立ち読み   戻る  



目 次

各軍司令部主要職員一覧表 15
(明治三十七年七月一日現在)
戦闘序列 16

はじめに〜本書の目的〜 21

1、隠蔽された事実 22

第一部 通史編 ………………………………………29

第一章 日露開戦へ 30

1、日露間の緊張と無鄰菴会議 30
2、参謀本部の実質的決定機関だった部長会議 32
3、参謀総長大山巌の上奏 35
4、湖月会の謎 36
5、作られた伝説 39
6、発言に現れた人間性 45
7、極東政策をめぐるロシア政府の意見対立 47
8、参謀総長大山巌による韓国問題解決意見書の単独上奏と御前会議 49
9、田村怡与造の急死と児玉源太郎の参謀本部次長就任 53

第二章 陸海軍の対立 その1 60

1、陸海軍円滑化の立役者児玉源太郎 60
2、臨時派遣隊の韓国派遣が先か、海上権確保が先か 61
3、陸軍と海軍の戦略観の相違 68
4、戦史が内包する偏向性の問題 70
5、『機密日露戦史』の陸軍開戦牽引史観の誤り 72
6、海軍大臣山本権兵衛が持つ二つの貌 76

第三章 陸軍省と参謀本部の対立 81

1、平時と戦時とで逆転する陸軍省・参謀本部の力関係 81
2、宣戦布告前に部隊を外地に派遣する権限はだれが握るのか 82
3、大本営設置をめぐる争い 84
4、陸軍大臣の権限はなぜ強いのか 86
5、軍制改革をめぐる日露戦後の暗闘 86
6、大井成元の回想 91

第四章 虚構の勝算 95

1、「日本は日露戦の勝敗を逆睹したるや」96
2、満洲は「人烟稀薄」なり 99
3、なぜ満洲の給養能力算定を誤ったのか? 102
4、シベリア鉄道の輸送力 103
5、シベリア鉄道輸送力の誤算はなぜ生じたのか? 105

第五章 日露両陸軍の作戦計画 108

1、編纂者の手で修飾された公刊戦史 108
2、明治三十五年までの対露作戦計画の変遷 110
3、明治三十六年の対露作戦計画 112
4、開戦当初の対露作戦計画と児玉源太郎の終末戦略構想 121
5、陸軍作戦計画に対する批評 126
6、ロシア軍の作戦計画 130

第六章 日露両陸軍の戦術思想と軍制 136

1、日本陸軍の戦術思想とその問題点 136
2、日本陸軍の軍制 140
3、ロシア陸軍の戦術 141
4、ロシア陸軍の軍制 142
5、ロシア陸軍が抱えていた問題 144

第七章 ロシアに先んじて京城を占領せよ 146

1、誤りの多い先行研究 146
2、「変装」臨時派遣隊案(暗号名ハチスカ)147
3、臨時派遣隊に対する軍令系統をめぐる参謀本部と陸軍省との対立 151
4、「武装」臨時派遣隊案(暗号名「コロク」)151
5、二つの出兵方式 その1 臨時派遣隊方式 153
6、二つの出兵方式 その2 限定出兵方式 156

第八章 韓国内における第一軍に対する作戦指導 162

1、京城を確保せよ 162
2、四少佐の意見具申 170
3、平壌北方の開進地へ向かう進撃難 172

第九章 鴨緑江会戦 177

1、大本営の意図と第一軍の任務 177
2、義州へ向かう進撃難と兵站の困難 179
3、功名心が災いした定州の戦い 181
4、佐々木支隊召致に関する大本営と第一軍との対立 182
5、第一軍司令部の不安と架橋材料不足 184
6、鴨緑江渡河日時の決定 186
7、司令部内の論争 その1 渡河は可能か不可能か? 189
8、作戦計画の下達と作戦立案に際しての苦心 191
9、司令部内の論争 その2 攻撃開始前の砲戦の可否 193
10、砲戦とさらなる議論の発生 194
11、命令無視により戦局が動いた鴨緑江会戦 195
12、蛤蟆塘の追撃戦と歩兵第二十三旅団長木越安綱の独断 197
13、戦勝の要因となった十二サンチ榴弾砲と渡河点の秘匿 198
14、鴨緑江戦の意義 202

