あとがき(一部)
二〇一一年三月一二日(土)、午前一一時半過ぎの会議で、自衛隊の派遣規模を五万人とすることを菅直人首相が指示した。それまでの二万人からの増勢である。つづいて午後九時四〇分、全自衛官の半数近い一〇万人態勢を命じた。わずか一日のうちで、これほどクルクルと判断が変わった。しかも、これらの数字にはまともな根拠はなかったらしい。わが国周辺の防衛環境を分析し、防衛上の支障はないかを分析した上での判断ではなかった。ただ、あたふたとうろたえ騒ぎ、兵力の逐次投入に走っただけである。これまでの想像をはるかにこえた地震と津波の災害、さらには原子力発電所の被害による混乱だったのだ。それは、おそらく政府、各省庁、自治体にも、そうした最悪の事態に対処する備えも、心構えもなかったからだろう。
ただ一つ、わが国の組織の中で、自衛隊だけは違った。すでに二〇〇八年、陸上自衛隊東北方面隊は「みちのくアラート2008」という名称で、東北大震災を想定した演習を行なっていた。また、後方補給を担任する関東補給処でも、大規模震災に備えての物資集積や送り出しについての訓練を二〇一一年二月に実行していたという。それがどれほど、今回の派遣について有効だったかは測り知れない。
陸海空自衛隊はただちに出動した。発災翌日の一二日夕方には、総数で約三万名、航空機八〇機、艦艇五七隻が動いていた。中でも地元を担任する東北方面隊は約一万七〇〇〇名、それへの増援は約七〇〇〇名、海上自衛隊は約七七〇〇名、航空自衛隊も約一三〇〇名が現場で活動をしていたのだ。そして、これとは別に、原子力派遣部隊として約八〇名が福島第一原子力発電所に急行している。
五月一日の時点では、即応予備自衛官も含めて、総数で一〇万六二五〇名、陸自は約七万名、航空機七五機、海自は一万四二〇〇名、艦艇五三隻、航空機二〇〇機、空自も二万一六〇〇名、航空機二二〇機が活動していた。原子力派遣部隊も四五〇名と災害派遣史上、空前の行動がとられていたことが明らかになっている。
その成果は九月一日の集計によれば、人命救助は一万九二八六名、遺体収容九五〇五体、同搬送一〇〇四体にのぼる。また運んだ物資は、一三万九〇六二トン、医療チームなどが運んだ患者・負傷者は二万二四〇名、緊急患者輸送は一七五名だった。
被災者への生活支援分野では、給水支援約三万三〇〇〇トン、給食支援約五〇〇万食、寒い季節でもあり燃料支援も約一四〇〇キロリットル、入浴支援約一一〇万名、治療や診療などの衛生等支援も約二万三〇〇〇名にもなった。
延べ派遣人員は約一〇六〇万人にものぼる。これは自衛隊誕生以来最大といわれてきた阪神淡路大震災に比べて約六倍、航空機も約六倍、艦艇が約七倍にあたる。活動実績も阪神淡路大震災の人命救助の約一一七倍、遺体収容も約八倍にもなった。
また、一〇〇日以上にわたって被災者の生活を物心両面で自衛隊は支えてきた。とくに注目すべきは、阪神淡路大震災の九倍にもあたる約五〇〇万食を提供した給食支援だろう。流通機能が寸断されて、被災地で食材を手にすることすら困難な中で、この任務にあたった隊員、関係者の苦労は想像するだけで余りある。
まさに自衛隊は、私たち国民の持った貴重な財産だった。しかし、この実績は、その能力の一部でしかない。もう戦争は起きないと言われ、限られた予算でやりくりを工夫しろと言われ、削減、合理化のかけ声で縮小化され続けてきた自衛隊。まさに、その実力の一端を示したといえる。
感謝や応援の言葉は、被災者だけでなく、全国の人々から届けられた。「すべては被災者のために」、「こんな時こそ自分たちがやるしかない」という気持ちで歯を食いしばって頑張った彼ら、彼女たちも満足していることは確かである。
しかし、国民の自衛隊への理解は、本当に進んだのだろうか? 「すごいね自衛隊は」、「やっぱりこんなときには自衛隊だね」という言葉がある一方、災害派遣だけが自衛隊の仕事であるかのような声が聞こえるのも事実である。そのかたわらには、国際協力の美名の下にろくに議論もなく、安易に海外派遣される自衛官への無関心がある。武装組織としての真価には気がつかないという社会の構造がある。
