会の鏡」ばらばらの個人が集まるだけ
  社会の風に立ち向かう陸上自衛隊
  まとめに―陸上自衛隊と日本文化

資料 陸上自衛隊の基礎知識


●はじめに

 七百通のアンケート

 目の前に七百枚あまりの資料がある。その一枚ごとに若者の人生がつまっている。
 陸上幕僚監部は、平成十年春、全国の部隊に「若者教育」の資料提供を依頼した。百五十余か所の駐屯地から、FAXや電話が寄せられた。
 内容は重かった。これほどにも日本は広く、若者とその指導者の抱える事情は多様なものだろうか。一枚一枚に目を通す。そこには見事なばかりに日本社会そのものがあった。
 なぜ学ぶのかと悩み、大学進学を放棄した若者がいる。不況の中で職を失い、新天地を陸上自衛隊に求めた若者もいた。災害の救助活動中の隊員を見て、社会への貢献をしたい、そう思って高校を出るとすぐ入隊した若者。自分を鍛え直すために一般2士を志願した大学生。
 まさに現在の社会をそのままに映し出している内容が多い。これに加えて、過去の経験、出会いを語ったものもある。それぞれに時代が、若者や陸上自衛隊に落としている光と影が見える。
 高度経済成長が続いている頃、陸上自衛隊が不人気な頃に入隊した若者は定年間近い准尉や中隊長となっている。なお人が見向きもしなかったバブルの頃に、好んで入隊した若者も、中堅あるいは上級陸曹となって現在の若者に向き合っている。
 指導される側から、する側へ立場が変わり、世代も替わり、自分たちの常識が通じないとの悩みも彼らから聞かれる。若者は変わったという。
 変わらないものは、陸上自衛隊で行われている、若者と語り合い、生活を共にし、その成長を援助する指導者たちの姿である。「若者は変わらない」と断言する服務指導の担当者である付准尉(中隊付の先任陸曹)もいる。長い経験の中で得てきた実感であろう。
 戦後、教育界からは誰も自衛隊の教育に目を向けようとしなかった。
 企業内の教育と混同されたものか、それとも、何でも自衛隊のものなら否定する時流のせいだったのか、不思議なことであった。
 毎年、一万人以上の若者が自衛隊に入隊し、ほぼ同数の若者が社会に出る。内部にはOJT(就業間教育)を中心にした教育システムが完備している。教科書もあり、教育課程もある。若者は、そこで全寮制の教育を受ける。服務指導という生活指導が行われる。個人の適性や将来の生き方を考える進路指導も備わっている。
 アンケートには教官たちの肉声がある。成功例があり、挫折した若者を立ち直らせた要因がこまかに分析されている。周囲とうちとけず、孤立しがちな若者にみんなで声をかけた実践例が紹介される。進路に悩む若者に、親身になって相談に乗る教官たちの姿が目に浮かんでくる。
 もちろん、失敗例も率直に書かれている。あらゆる手だてを尽くしたのに、救うことができなかった悔恨と反省が文面からにじみ出る。誠意をつくし、努力を傾け、それでも手のひらからこぼれる砂のように自衛隊から去っていく若者の姿もある。
 若者が見えない、とらえきれないという声が社会には多い。たしかに、大人からは無意味に見える反抗を繰り返し、傍若無人に振る舞う若者がいる。あるいは、無気力に毎日を過ごし、周囲に心配ばかりかけている子どもたちもいる。どうすれば若者たちが望ましく変わるのだろうか。その方法が分からないという、いら立ちが社会の中にはある。
 だが、自衛隊にはいら立ち、あきらめ、手をつけかねている時間はない。自衛隊は専守防衛の武装組織であり、常に異変に備える組織でもある。毎年入れ替わる若者たちを、とにかく一定の能力を持つ隊員にしなければならない。速効性のある、しかも脱落者をなるべく出さないようなさまざまな有効な教育手法をとっている。
 七百枚のアンケートには、教官たちの試行錯誤が書かれている。若者の行動、変容ぶりも明らかであり、貴重な教育実践の記録と言えるだろう。

