まえがき
一九世紀のヨーロッパ各国は領土紛争などを戦争によって解決することは当然だと考えていました。つまり、戦争とはビジネスに近いもので、なるべく低いコスト(少ない戦死者、少ない費用、短い時間)で「勝利」し、敵に敗北感を与え、紛争について譲歩させることでした。相手国政府が責任をもって、シュレウィッヒ=ホルスタインやアルザス=ロレーヌなどの狭い係争地を譲る決心がつけばそれで十分でした。
それがためには、一回の決戦で勝利することが肝要とされました。
当時の戦争で、勝敗を左右する要因は師団の数でした。予定戦場により多くの師団を配置できれば会戦に勝利できると信じられていました。すると、普通の人々は、平時における軍隊を巨大なものにすればよいと考えます。
ところが、プロイセンのシャルンホルストとグナイゼナウは、別の結論=短期現役制に達しました。
プロイセンの国力では多数の常備兵力をもつことは不可能であり、戦争直前に民間人を集め、制服を着せ、多数の師団をつくりあげればよい、と考えたのです。これがため、二年程度、男子国民全員(病人や大学生を除く)を兵営に入れ、訓練を施しました。二年除隊後は予備役となり、一旦緩急の事態があれば、動員令によって召集されます。
予備役年限一四年とすれば、平時一五万人の軍隊を、総動員によって一〇〇万人近くに増強することができます。
短期現役制を基礎とした徴兵制にもとづく軍隊が、マス・アーミーやグランダルメーと呼ばれるもので、第一次大戦までのヨーロッパ各国の軍隊の素顔でした。
ただし、イギリスは徴兵制がなく、日本やアメリカは選抜徴兵制(男子の一部しか入営の必要がない)ですので、このマス・アーミーは戦時急造でしかありません。
一九一四年に勃発した第一次大戦は、このマス・アーミー同士が衝突したもので、塹壕戦となり、また四年三カ月にも及ぶ長期戦となりました。これは陰惨な戦いで、ヨーロッパ国民の八六〇万人が戦死しました。
これでは、戦争がビジネスというわけには行きません。領土だろうが「金」だろうが、このような大量の死者への言い訳にはなりません。ベルサイユ条約の目的は「ドイツを二度と立てなくさせる」ことでした。
ドイツには天文学的な賠償金が課せられ、徴兵制は禁止され、再軍備は厳しく制限されました。ところが、第一次大戦で大きな惨禍をこうむったのは、勝利した連合国ばかりでなくドイツも同じでした。ドイツ国民はベルサイユの審決に不満でしたが、マス・アーミーを再度組織して大被害を覚悟して、再戦を挑むことには消極的でした。
しかし、プロフェッショナル・アーミー、すなわち少数の専門的な、よく訓練された軍隊は、マス・アーミーに勝利できるのではないか、そうすれば自国民の損失を最小限にすることができるのではないか、と密かに考えた男がいました。
それがヒトラーです。
ヒトラーは、プロフェッショナル・アーミーの中核として機甲師団を創設し、塹壕戦とせずに敵野戦軍を包囲殲滅できる、と考えました。第二次大戦のフランス戦でこれは大成功を収め、電撃戦と呼ばれ、伝説となりました。ヒトラーの軍隊は、わずか三万人の戦死者で、その二二年前一八〇万人の戦死者を出しても、どうしても突破できなかった西部戦線を突破、一カ月半でパリを占領することに成功したのです。
ヒトラーはこの成功により、外交紛争は戦争によってのみ解決できる、と確信したに違いありません。次にバルバロッサ作戦を発動し、ソ連を侵略しました。
ソ連は帝政ロシアの伝統を引き継いだマス・アーミーの国です。ヒトラーのプロフェッショナル・アーミーは敵を求め、奥深く侵攻しましたが、マス・アーミーのソ連赤軍は湧くように出てくるわけです。ソ連の人口はドイツの三倍ありました。
独ソ戦は第一次大戦を上回る陰惨なものとなりました。
国民に平時と変わらない安逸な生活を与えれば、戦争も合理化されるという、ヒトラーの考え方は成立しませんでした。敵国があまりに強大であれば、自らも、敵と同様にせねば勝てないのは自明です。
軍事(戦争)と外交(平和)は交互に現れるわけですが、軍事力(軍隊)が外交を保証しているのもまた事実です。ドイツが再度立ち上がったことは、旧連合国の軍事力に欠陥があったことを示します。そして、ヒトラーの技術革新、機甲師団にみられるように、軍事力は科学・文化・政治制度と密接な関係があります。
平和を保証するための軍事力(軍隊)が暴走し、クーデターや私戦を起こすことがあるのも事実です。ですが、暴走や戦争を引き起こすこと(侵略)には、相当の理由があります。まず、それを知らねば、外交(平和)についての理解も不可能です。
この本は一九世紀以降の戦史を例にあげながら、軍事と外交の関係について論じたものです。戦争原因の解明とは、作戦計画発動の理由を問うことです。そして多くの場合、君主・政治家・外交官・軍人も「これで戦争に勝てる」と思うか、「これをやらなければ逆に戦争を仕掛けられて負ける」と思って、作戦計画を発動させるわけです。
ところが、この単純な事実を現在の大半のジャーナリストや古いタイプの政治家は認めません。
これを認めれば、「絶対(念仏)平和主義」「非武装中立」「軍縮」「宥和外交」などの論旨が崩れるからです。なぜならば、「自国を弱くみせる」「外交的譲歩」「テロを受けても何もすべきでない」という立場は「イージープレイ」、すなわち「簡単な餌食」そのものだからです。イージープレイが犯罪を誘発するように、こういった立場は戦争やテロを自国に招きよせます。
この本の中でそのような例がどこにあるか、発見できるでしょう。
歴史の理解が、外交についての見方や戦争についての見方を、左右するのは当然です。資本家が戦争を引き起こすと教えられれば、「資本主義」は悪いものだ、と普通考えます。
これまで、戦後の日本史教育について、数多くの問題点が指摘されてきました。ですが「世界史」教育も同様に歪んでいます。現在の「公教育」は、事実すら正確に描写せず、また古いタイプのイデオロギーに引きずられています。この本によって、新しい世界史を確立する一助になれば、と思います。
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