第十章 陸海軍の対立 その2 204

1、大本営陸軍参謀の憂慮と企図秘匿の徹底 205
2、二転三転する第二軍の上陸地 207
3、陸海軍対立の原因と二つの海軍戦略思想 212
4、上陸地変更が陸軍作戦に与えた影響 216

第十一章 第二軍上陸作戦 218

1、第二軍司令部の編成 219
2、第二軍の出発と敵前上陸への危惧 220
3、上陸計画と当時の上陸要領 222
4、大本営の深憂 225
5、独立第十師団の上陸をめぐる陸軍内部の意見衝突 226
6、船腹量不足 228

第十二章 第二軍による金州半島の遮断と南山附近の戦闘 230

1、第二軍司令部の決心が二転三転する原因となった緒戦の重圧 230
2、十三里台子附近の戦闘での軍司令部の狼狽と小川又次の激怒 233
3、十三里台子の軍幕僚会議と第二回目の決心変更 234
4、大本営の督促電報と第三回目の決心変更 235
5、公刊戦史が隠蔽した金州城における日本軍の潰走 237
6、南山攻撃開始と万難命令 240
7、肖金山の幕僚会議と奥保鞏伝説の嘘 241
8、南山攻略の陰の功績者兵頭雅誉 243
9、ロシア軍はなぜ退却したのか? 244
10、追撃停止の原因と公刊戦史の嘘 245
11、戦勝の要因となった海軍の協力と艦砲の威力 246
12、南山の戦いの戦術上の意義 247

第十三章 五月初旬から六月下旬までの作戦指導 250

1、内線作戦と外線作戦 250
2、大本営の情勢判断 251
3、第二軍の北方への転進命令と第二軍司令部の憤慨 252
4、旅順問題 254
5、第二軍の作戦に影響を与えた軍司令部参謀長の性格 255
6、大本営と第二軍の意見対立 256
7、第二軍司令部内での意見対立 258
8、得利寺の戦い 259
9、苦戦の原因と追撃が不徹底に終わった理由 263
10、軍旗誤認事件 264
11、第一軍の鳳凰城進出 264
12、第一軍司令部の状況判断 266
13、第一軍司令部内の論戦と松石安治の積極論 266
14、浅田支隊派遣問題をめぐる対立 270
15、岫巌占領をめぐる浅田支隊と独立第十師団の暗闘 273

第十四章 遼陽へ向かう前進計画と満洲軍総司令部の編成 276

1、政府および陸軍首脳会議と爾後の作戦計画の大綱の決定 276
2、「六月中旬以後に於ける作戦計画」278
3、満洲軍総司令部の編成 280
4、満洲軍総司令部が抱えた組織上の問題点と山県構想の挫折 283
5、大山巌はなぜ総参謀長に児玉源太郎を起用したのか? 285

第十五章 遼陽へ向かう前進 286

1、雨季前の遼陽会戦構想を挫折させた第二軍の糧秣補給の困難 286
2、第二軍の前進難にみる日露戦争初期の日本軍の兵站 289
3、第二軍の窮地を救った人力貨車輸送と秋田毅による船舶輸送 297
4、大石橋への進出問題で再演された第二軍の消極的行動 299
5、大石橋の戦い 301
6、析木城、海城占領をめぐる満洲軍の作戦指導の失敗 305
7、佐々木支隊をめぐって再燃した大本営と第一軍との意見対立 307
8、摩天嶺の戦い 308
9、楡樹林子・様子嶺の戦い 309
10、ロシア軍はなぜ攻勢に出なかったのか? 312
11、実現しなかった錦州湾上陸作戦と戦略予備問題 313

第十六章 遼陽会戦 318

1、遼陽会戦作戦計画とその問題点 318
2、日本陸軍は遼陽で包囲殲滅を狙わなかったのか? 325
3、寒坡嶺、弓張嶺、浪子山附近の戦闘と予備隊投入の苦悩 326
4、追撃から始まった遼陽会戦 334
5、首山堡は「不良カード」なのか? 338
6、第二軍司令部を困惑させた第四師団長小川又次の独断 342
7、戦史から隠された秋山騎兵旅団の失敗と助攻だった第二軍・第四軍 344
8、第四軍の苦戦と満洲軍総司令部の焦慮 346
9、第一軍の「独断」による太子河渡河と幻の太子河撤退命令 348
10、九月一日の第一軍幕僚会議 350
11、第一軍の戦況が「極めて不良」であった九月二日 352
12、九月三日の第一軍幕僚会議 354
13、消耗戦と遼陽占領 357
14、九月四日の危機 360
15、参謀は第一線に出なかったのか? 361
16、追撃不実行 364
17、なぜ日本軍はロシア軍の殲滅に失敗したのか? 365
18、ロシア軍の敗因 367
19、外国人観戦員退去問題と児玉源太郎の辞職願 369

