ワシントンポスト紙…イスラエルの軍事、政治思考と行動の核心にせまる名著。ヨムキプール戦争におけるイスラエルの経験を、これほど詳細かつ正確に記録した書は他にない。
ニューヨークタイムズ紙…中東の心理構造と外交関係を一変させたヨムキプール戦争の全容を明らかにし、迫真の戦史に仕上げた作品。
ニューヨークポスト紙…著者のラビノビッチは、戦争の強烈な匂いと色彩、そしてリズムを見事に再現した。
ハアレツ紙…ヨムキプール戦争に関する最高の戦史。記述は明快で正確。アラブ、イスラエル双方の作戦、そしてそれに伴なう政治外交の動きを的確にとらえている。その筆致は詩趣すら感じられる。
ヒストリーブッククラブ…ラビノビッチは、めまぐるしい状況の変化を戦術・戦略の両面から詳細にとらえた。政治上外交上のかけひきを観察する目も鋭い。
米陸軍大学季刊誌「パラメーターズ」…30年に及ぶ研究と5年間の集中取材によって完成した本書は、ヘルツォークの著作や英タイムズ紙インサイトチームによる労作よりも、さらに完成度が高くなり、ヨムキプール戦争に関するスタンダードな戦史といえる。徹底した調査もさることながら、記述が素晴しい。さながら小説を読むようである。二正面で同時に作戦が進行し、あわせてカイロ、テルアヴィヴ、ワシントン、モスクワで政治外交上の動きが展開する。これらを要領よくまとめるのは至難の技であるが、著者は見事にまとめあげた。文句なく最高の総合戦史である。
まえがき
一九七三年のヨムキプール(贖罪の日)午後、イスラエルは軍の主力がまだ動員されていない状況で、二正面において同時に奇襲攻撃を受けた。三週間足らずの戦闘で、その軍は軍事史上まれに見る大逆転を演じ、停戦時ダマスカス、カイロの両首都をめざす道路上にあった。しかしイスラエルは、鎧袖一触の勝利を得たのではなく、懲らしめを受けて立ち直った感が強い。
ヨムキプール戦争については資料がたくさん出版されたが、将兵の体験をベースとしたヨムキプール戦記はない。さらに時間の経過により、貴重な回顧録や分析が発表され、検閲対象になっていた記録も公表された。とくに調査委員会の報告書が解禁になったので、事実関係がより正確につかめるようになった。
私はこのような資料による戦闘の経過と、一三〇名のインタビューによる将兵の経験的側面の両方から、この戦争を見ることができた。
私は、エルサレムポストの報道記者としてこの戦争をカバーした。開戦五日目、私はニューズデイのジョー・トリーン記者とともに、ゴラン高原の北域に向かった。戦場は異様な静寂につつまれていた。我々が出会う疲れ果てた兵隊たちは、何がどうなっているか分からず、ほとんど何も教えてくれなかった。
我々は知らなかったが、第二次世界大戦以来の大戦車戦が終わったばかりだったのだ。一〇〇〇両以上の戦車を投入して攻撃したシリア軍を、数において格段に劣るイスラエルの部隊が、くいとめたのである。
決死の戦闘の後シリア軍は撃退され、つい数時間前に戦闘が終わったばかりであった。翌日朝、反攻戦が始まり、部隊はダマスカスに向けて動きだすのであるが、計画ではこの日決行になっていた。しかし、どの戦車大隊も戦車を停車すると全員がたちまち睡魔に襲われて眠りこけるのである。我々が体験した静寂は、疲労困憊した双方の軍が二回戦に備えて休息していたのである。
私はこの事実を戦闘詳報を読んで初めて知った。私は戦時中、報道班員だったし、勉強もしたので、この戦争のことならよく知っているつもりであった。しかし調べていくと、ぼんやりした基盤の中に個々の事象を脈絡もなく、ばらばらにつかんでいることが分かってきた。司令部レベルの意思決定過程と戦場の戦闘経過の双方を照合し、つなぎ合わせてみないと、状況はつかめない。私は五年をかけてきちんとした流れとして戦争を理解しようとした。
本書の執筆にあたっては、さまざまな専門家や関係機関にお世話になった。
出版の労をとってくれたイスラエル現代史のハワード・ザハル教授、各部隊史を集めたラトルンのイスラエル機甲センター、ラマトガンのイスラエル国防軍資料館、テルアヴィヴの参謀本部図書館には資料蒐集上お世話になった。米陸軍からヨムキプール戦争の調査で現地に派遣されたドン・A・スタリー少将(退役)からは、ワシントンで洞察に富む分析を伺った。
インタビューした人々にも感謝したい。三〇年経った後でも全員が昨日のように鮮明な記憶を持っている。とくにアムノン・レシェフ(退役)には大変お世話になった。シナイでもっとも激しい戦闘にかかわった旅団の指揮官で、五回に及ぶ長時間インタビューに応じていただき、旅団の戦時日誌も見せていただいた。拠点プルカンでは開戦から五日間の録音があり、アビ・ヤッフェのご好意でそれを聴く機会を得た。また原稿は国防軍の前戦史室長ベニー・ミハルソン大佐にチェックしていただいた。
命令や指示の引用は、公式文書や無線交信の筆写記録をベースにしている。
ヨムキプール戦争は、アラブ側では十月戦争とかラマダン戦争と呼ばれているが、この戦争ではどちら側にいたかどうかに問題なく、生き抜いた者全員にとって一生忘れがたい特別の時間となった。この地域にとっても然りである。そして残響は我々の中にまだ谺している。
二〇〇三年九月 於エルサレム
アブラハム・ラビノビッチ |