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はじめに
 帝国陸軍は、戦後、ずっと悪者扱いをされてきた。
 精神主義で科学的な思考ができなかった。補給を軽視していたから、まずい戦いばかりしていた。統帥権をふりかざして政府に横車を押した。最後には勝ち目のない戦争を勝手に始めた。負けているのに、うその発表をして国民をだましつづけた。装備していた兵器やシステムは時代遅れだった。兵隊生活は非人間的で、将校はいばりちらした。兵隊だった庶民だけが苦しんだ。職業軍人は滅私奉公をうたい文句に国民生活を圧迫した……等々。
 これらはどれも敗戦後、多くの国民の心をとらえた陸軍への批判である。体験者たちによる告発があいついで、無敵陸軍の実態が次々とあばかれた。しかし、当事者の話も、真実ばかりかというと、そうもいえない。狭い自分の体験からくる実感だけを、人は絶対のものとして語るからである。
 近頃では、後知恵による非難も目につく。その危険性はいうまでもない。私たちは誰もが過去の歴史、結果を知っている。ああすれば良かった、これが悪かったとあれこれ論評することは気分がいいものだ。しかし、それは自分や、今の時代への反省を忘れさせてしまう。
 前著『学校で教えない自衛隊』でも書いたが、わが国では伝統的に軍事知識を軽んじてきた。現在も、その事情は変わらない。いいかげんな理解や、不確かな知識で旧陸軍を断罪する。そして馬鹿にさえする風潮がある。
 だが、それは天にツバする行為といえる。陸軍は国民の各階層のインデックス(索引)だった。大学出もいたし、義務教育を終えていない人もいた。職業にいたっては、すべてが揃っていたといっていい。農民、商人、漁師、職人、工員、会社員、鉄道員、教師、地主もいたし、役人もいた。そのことは同時に、陸軍はその国民のレベル、文化を表わす組織でもあったことの証明になる。
 だから、旧陸軍を悪くいい、欠点をあげつらうことは古い日本、父祖を笑うことになる。そして、文化は断絶しないものである。昔のわが国を笑うことは、それにつながる今の自分を大切にしないことになる。
 この本を読んでいくと、読者は自分の中にある日本陸軍をしばしば見ることだろう。「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という標語が戦時中あった。物資の乏しさに不平をいえば、その言葉が返ってきた。豊かになったといわれる今も、そうしたいい方は馴染みがある。昔、「断じて行えば鬼神もこれを避く」ともいった。いまも「やる気が大事だ」とされていないだろうか。
 パート1では、戦史の中からベスト、ワーストの戦いを集めてみた。専門家からすれば違う見方もあるだろうが、戦争の結果は兵站補給力が左右するという私の考えからの選択である。
 パート2では、歴史にもふれながら、時代の制約の中で、精一杯の努力で開発された兵器の数々を解説した。
 パート3では、陸軍の組織や制度について書いた。おそらく読者にとって意外なことに、陸軍という一まとまりの組織がなかったことが明らかになるだろう。これが理解できれば、近現代史の見方がおそらく変わってくるはずだ。
 パート4では、陸軍を構成した軍人たちの実像にせまる。これもまた意外なことに、彼らが私たちの父祖であることが十分納得できることだろう。
 最後のパート5は、陸上自衛隊との比較である。自衛隊の実態はほとんど日本陸軍といっていい。アメリカから学び、武器を供与されても、結局、陸上自衛隊は、やはり日本陸軍なのである。戦前と比べて変わっているのは社会の側の事情の変化のせいでしかない。この本がそのことを一人ひとりが考える材料になれば幸いである。
目  次
はじめに
パート1 陸軍作戦ベスト&ワースト 11
ベスト作戦@ 小銃弾二一万発!「田原坂」を押し切った補給力  12
ベスト作戦A 四方向からの同時攻撃で勝った「平壌の戦い」  14