第十七章 沙河会戦 375

1、大本営の第二期作戦計画 375
2、遼陽会戦後における満洲軍の作戦計画 377
3、各軍攻勢意志の研究 383
4、作戦計画をめぐる謎(十月九日〜十一日)392
5、満洲軍総司令部の命令に関する問題 397
6、前浪子街奪取と悶胡蘆屯事件(十月十二日)398
7、満洲軍総予備・第五師団投入問題(十月十三日)400
8、第二軍の戦闘に影響を与えた大迫尚道と島川文八郎の性格(十月十三日)401
9、万宝山の敗戦(十月十六日)404
10、沙河会戦末期の追撃停止 405
11、沙河会戦後の攻勢停止 408
12、児玉源太郎の師団長・旅団長評価 411
13、沙河会戦における満洲軍の会戦指導に関する論評 413

第十八章 沙河対陣 418

1、陣地構築 419
2、機関砲の配属と要員の訓練 420
3、不正確な地図 421
4、満洲の野を照らした電灯 422
5、士気弛緩 423
6、黒溝台会戦に影響を与えた決定 423

第十九章 黒溝台会戦 その1 426

1、二つの誤判断 426
2、満洲軍総司令部の意思決定過程 429
3、満洲軍総司令部参謀尾野実信の狼狽 431
4、情報主任参謀福島安正の情報軽視と誤判断 432
5、第一線部隊と大本営の敵情判断の誤り 433
6、満洲軍の騎兵使用の誤り 435
7、満洲軍は「歓待の手段」(秋山好古)をとっていなかったのか? 435
8、忘れられた矢左エ門作戦もう一人の発案者 438
9、兵力の遂次投入という批判は妥当か? 440
10、第八師団司令部の指揮能力に不安を抱いていた満洲軍 443
11、黒溝台会戦とは? 444

第二十章 黒溝台会戦 その2 447

1、第八師団の作戦構想に関する通説の誤り 448
2、立見尚文、敵情を楽観視す 451
3、立見師団長の統率 452
4、黒溝台会戦の小田原評定 453
5、夜襲の失敗とロシア軍退却 454
6、敵将の心に突き刺さった牽制砲撃の弾片 455

第二十一章 旅順攻囲戦 457

1、もし第一回総攻撃当時から二〇三高地を攻撃していたら? 458
2、第一回総攻撃の攻撃時期・攻撃方法をめぐる問題 467
3、第三軍は二〇三高地の価値を全く認識していなかったのか? 471
4、第二回総攻撃をめぐる満洲軍と第三軍との意見対立 473
5、第三回総攻撃をめぐる論点 478
6、総攻撃方式の放棄 498
7、第三軍司令部は攻撃失敗の教訓に学ばなかったのか? 500
8、まとめ 506

第二十二章 乃木の果断と伊地知の不決断 511

1、伊地知幸介の冤罪 512
2、軍司令官乃木希典と軍参謀長伊地知幸介との組み合わせの悪さ 515
3、乃木はなぜ第三軍司令官に就任したのか? 516
4、不健康であった伊地知 519
5、遅かった前進陣地攻略開始時期 519
6、またも遅きに失した大孤山・小孤山の攻撃時期 522
7、井口省吾と伊地知幸介の激論 523
8、勧降書と旅順開城時の聖旨誤解の問題 525
9、第一回総攻撃失敗と正攻法への転換 526
10、乃木の統率力 530
11、乃木の大局観 531
12、存在した乃木更迭論 533
13、乃木と伊地知に対する評価 537

第二十三章 鴨緑江軍編成問題と奉天会戦会戦計画の変遷 541

1、鴨緑江軍編成問題と第三軍戦闘序列改正問題 541
2、指揮統一の原則に反したことで生じた弊害をいかにして治癒するのか? 548
3、鴨緑江軍編成の意義 552
4、奉天会戦の会戦時期の決定 554
5、作戦計画の変遷 556