原子力発電所の危機にあたって、「決死の覚悟」で冷却水投下を実行した隊員たちに千葉県木更津で出会ったのは二〇一一年七月のことである。そこで彼らの口から出たことは、テレビで映像こそ流されたものの、報道では知らされなかった事柄ばかりだった。それらを当事者たちの口から聞くことができた。中でも感銘を受けたのは、心の内を無遠慮に尋ねる私の質問に答えてくれた内容だった。
命令を下した指揮官、被曝の危険を承知しながら現場でじかに指揮をとったヘリコプター隊長、機体をあやつったパイロット、副操縦士、投下のスイッチを押した若い搭乗整備員、それに同乗した先任整備員、彼らが口にしたのは、むしろ淡々とした「任務意識」の発露だった。まさに「事に臨んでは危険を顧みず」といった宣誓通りの行動をとっただけという。
「正直、身がひきしまる思いでした。被曝の危険は承知していました。でも、自分たちがやるしかない。やる以上は、きちんと任務を果たしてこよう」。そういう気持ちで飛行したと語る指揮官。若い陸曹は、「正直、うれしかったです。こうした難しい任務を与えられる。それに自分が選ばれた。誇らしく、とても高揚した気分でした」と語った。同乗したベテランの先任陸曹は、投下のスイッチを押す際に「一人だけに責任を負わせるわけにはいかないと思った」と話してくれた。
なんという愚直さだと笑う人もいるだろう。家族がいるだろう、生命が惜しくはないのかと心配する人もいるかも知れない。でも、彼らは私たち日本国民の自衛官であり、国民生活の「最後の砦」なのだ。
今回の災害で、もう一つ忘れてはならないのが、アメリカ軍からの支援だった。彼らは「オペレーション・トモダチ(友だち作戦)」を発動してすぐに駈けつけ、非武装で丸腰のまま被災地に入った。世界の軍隊の常識としては、とても考えられないことである。それほどにわが国民、そして自衛隊を信用しているということだ。
「一衣帯水」の外国はいくつもあるが、各国は言葉による見舞いや、救援物資などを届ける一方で、わが国の領海・領空をうかがう行動もとっていた。五月だけでロシアは艦艇五隻を領海に接近させ、航空機一機を領空近くに飛ばした。六月になると中国海軍もこれに加わり、七月には中国空軍の情報収集機がやってくるようになった。そして八月には中国潜水艦が沖縄の沖合に接近する。これらはいずれも、災害派遣に力を注いでいた自衛隊の対応能力を試すためのものとみられている。
全兵力のおよそ半分が特定の地域に集中したとはどういうことか。出先の勢力だけではなく、基地・駐屯地に残った隊員はどういう状態にあったか。少ない人数で業務をやりくりし、出動した部隊の後方支援を行なっていた。それに加えて、すぐ次に起きるかもしれない災害、そして有事に備えるために、どれほどの無理をしていただろうか。
自衛官は、およそ「言挙げしない」人々である。現地で活動する隊員はマスコミをはじめ、多くの関心を集めた。彼ら、彼女らをスーパーマンのようにいう報道もあった。そのかげで働いていた、被災地へ出かけなかった隊員の姿はほとんど知られることもなかった。そのことを考えようとする人は、自衛隊員以外にはほとんどいなかったといっていい。
(中略)
自衛隊、とりわけ陸上自衛隊との関係を深めてきた私は、この一〇年以上の間、陸上自衛官と接してきた。そこで感じてきたことは、いわば「奇妙な居心地の良さ」だった。駐屯地は清潔で、隊員の行動は折り目正しく、はるか遠くからも敬礼を送ってくる。いつもにこやかで、外来者に気をつかう。客を見送るときには、その姿が視界から消えるまで姿勢を崩すことをしない。話し合ってみれば、慎ましく、遠慮深く、素朴で、ウソがつけない。江戸期の初めにノバ・イスパニア(メキシコ)から将軍に会いに来たスペイン人総督ドン・ロドリゴが書いた日本人とほとんど変わらない姿がそこにある。