 戦後教育半世紀の現状

 ひるがえって、学校教育界の現状を見よう。
 教科書問題から始まった「歴史認識」論争がある。
 その決着はいつつくか分からない。つきつめてしまえば、日本の近代史をどう評価するかの戦いである。歴史はつながっている。どちらの側も現在の自分の生き方や価値観を賭けた話し合いにならざるを得ない。簡単には、折り合えるものではない。
「学級崩壊」「高校中退」「不登校」という現象がメディアに紹介される。
「いじめ」や「進路指導」に関する未解決な問題も山積している。
 そんな中で、学校完全週五日制実施が決定した。これから話題になるのは、新しい学習指導要領と、それに伴う教育課程の作成である。新学習指導要領は、的確に現状を分析し、それに対する有効な手だてを各種盛りこんだ。
 毎度のことながら文部省の態度は一貫している。ほぼ十年ごとの学習指導要領改訂のたびに、その姿勢は「公教育の理念は人間中心」を真ん中に据えてゆらぐことはない。
 日本は文部省の統制がきついといわれる。上意下達が激しいと非難される。だが、文部省の姿勢は一貫して進歩的である。比べてみると教育現場や社会の現状はなんと遅れていることか。
 文部省は二十年も前から言い続けてきた。詰め込み主義の教え方が間違っていたと。これからは個性の時代であるから、一人ひとりの思いを大切にせよ。子どもたちの意欲を育てろ。機械的な平等はやめて、個性に合わせた実質的な平等を考えよ。体験的な学習の場を増やし、子どもたちの五感を駆使した学習を保障せよと。
 これらを忠実に実行していたら、現在の教育現場を悩ます諸現象は、確実に減っていたに違いない。つまり、文部省や多くの教員たちの善意とは無関係に、日本社会はその欠陥を子どもや学校の上に現わしている。子どもの人権擁護、学ぶ権利の保障と言いながら、実態はそこにいかない現実がある。その現実を見聞きしながら、誰も行動を起こせない。誰にとっても『現実は仕方がない』という無力感があるからだ。

 陸上自衛隊の若者教育

 陸上自衛隊には現在、約十五万二千人が所属している。このうち、六千人、あるいは七千人あまりが新隊員と呼ばれる入隊したばかりの若者である。彼らの経歴はさまざまであり、共通しているのは満十八歳以上であることぐらいだ。最高年齢は満二十七歳である。大卒である、結婚しているといった例も珍しくない。
 志望理由はさまざまである。公務員で、不況でも安定しているから、とりあえず試してみよう、自分を鍛え直すためという動機が多い。最近増えたのは社会貢献ができる職業だからという理由である。
 教育団、教育連隊、教育隊に入り、十週間にわたる新隊員教育課程を受ける。それまでの生活とのあまりの違いに誰もが驚く。体力的に厳しいことはもちろん、精神的にも苦しい。幹部になるために入隊した大卒の幹部候補生も同じような体験をする。それまで自分が持っていた自信など粉々になるほど、体力以外は当てにならないことを思い知らされる。
 隊員であることが続くか続かないかには、最初の志望動機は、あまり関係がないという。それほどに厳しい。それを乗り越えると、後は職種(兵科)ごとの教育がある。合わせて半年。部隊に入る。最初の二年間は陸上自衛隊にとっては「先行投資」でしかない。やはり、使い物になって、部隊の中で一人前に貢献できるようになるには、三年間が必要だという。
 一任期二年単位で契約する一般2士にとっては、二任期目が分かれ道である。四年間の経験ののち除隊して、就職援護を受けて、新しい人生に踏み出すか。それとも三任期目に賭けて陸曹候補生を目指すか。
 定年まで勤められる陸曹を希望するものが増えている。世の中はバブル経済から一転、再就職の道は年々険しくなる。できることなら残りたいという者ばかりだ。
 それに加えて、平成の大軍縮が行われる。陸曹になる道はこれも狭く、最近では十倍を越える競争率である。日本社会の抱えている欠陥がここにも現われている。
 バブルの頃、自衛隊は不人気だった。3K(キツイ・キタナイ・キケン)の代表のように言われ、とりわけダサイ陸上自衛隊には誰も見向きもしなかった。この頃、考えられた制度が「曹候補士」だった。優秀者を選抜して、当初から、いつか陸曹にならせる約束をして人を集める算段である。
 ところが、経済は暗転した。とたんに入隊希望者が増え、退職者は減った。入隊してから努力した一般2士もなかなか陸曹になれなくなった。
 陸上自衛隊では服務指導という生活管理を行い、進路指導という「将来にわたる生き方設計」も手厚く行っている。アンケートにある失敗例の他にも、もっと多くの涙が流されている。
 ここでもまた、多くの自衛官の善意と関わりなく「日本社会の現実」が若者と、彼らに接する自衛官の上にのしかかっている。