第二十四章 奉天会戦の作戦計画とその問題点 560

1、包囲を企図した満洲軍総司令部の作戦構想 561
2、満洲軍は「殲滅」を企図しなかったのか? 569
3、満洲軍はなぜ「殲滅」に失敗したのか? 570
4、なぜ兵力部署が不徹底に終わったのか? 575

第二十五章 奉天会戦における第三軍包翼戦の真実 578

1、作戦目標をめぐる論争 579
2、満洲軍総司令部、第三軍の猛進を控制する 581
3、乃木第三軍の独断前進の是非 590
4、満洲軍の攻撃督促命令と谷寿夫『機密日露戦史』の誤り 594
5、再度の督戦電報と第一線に赴こうとした乃木 597
6、なぜ満洲軍はロシア軍の殲滅に失敗したのか? 602

第二十六章 戦争をどのように終わらせるのか? 609

1、限定戦争 611
2、児玉源太郎の戦争終末戦略 611
3、満洲軍総司令部と参謀総長山県有朋との戦争終結戦略の相違 616
4、デッドロックに陥った山県有朋 624
5、山県の外交と戦争の大局を見る能力は衰えていたのか? 627
6、満洲軍総司令官大山巌、隷下軍司令官の講和反対論を抑え込む 628
7、樺太遠征 635
8、北韓方面作戦 640
9、日露戦争における戦争終末期作戦指導に対する評価 642

補章 第四軍司令官野津道貫・軍参謀長上原勇作の悪評 646

1、万宝山攻撃は第四軍司令官および軍司令部幕僚の「無能力」の証明である 646
2、ロシア軍追撃に際して表面化した第四軍司令部と第十師団との対立 649
3、「不能無学の老耄将官」と評された野津道貫 651
4、なぜ、第十師団は第四軍司令部から「讎敵」とみなされたのか? 654

第二部 部門史・人物評論編 ………657

第二十七章 大本営陸軍参謀部の諜報戦 658

1、大本営陸軍参謀部の職務分課 658
2、大本営陸軍参謀部諜報課による諜報活動 659
3、「露軍之近況」660
4、ロシア軍が将来満洲に展開する兵力量の判断 661
5、三〜四ヶ月後に東亜に展開する日露両軍の兵力量の比較 667
6、大本営陸軍参謀部による諜報活動の情報源 669
7、心理戦を展開した大本営 675
8、作戦部と情報部との未分離から生じた弊害 677
9、大本営陸軍参謀部諜報課と満洲軍・各軍との軋轢 678
10、戦後陸軍経営の調査 680
11、戦況に悪影響を及ぼした不正確な地図 681
12、特別任務 685

第二十八章 日露戦争における人事 693

1、解任された師団長・旅団長たち 693
2、解任された幕僚たち 704
3、谷寿夫『機密日露戦史』が言及していない更迭事例 710
4、論功行賞をめぐる秘話 711
5、黒木はなぜ元帥になれなかったか? 714

第二十九章 軍神マルスを養え 717

1、満洲軍倉庫長日匹信亮の活躍と現地調達主義 718
2、台湾米購入をめぐる児玉と大本営との対立 720
3、鉄道輸送力の限界を迎えた日本軍 721
4、鉄道以外の輸送方法 722

第三十章 日露戦争における二十八サンチ榴弾砲 725

1、二十八サンチ榴弾砲二人の父 726
2、二十八サンチ砲の旅順攻囲戦投入の発案者は誰か? 730
3、巨砲をどのようにして運んだのか? 732
4、旅順における二十八サンチ榴弾砲の効果について 735
5、二十八サンチ榴弾砲を奉天で使用すべきだと主張したのは誰か? 738
6、二十八サンチ榴弾砲とは? 740

第三十一章 知られざる人物秘話 742

1、「日本の活国宝」大山巌 742
2、参謀次長として「不適任」だった明石元二郎 746
3、青島要塞攻略の英雄・神尾光臣の醜聞 747

おわりに 750
  忘れ去られた広瀬兵学と児玉源太郎の戦後陸軍経営案〜明治四十一年体制の確立〜

1、忘れられた広瀬兵学 750
2、児玉源太郎の戦後陸軍経営案と明治四十一年体制の確立 753

主要参考文献一覧 764


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

はじめに 〜本書の目的〜

「ある者は歴史から戦争の存在を抹殺せんとして、事実まで歪曲せんとしている」。
ドゴール『剣の刃』(1)