「奇妙」というのはそこのところである。駐屯地の中には、古い価値観、義理・人情を大切にし、自分の運命に不満を言わない人たちがあふれている。それぞれが自分の役割を認め、言われたことをまずやってみる「受容的勤勉性」を持ち、自ら進んで自分の組織の中での役割を判断し、その責務を実行する人々ばかりなのだ。
ある西洋史学者は、私たちの暮らしを、欧米化社会システムと歴史的・伝統的システムの二つのシステムの中にあると言った。じっさい、私たちは欧米風の価値観、個人の自由を大切にしている。組織の運営の仕方もそうであり、そこで働く人材を育てる学校教育までその中にある。その原則はあるけれど、私たちの生活そのものは、古くからの伝統やしきたりを守りながら、二つのシステムがもたらす相克に悩み、葛藤する毎日でもある。
今回、自衛隊、とりわけ陸上自衛隊の活動には、古くからの歴史的・伝統的システムが作用しているのではないか、そうした観点から調べてみようと考えた。現地で活動した自衛官からは主にアンケートに答えてもらった。もともと、百人くらいの人数でお願いしようと考えていた。公的には陸上幕僚監部広報室を通してアンケート用紙を配布してもらったが、私的なつき合いのある各級指揮官にもお願いしたら、なんと四百枚もの貴重な答えが返ってきた。同時に、社団法人全国自衛隊父兄会の活動の中で、百人をこえる隊員からじかに話を聞くことができる機会もあった。
さらに依頼に応じて届けてくれた各部隊からの写真はおよそ五〇〇〇枚にのぼった。行方不明者の捜索、遺体の搬送、避難所への輸送、給食支援、入浴支援、物資搬送などに苦闘する写真である。
部隊名からは、全国から自衛官が東北へ出かけたことが分かる。北は網走に近い美幌、遠軽、旭川、南は沖縄県那覇の第一五旅団の隊員たちが駐屯地を離れて活動に入った。山陰の米子、出雲、信州の松本、石川県の金沢、四国の高知、松山、九州の長崎県大村、大分県別府の部隊も長距離をおかして「みちのく」へと向かった。
長い間、放置されていた遺体が運ばれてきた。さすがに手を出しかねている若い隊員に「これこそが俺たちだけができる仕事だろう」と叱咤した陸曹がいた。「なんのために故郷から遠く離れたこの地に来たか。今だろう、まさに今しかないじゃないか」とミーティングで静かに語りかけたベテランもいた。
「最初のご遺体は自分が抱き上げる」、そう決意していた若い小隊長。それが指揮官のつとめだと防衛大学校の学生時代に教えられていたからである。泥だらけの水面に遺体が浮かんだ。誰もがためらっていたそのとき、「躊躇するな、行動せよ」と叫んで先頭を切って水中に飛び込んだ大隊長。部下たちは眼がさめたように、われ先に後に続いた。睡眠時間も少なく、休息もとれない。でも、みんな被災者のことだけを思って働き続けた。そんなときにも、「無理をするなよ」と自分は腰もおろさずに声をかけて回った中隊長がいた。
戦車隊員がゴムの胴長をはいて水につかった。地対艦ミサイルのレーダー手も鳶口を手にして瓦礫の中に入っていた。いつもは砲隊鏡を覗き、コンピューターを操る特科隊員が熱いメシを握った。おそらく、ふだんの技術を活かせた活動をしたのは、施設科部隊の隊員の一部だけだったかもしれない。
被災者とじかに接する現場にいた部隊はまだ士気を維持しやすかったという声もある。感謝の言葉を受け、やりがいを実感させてくれる人々の様子を目の当たりにすることができたからだという。その活動を支えたのも同じ自衛官であり、制服を着ない隊員たち(技官、事務官)である。ふだんは、その存在も一般には知られていないだろう東北方面後方支援隊(仙台駐屯地)は、被災地への燃料配布などに走り回った。同じく東北補給処(同)の隊員たちも物資の調達や配布ばかりか、故障車輛の整備、部品の交換などに各地に派遣されていた。
そうした自衛官のそれぞれの声をまとめたのが本書である。(後略)
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