 若者たちの笑顔の元になるもの

 部隊を歩いてみると、若者たちの多くははつらつと暮らしている。
 激しい雨の降る山の中で、重い通信器材を背負い、走っている通信手。流れる水で川のようになっている谷間の道に、除染所を開設するために杭を打つ化学手。糧食輸送の途中、泥にはまったトラックを押す輸送隊の操縦手。高射特科大隊の陣地の端に穴を掘り、半長靴を水にひたしっきりの歩哨。テントの中で、携帯燃料の炎に靴をかざす足がふやけた小銃手。草で偽装した戦車の横で腹ばいになって敵情監視をする装填手。どの若者も目が澄んでいる。
 明るい駐屯地の午後、施設大隊のブルドーザーの整備に汗を流す若者たち。重いキャタピラーを数人で抱えている。指揮者はその中の一人である。「上〜げっ」という掛け声が明るく揃った。補給隊の野整備工場では天幕補修用の大型ミシンを分解している。先輩の手の動きを見落とすことなく食いいるように見つめる若者。一日中、コンピューターの前に座ってキーパンチに余念のない会計隊の若い女性陸士。雪の降りしきる飛行場の管制塔で、当直の二時間をじっとすごす管制気象隊の陸曹。誰からも心の安定を見てとることができる。
 新隊員教育の一端を、ある普通科連隊で見た。ちょっと前まで、いかにも一癖も二癖もあったような元高校生たちが座っている。初夏の季節で場所はコンクリートの隊舎の屋上である。じっとしていると暑く、汗が吹き出してくる中を、彼らはオリーブドラブの作業服をきちんと着こなし、帽子をかぶり不平も言わない。
 指導者は二人しかいない。負傷した仲間の腕を応急処置で包帯する教育だった。二人で組になってでき上がると手を挙げる。教官は衛生隊の陸曹だった。この点検がていねいである。一人ひとりが納得できるよう話しかける。なぜ、これでは不十分かをかんでふくめるように言う。相手の顔を見ながら締め方を加減することなど、実に具体的でていねいなのだ。
 結果、手を挙げ続けていても、なかなか順番が回って来ない。それでも、不平を言う者がいない。不服そうな顔つきをする者も見ない。右手を挙げ続け、疲れて、左手に代える時にも、不満そうな目つきになることはない。誰もが、指導者の公平さと、誠実さを信じているからだ。
「ほんとうに、穏やかな顔になるんですよ。いらいら、つんつんした表情がなくなるのです」
 そう話してくれた連隊長は、偶然下から見上げた若い隊員と目が合ってしまった。あわてた相手に連隊長は頬をゆるめた。隊員は唇をかんで、てれ笑いをごまかすと、あらためてにっこりと笑い返した。
 ここでは一人ひとりが、かけがえのない仲間として大事にされている。その気持ちが、若者に通じ、学校教育で得てこれなかったものを若者は手に入れているのではないか。学校教育や家庭でも傷つけられてきた心を、ここで癒しているのではないか。
 こんなことを考えながら、いつか自分の目で足で実態を知りたいと思った。
 本書は、その願いが陸上幕僚監部の好意でかなえられ、半年間の準備、企画、取材を経て、ようやくまとめあげたものである。
 回答の読み取り作業は、若者たちが教育で変わることができた要因を探ることから始められた。調査の依頼にあたって、陸上幕僚監部は先入観を持たなかった。事実をありのままに集めたいと考えた。そのため、アンケートの質問項目は少ない。若者の「入隊時期、採用区分、入隊時の特性、現在の状況、変化を与えた要因とその期間」だけだった。それに「被教育者所見」として本人の弁がある。自由記述だから、すべて、ありのままに肉声が載っていた。
 そのため分類作業は困難をきわめた。教官のとった教育手段や方法は多岐にわたり、しかも、それらが複合している。アンケートの収集と整理を担当した陸上幕僚監部のメンバーは総がかりで、何度も記事に目を走らせた。昨年の夏いっぱいはそれで終わった。この作業と並行して、筆者は陸上自衛隊の学習を始めた。それがなくては、書かれた行間を読めないからである。
 いわゆるルポにはしたくなかった。隊員たちとできるだけ同じ目の高さで、陸上自衛隊という組織を、自衛官という人々を眺めたいと思った。
「きれいごとばかり」という批判もあろう。しかし、未来を担う人づくりの現場には「元気」と「希望」がなくてはならない。「社会の学校」に明るい話題が少ない今だからこそ、「自衛隊という学校」に咲く美しい花をみつけたいと思っている。
 ご指導、ご叱正を戴ければ幸いである。