 本書のテーマは、日露戦争の陸戦史研究である。日露戦争の政治史・外交史は優れた研究が多数出されており、軍事史に関しても大江志乃夫氏の優れた研究がある。しかしながら、本書がテーマとする戦史(本書では、戦争史・統帥史・作戦史・戦闘史を包含する概念として使用)に関しては、戦史が戦後の日本の歴史学会や大学等の研究機関において学問的な研究対象とされてこなかったため、自衛隊が独占的に研究・教育を行なっているのが現状である。つまり、戦史研究には「歴史家の怠慢」が存在するのだ。
  この筆者の指摘を裏付けるかのように、日露戦争の研究史をまとめた論稿においても「戦前の公式戦史の存在が大きいためか、軍事史的な研究はそれほど多くはない。近年でこそ社会史的研究が多いものの、軍事史的研究の厚い第二次世界大戦研究などと比べると対照的であり、これは日露戦争研究の一つの特徴といえるだろう。[中略]軍事作戦に関しては、前述の公式戦史や谷寿夫『機密日露戦史』がいまだに戦史記述の頂点を保っている」との指摘がなされている。(2)
  確かに戦後、桑田悦氏・瀬戸利春氏・古屋哲夫氏・別宮暖朗氏・山田朗氏などが、陸戦史研究を発表している。だが、彼らが典拠としている主たる史料は、公刊戦史や谷寿夫『機密日露戦史』(原書房、一九六六年、以下、谷戦史と呼称することもある)であり、新史料を使用して、公刊戦史や谷戦史の記述の誤りを修正したり、それらの記述を補足したりする研究はほとんど刊行されていない。後述するように、平成に入り史料状況が大幅に改善されたにもかかわらず、いまだに陸上軍事作戦史研究の頂点が、公刊戦史や谷寿夫『機密日露戦史』であり続けている現状は奇妙としかいいようがない。
  つまり、陸戦史研究に限っていうならば、戦後の日露戦争研究においては、戦史研究が欠落しているのだ。換言すると、良質な史料に基づいて個々の戦闘の実態を実証的に追究する努力が、戦後の日露戦争研究では放棄されてきたのだ。そしてその原因は次の点にある。すなわち、戦後の歴史学が、戦史研究を学問研究の対象とせず戦史研究に距離を置き続け、その実態を解明しようとしてこなかった点だ。しかし、戦争とは戦闘が連続して生起するものである。戦争という現象の核心は作戦・戦闘にあり、武力行使を主体とする戦争を研究する以上、それを政治・外交問題としてのみ捉えるのは妥当ではない。戦争の研究に戦史研究が欠落している現状は、不思議であるとしかいいようがないし、こうした現状を「歴史家の怠慢」と批判されても仕方ないであろう。今後、歴史学会がこうした姿勢を改め、戦史研究に真摯に取り組むことを切望したい。
  そこで本書は、日露戦史の中でも特に陸戦史を、新史料(筆者が発掘した史料・以前から誰でも利用可能であったが、従来の研究では利用されてこなかった史料)も含めた良質な史料を使用して実証的に研究分析することを目的としている。

1、隠蔽された事実
封印された第二軍作戦指導の失策
 
「戦史にも他の歴史と同様に裏に裏あり。裏の裏に又其裏ありて、之を悉く文字に表はすは不可能事に属するを以て、戦史を繙く者は眼光紙背に透ふるの活眼を有するを要する」。(3)
  日露戦争で満洲軍総司令部の作戦主任参謀を務めた松川敏胤は、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)に対し、大正十二年十月から毎週木曜日の午前十一時より約四十五分間にわたり「日露戦役に於ける作戦指導に関する進講」を行なったが(4)、これはその御進講の結言として述べられた言葉である。
  戦史には裏の裏があるとは適切な表現で、参謀本部編『明治三十七八年日露戦史』全十巻・附図全十巻(東京偕行社、一九一二年〜一九一五年。以下、公刊戦史と呼称することもある)には書かれなかった事実があるのは有名であろう。
  明治三十九年二月、参謀総長大山巌の名で、日露戦史編纂の方針を定めた「明治三十七八年日露戦史編纂綱領」が定められ、同綱領を具体化する関連規定等が作成された。綱領によると、日露戦史編纂の目的は用兵研究に資すると共に、戦争の事績を後世に伝えることとされた。
  関連規定等の一つである「日露戦史編纂に関する注意」には、「編纂者は、事実の真相を顕彰するを主として、之に批評を加ふるを避くべし」とあり、日露戦史の編纂に際し、批判を行なわない旨の大枠が規定された。さらに、「日露戦史史稿審査に関する注意」では、要約すると以下の事項が定められた。(5)

