はじめに(兵頭
二十八)
支那事変前夜の日本陸軍は、歩兵部隊であれば、上級下士官たる「曹長」までに、部隊指揮官の標章としての軍刀を帯びることを公許していた。曹長は将校ではないのだが、小隊長(少尉)の下で分隊の指揮をとることがあるから、官給刀くらいなら良かろう、とされたようである。
ところが昭和12年以降、事変が拡大すると、大陸各地で、一部の日本軍の、分隊長ではない歩兵軍曹や歩兵伍長までもが、陣太刀式の私弁の軍刀を吊り下げて歩きたがった。それがしかも、軍により半ば黙認された。
さすがに2キロ近い重さの刀などを正規の装具に加えて余計に持ち歩こうという元気のある下士官は、聯隊本部勤務者などの、行軍や戦闘では楽をしている者が多かったようだ。
旧陸軍の下士官(海軍上海特別陸戦隊にいたっては、なんと兵卒まで)がこんなことをしたがったそもそもの理由だが、それは、現地シナ人との関係にあった。
シナ人は外見で人を判断する。相手が日本軍の隊長級だと見れば露骨にヘイコラするが、隊長ではない下っ端の兵隊だと見ると明白に態度を変え、軽んじた。
兵隊は人に対して威張ることにはそれほど馴染んでいない。けれども、下士官は違う。下士官としては、一見、隊長のようにも見える軍刀を吊るすことで、シナ人から馬鹿にされないようにすることが、とても重要であったのだ。
しかしシナ戦線での近代戦の遂行に、日本刀くらい邪魔であったものもなかっただろう。
なまじ日本刀などがあったおかげで、日本軍の歩兵部隊の運搬できる弾薬量、一斉に発揮できる火力は、列強に比べてますます低い水準にとどまらざるを得なかった。そして、それだけが理由ではなかったにしろ、日本軍はシナ軍を圧倒できなかった。結果として、日本陸軍は「侮日」を払拭できなかった。
軍全体が勝てないのでは、軍刀を吊るして隊長気取りの下士官の姿も、シナ人の目には、さして畏敬の対象として映じなかったであろう。大きな刀などを持てば、シナ人から一目置かれるだろうなどと考えた日本兵の多かったことは、町人の武士化、すなわち近代的「市民」の育成に、1930年代の日本政府は、ほとんど成功していなかったことを物語るだろう。本物の武士は、刀など持たなくとも、外国人から馬鹿にされることはなかった。立ち姿、座り姿を見ただけで、人品の違いは分かったのだ。
籏谷嘉辰師は、この本物の武士のリバイバルこそが現在の日本にはどうしても必要だと信じて、武士と不離一体であった真剣のご研究と、その用法の鍛錬を、日夜つづけておられる方々のおひとりである。師の道場は束脩を受け取らない。武道を商売にされている方ではない。かねがね戦前の「陸軍戸山学校」に興味があり、かつ戦後の「戸山流」真剣居合に関心を寄せていた兵頭は、偶然の機会から、籏谷師が現在の戸山流の指導者のおひとりであることを知った。そこであつかましくも、一日、東京都町田市に籏谷師を訪ねてインタビューを試み、あわせて写真撮影もお願いし、かくして成ったのがこの本である。
旧陸軍は、真剣についての研究などロクにせぬまま、日本刀さえ持たせれば軟派な庶民も武士になると軽信して、多くの将兵に役にも立たぬ軍刀を持たせ、かえってシナ人に馬鹿にされて、戦争にも負けるという結末を招いた。
この轍を21世紀の今日、ふたたび踏まないと断言できる者は居るか? 武士のことを何も知らないくせに「武士道は貴重だ」などと、どうして簡単に語れてしまえるのだろうか?
日本人が未来の戦争に勝とうと思ったら、市民的教養として真剣の世界に通じていなければならない。それを体験せずして、祖先の戦闘精神を理解することはできない。幕末以前の武士が分からずして、近代に武士道の復活がどうしてありえようか?
読者は本書によって、平安時代から21世紀まで変わっていない「日本刀の条件」について、把握するであろう。本書は必ずや、読者が「武士道」と「近代日本軍」について並列的に考究する手掛かりを与えるものと確信する。
なお管見では、帝国陸軍の白兵戦思想に大きな影響を与えつづけた戸山学校の剣術科の歴史については、まだ誰も決定版リポートは書いていない。
学生時代、国会図書館で、戸山学校の銃剣術の概史の論文を、何かの定期刊行物で読んだ記憶がある。しかし今回、インターネット経由でOPAC(書誌検索システム)を検索しても、どうしてもそれがヒットしない。それを抜書きしたメモ帳は自宅のどこかにあるはずであるが、とうとう、複数の収納箱から「掘り当てる」ことができなかった。無念である。このような事情で、文中にはすべての出典を記すことができなかったことを付記し、一括して謝意を表したい。
また、昔メモをとった文献で、今回、国会図書館などに出かけて再確認のできなかったものも沢山ある(たとえば鵜沢尚信著『陸軍戸山学校略史』1969年刊)。
諸賢、一読して異存あらば、幸いに教誨を吝しむなかれ。
このような企画を実現してくれた並木書房、そして、いろいろと無理難題をお聞き届けくださった籏谷嘉辰先生には、深く御礼を申し上げます。
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