●おわりに

 陸上自衛隊に、陸上自衛官に関心を持ったのは三年前のことだった。
 富士学校(静岡県小山町)主催の総合火力演習の入場券が、教え子の伯父、高山昭彦2佐の好意で手に入った。板妻駐屯地(御殿場市)に車を預け、そこからバスで会場に向かった。駐屯地内の若い隊員の細やかな応対に感心し、駐屯地司令あてに簡単な礼状を書いた。すぐに丁重な手紙が届いた。それが櫻井大作1佐(現幹部候補生学校学生隊長)との交友の始まりになった。平成十年の春、第三十四普通科連隊の幹部、陸曹たちと話し合う機会を持てた。空挺団の見学で知り合った高山和士3佐(東部方面総監部広報室)のお骨折りだった。
 その頃、混乱が続く教育現場に、どうかして有効な提言ができないものかと私は考えていた。教育について語ることは、自分自身を語ることに等しい。意図的な教育とは、望ましい成長をとげるように相手に働きかけることだ。望ましい教育を語ることは、そのまま、自分自身の人間観や社会観を人前にさらすことである。社会観を語っていけば、人は必ず国家観につきあたる。このことを忘れた教育談義が多い。テレビやマスコミに載る論調には、意図してか、無意識にか、それを避けている様子がある。国家や社会のあり方と無縁な教育論は本来あり得ない。
 ところが、戦後公教育の現場では、国家、社会の現実から目を背けてきた。社会の動向に関心も持たず、経済構造の変化や、技術革新にも目を向けず、「学校は社会の外」のような気分でいた。まるで、社会と無関係に子どもが成長するかのような議論がまかり通ってきた。教育界が不誠実だったとは言わない。むしろ善意を持ち、誠意をこめて教育実践を行った多くの人々がいる。ただ、足りなかったものがある。社会や国家というものが現に存在し、子どもや若者を取り囲んでいること。その風が学校にも吹き込んでくるという、ごくあたり前の現実を認めることだった。
 いまも教育界では、そのことに無頓着である人が多い。さまざまな事件に振り回されているのがその証拠であり、有効な手だても打てていない。「子どもが変わった」「社会が変わった」というばかりで、学校はなかなか変わっていないのだ。陸上自衛隊の教育現場に立つ幹部や陸曹たちは語ってくれた。「若者は昔も今も変わりませんよ」という。「何に力を向けていいか分かっていないだけ」とも語る。彼らには、明快な教育目標がある。「人のために働く」「国家の有事に備える」「陸上自衛隊の戦力は人だ」という信念である。これが若者に彼らを寄り添わせ、若者を変えていく力になっている。
 陸上自衛隊を学ぶために、部隊や学校を歩かせてもらった。第十二師団長洗堯陸将、長野陽一副師団長、赤谷信之幕僚長には一方ならぬお世話になった。新潟県関山演習場にもでかけた。演習の状況中という忙しい中でも、出会った誰もが暖かく迎えてくれた。
 北部方面総監部では松枝実総務部長はじめ石堂哲広報室長以下の皆さんの心のこもったもてなしが忘れられない。雪の舞う旭川では、第二師団佐藤貞夫総務課長、平野克廣広報班長が駐屯地名物のカレーでもてなしてくれた。二晩をお世話になった真駒内駐屯地では第十一師団安田章広報班長に取材の調整で面倒をかけた。分からないことがあると、前第一師団長石飛勇次陸将(現富士学校長)、第一師団山下輝男副師団長、石井裕二第一普通科連隊長に何でも聞くことができた。神奈川地方連絡部横浜西募集案内所の佐々木悦朗次長は、募集業務や陸曹の生活などについて貴重な教示を与えてくれた。資料を快く提供してくれた陸幕広報室の全メンバーにも心からお礼を申し上げたい。
 以下、研修に協力して下さった部隊、学校の名前を挙げ、お礼の言葉にかえたい。富士学校教導団、施設学校教導隊、武器学校教導隊、第一特科連隊、第一対戦車隊、第三十二普通科連隊、第十二師団司令部付隊化学小隊、同保安警務隊、第十二高射特科大隊、第十二特科連隊、第十二戦車大隊、真駒内駐屯地業務隊補給科糧食班、北方管制気象隊旭川派遣隊、婦人自衛官教育隊と各駐屯地広報班のみなさん。
                                   

●荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部教育学科卒業。横浜国立大学大学院修士課程(学校教育学専修)修了。横浜市の小学校で教鞭をとるかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、横浜市小学校理科研究会役員、横浜市研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。現在、民間教育推進機構常任理事、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』(出窓社)、『「現代(いま)」がわかる―学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生)』(並木書房)