 一、各部隊間の意志の衝突に類することは、我軍の内情を暴露する恐れがあるため削除すること。
  一、軍隊または個人の怯懦、失策に類するものは、明記しないこと。しかし、そのために戦闘に不利の結果を生じたものは、情況やむを得なかったように潤色するか、または相当の理由を附し、真相を暴露しないこと。
  一、日本軍の前進または追撃の神速かつ充分でなかった理由は、努めてこれを省略し、必要やむを得ないものに限り記述し、漠然とした記述にすること。
  一、弾薬追送に関すること、ならびにこれが戦闘に影響した事実は記述しないこと。
  一、給養の欠乏に関することは、なるべく概略すること。
  一、高等司令部幕僚の執務に関する真相は記述しないこと。
  一、海軍に関することは、予め海軍の意見を質し、承諾を得て公刊すること。

 すなわち、日本軍の失敗や、暴露した場合に日本軍に不利になる事項は公刊戦史に書かれなかったのである。
  公刊戦史が隠蔽した事実を解明したのが、谷戦史であり、谷戦史刊行以後、日露戦史研究は同書の記述に大きく依拠することとなった。
  しかし、谷戦史は、長岡外史、井口省吾および松川敏胤などといった人物の日誌や書簡類を主たる史料として記述がなされているため(6)、記述に偏りが見られたり、転写ミスが存在したりすることも確かである。
  平成に入り、井口省吾、井上幾太郎、大谷喜久蔵、大庭二郎、児玉源太郎、鈴木荘六、長岡外史、福島安正、松川敏胤などの人物の一次史料が続々と発見・刊行され、谷戦史の記述にも問題があることが指摘され始めており、筆者も、松川敏胤や井上幾太郎といった人物の新史料を発掘し、学術論文で谷戦史の記述の問題点を指摘した一人である。しかし、いまだに、これら一次史料を網羅的に使用した日露陸戦史研究は現われていない。
  また、従来の日露陸戦史研究では、日露戦争三十周年を記念して新聞社が企画した座談会の速記録を本にした、『参戦二十将星 回顧三十年 日露大戦を語る』(東京日日新聞ほか、一九三五年)、『名将回顧日露大戦秘史』(朝日新聞社、一九三五年)が無批判に多用され、南山の戦いの苦境においても動揺せずに突撃を命じた奥保鞏の話などが伝説化しているが、本書では同書で形成された伝説が誤りであることも立証していきたい。
  日露戦争に関し根拠があやふやな伝説がはびこっているのは、戦後の歴史学会が戦史研究を学問と見なしてこなかったため戦史研究に関し「歴史家の怠慢」が存在しているからであるといえよう。本書は、戦史を実証的に研究することを目的とした書である。本書では、谷戦史なども使用しつつ、当時の参謀や軍司令官の日記・書簡・回想録を網羅的に使用し、通説を再検討すると共に、これまであまり言及されてこなかった点から日露戦争の陸戦史を分析してみたい。その際、本書では、以下の諸点を重点的に検討している。

(1)新史料を使用した第三軍作戦指導の研究
  谷戦史が「旅順要塞攻城作戦指導の経緯」の章を設け第三軍の作戦を詳細に分析した結果、谷戦史を史料として第三軍の作戦指導に対する批判がなされた。本書では、筆者が翻刻した大庭二郎日記や井上幾太郎日記といった第三軍参謀の史料を用い第三軍の作戦指導を再検討する。

(2)新史料を使用した第二軍作戦指導の研究
  事の真偽はさておくとして、第三軍関係者が生存していたから公刊戦史は第三軍を批判できなかったのだと巷間では語られることがある。しかし、これまで全く指摘されてこなかったが、第三軍よりも第二軍司令部関係者が公刊戦史刊行後に要職にあり続けたため、第二軍の失敗が隠蔽される傾向にあった。
  後に参謀次長に出世する沢田茂は、大正四年八月参謀本部に勤務することとなり内国戦史課に配属された。沢田は、秘密書類などを利用して秘密日露戦史と称すべき戦史を編纂したが、当時の部長が「これは外へ出すな。部長の金庫に鍵かけてしまい込んでおく」という決定をしたため同書は外に出ることはなかった(7)。沢田によれば、部長が「こんなのを世に出したら、どんな波乱が起きるか判らん」といって沢田の手による戦史を金庫に封印してしまったのには、次のような理由が存在した。
「第2軍の作戦主任の鈴木荘六が陸大の幹事をしていました。それから金谷範三が前の作戦課長をしていました。そういうような具合いにみんな偉い人が、ほうぼうにおるもんだからうっかり、そのことを書くと、『お前、それは間違っとるぞ』といわれる」。
  つまり、鈴木荘六も金谷範三も日露戦争では第二軍の参謀であったが、日露戦争の実相に迫った戦史を書くと、大正期に要職に就いていた彼らから横槍が入るというのである。
  筆者は、第二軍作戦主任参謀鈴木荘六の自叙伝の所在を確認することができた。この自叙伝は従来の日露戦史研究では全く使用されてこなかったが、多くの秘話が書かれている。そこで本書では、鈴木の自叙伝などを使用して第二軍の作戦指導に関しやや詳しく分析し、封印された第二軍司令部の失策を明らかにしたい。

(3)「対立」の重視
  日露戦史の編纂に際し、「高等司令部幕僚の執務に関する真相」が伏せられたり、海軍に関する事項は海軍側の承諾を必要としたことは既述した通りである。逆をいうと、そのようなことが伏せられたということは、高等司令部間で意見の対立があったり、司令部内部で幕僚間の意見対立があったり、陸軍省や参謀本部といった官衙同士の意見衝突や、海軍と陸軍との対立が存在したということでもある。本書では、そういった「対立」を軸として戦史をみていくこととする。

(4)陸海軍統合作戦
  従来の陸戦史研究は、大陸での作戦であり陸軍が大陸に上陸しなければならないにもかかわらず、上陸作戦という視点が抜け落ちていた。そこで、上陸作戦を陸海軍統合作戦ととらえ、この問題および上陸作戦で生じた陸海軍の摩擦を厚く論じることとする。

(5)「なぜ」そうなったのか?
作戦形成過程の研究
  従来の日露戦史は、部隊の動きを追うものであったり、史料に基づかない恣意的な作戦批判が中心であったりすることが多かった。だが、本書では、参謀の日誌や書簡などの史料を使用して、会戦計画や部隊行動が幕僚によるどのような討議を経て形成されたのか、また、作戦上の問題点がどういった理由で生じたのかという点を重視して記述を進める。その意味で、本書は、部隊の動きを中心として書かれた従来の戦史とは異なり、作戦の形成過程と作戦に内在する問題点を研究したものといえるであろう。
  政治史研究において政策形成過程の分析が研究分野として確立しているように、戦史研究においても作戦形成過程の研究がもっと進展してもよいように思われる。本書は本格的な作戦形成過程研究の嚆矢たる地位を目指して書かれた本である。

(6)指揮官や参謀の性格が作戦に与える影響
  従来の戦史研究では、指揮官や参謀の性格を分析し、それが作戦に与える影響についてはあまり分析されてこなかった。しかし、戦争は感情や性格をもった人間がやるものであり、そこに人間の性格が表出しないわけがない。そこで、本書では第二軍の作戦指導を中心に指揮官や参謀の性格が作戦指導に及ぼした影響について詳しく述べた。

(7)各戦史の記述の統合
  従来の陸戦史研究には、谷戦史、参謀本部編『明治三十七・八年秘密日露戦史』(巌南堂書店、一九七七年)および沼田多稼蔵『日露陸戦新史』(芙蓉書房、一九八〇年)の記述を本格的に統合した研究が存在しない。そこで、本書では陸戦の各局面における各戦史の記述を統合的にまとめてみたい。

(8)通説の再検討
  日露戦争に関する外交史や政治史的研究と異なり、日露陸戦史はこれまで史学を専攻した研究者による研究の蓄積が少なく、そのため過去の俗説が十分な検証もされないまま再生産され、誤ったことが定説として流布していることが多い。筆者は長年、史料収集や史料整理の業務に従事していたため、日露陸戦史に関する既出・未出双方の史料に多く接することができた。本書では、そうした史料を駆使し、通説として流布している説に再検討を加えていく。

(9)命令の重視
  作戦の適否を検討するには、作戦行動の基礎となる命令を精確に理解する必要がある。だが、戦後の日露戦史研究では、指揮官により出された命令の分析が軽視される傾向があった。しかし、命令は、指揮官や幕僚が情勢を深刻に判断し、全知を絞り一言一句に至るまで注意深く考えて作文されたもので、そこには指揮官や幕僚の意図が集約されているといっても過言ではなく、戦史研究を行なううえで基本となる史料である。そこで本書では、通説を検討するに際し、命令を重視し、命令の文言を精確に解釈することに努めた。

 さて、前口上はこれくらいにして、書かれざる戦史の裏をのぞいていくことにしよう。

1 シャルル・ドゴール『剣の刃』(葦書房、一九八四年)四頁。
2 日露戦争研究会編『日露戦争研究の新視点』(二〇〇五年、成文社)四一八頁。
3 松川敏胤「詩仏耶日誌 巻三十一」大正十二年十一月二十八日(「松川家資料」仙台市博物館所蔵)。
4 松川敏胤「詩仏耶日誌 巻三十一」大正十二年九月二十九日。
5 参謀本部「明治三十七八年日露戦史編纂綱領」、「日露戦史史稿審査に関する注意」など(福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵)。
6 たとえば、谷寿夫『機密日露戦史』(原書房、一九六六年、以下、谷戦史と略す)三五〜三七頁記載の五月九日および五月二十九日の記述は、井口省吾文書研究会編『日露戦争と井口省吾』(原書房、一九九四年)所収「年中重要記事」の二二七頁および二三〇頁の記述とほぼ同文である。また、谷戦史四八二頁所収の松川敏胤書簡および同書四九二〜四九三頁所収の伊崎良熈書簡などは、長岡外史関係文書研究会編『長岡外史関係文書 書簡・書類篇』(吉川弘文館、一九八九年)に存在する。
  松川敏胤「仙南日誌 巻三十三」(「松川家資料」仙台市博物館所蔵)大正十四年二月二十三日条には「午前九時過、陸軍大学校の兵学教官谷寿夫中佐、約に従へ東京より来訪し、終日、日露戦争当時の帥兵事情を論談せり。蓋し中佐は本年度より開始せられたる専攻科学生の授業を担当する為め余に就て戦争統帥の資料を得んと欲するなり。余は進講手控を基礎として腹蔵無く談論せり」とある。「進講手控」とは、松川は晩年の大正十二年から大正十三年にかけて摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)に対し「日露戦役に於ける作戦指導に関する進講」と題する御進講を行なっており、その講義録手控えを指す。進講手控えは当時参謀本部に保存してあった「機密作戦日誌」および戦災で失われた日露戦争当時の松川の日誌(松川の孫にあたる関谷安喜子氏によれば三冊存在したという)を基礎史料に作られた。
7 「将軍は語る 故澤田茂中将のお話」『偕行』昭和五六年三月号(偕行会、一九八一年)七〜八頁。以下、沢田の回想は同書よりの引用。

長南政義(ちょうなん・まさよし)
戦史研究家。宮城県生まれ。國學院大學法学研究科博士課程前期(法学修士)及び拓殖大学大学院国際協力学研究科安全保障学専攻(安全保障学修士)修了。國學院大學法学研究科博士課程後期単位取得退学。論文に「史料紹介 松川敏胤の手帳・年譜―満洲軍参謀松川敏胤が語った日露戦争「日露戦争ノ勝敗ヲ逆睹シタルヤ」―」『國學院法研論叢』第36号(國學院大學大学院法学研究会、2008年)、「史料紹介 陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌―日露戦争前夜の参謀本部と大正期の日本陸軍―」『國學院法政論叢』第30輯(國學院大學大学院、2009年)、「陸軍大将松川敏胤伝 第一部 ―補論 黒溝台会戦と松川敏胤〜満洲軍総司令部の不覚〜」『國學院法研論叢』第38号(2011年)など多数。著書に『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年、共著)、伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典』3巻・4巻(吉川弘文館、2007年、2011年、共著)、『復刻版 日清戦況写真』(国書刊行会、2013年、解説)、『日露戦争第三軍関係史料集 大庭二郎日記・井上幾太郎日記で見る旅順・奉天戦』(国書刊行会、2014年、編集)がある。