ベスト作戦B 初めて白人の陸軍を破った「鴨緑江渡河作戦」  16
ベスト作戦C 名将も愚将もない「旅順要塞攻略戦」  18
ベスト作戦D 重砲と機関銃で圧倒した「奉天会戦」  20
ベスト作戦E 旅順での学習を生かした「青島要塞攻撃」  22
ベスト作戦F 重砲、空爆、艦砲射撃「第二次上海事変」  24
ベスト作戦G 満を持しての快進撃「マレー半島縦断戦」  26
ベスト作戦H 虎の子降下す!「パレンバン降下作戦」  28
ベスト作戦I 米兵の地獄「硫黄島の戦い」  30
ワースト作戦@「第二次ノモンハン戦」で見誤ったソ連の本気  32
ワースト作戦A 禍恨を残した「バターン半島攻略戦」  34
ワースト作戦B 無名の小島ガダルカナルを「餓島」と化したもの  36
ワースト作戦C 密林に呑まれた「ポートモレスビー攻略作戦」  38
ワースト作戦D 草むすかばね十万余「ニューギニアの戦い」  40
ワースト作戦E 将兵の勇戦敢闘だけを頼りにした「サイパン島」  42
ワースト作戦F 無謀な正攻法「インパール作戦」  44
ワースト作戦G 誤報が生んだ「レイテ決戦」のまぼろし  46
ワースト作戦H「大陸打通作戦」B29爆撃機にとどかず  48
ワースト作戦I 持久か?攻勢か?「沖縄防衛戦」  50
パート2 総点検「陸軍の装備」 53
究極の軽戦闘機「九七式戦闘機」の先進性  54
長大な航続力で一転採用された「隼」  56
理想のインターセプター「鍾馗」の不遇  58
のちの五式戦で真価が証明された「飛燕」  60
「誉」エンジンに泣いた名機「疾風」  62
成層圏を目指した二つの試作機  64
最後まで洋上で酷使された主力重爆撃機  66
万能で高性能を狙った重爆「飛龍」  68
頼れるアタッカー「九九式双発軽爆撃機」  70
世界に先がけた戦略偵察機から対潜哨戒機まで  72
量産には到らなかった本格的輸送機  74
軽量化の犠牲となった射程に泣く  76
技術力の遅れで射程に泣いた大型砲  78
最大はシベリア鉄道を破壊した41センチ砲  80
激戦を支えた歩兵の友「迫撃砲」  82
的外れな「明治時代の小銃」という批判  84
多弾速射で攻撃を支援する分隊火器  86
高い命中精度と威力で拠点防衛のかなめ  88
優れた着想の「八九式重擲弾筒」  90
刀にまつわる誤解の数々  92
戦場の駿馬「九五式軽戦車」  94
対戦車戦闘の流れに乗り遅れた「九七式中戦車」  96
砲塔をのせた「代用戦車」たち  98
高価だった「九四式六輪自動貨車」  100
島国の事情が生んだ「大発」「小発」  102
特殊運貨船「神洲丸」を生んだ背景  104
パート3 陸軍の組織と制度 107
「陸軍」という組織は存在しなかった!  108
予算を含めあらゆる事に力を持つ「軍務局」  110
作戦から情報収集まで、陸軍のエリート集団  112
教育総監は今も昔も最重要職の一つ  114
二個旅団または三個連隊で師団  116
「総軍」の指揮官が「総司令官」  118
厳しいが開かれていた組織  120
軍属は現在でいう自衛隊員の技官・事務官・教官にあたる  122
部隊指揮官にはなれなかった相当官  124
一般人を軍人に、軍人を専門家にする教育  126
医者を根こそぎ動員せよ!  128
自己実現の手段でもあった少年兵  130
学徒出身将校はみな予備役  132
「国民皆兵」はスローガンだけだった  134
下級将校を必要をした陸軍大拡張  136
陸大卒と同等だった将官候補者  138
貧乏少尉・やりくり中尉・やっとこ大尉  140
個人のオシャレも反映した士官の軍服  142
敗戦時皇族の陸軍将校は一三人  144
「正規兵」と「ゲリラ」を分けるもの  146
パート4 陸軍の兵科と各部 149
宮城を護衛するエリート部隊  150
軍の主兵、歩兵はなんでも屋  152
遅れて登場し、きらめく機会を失った  154
馬の世話に明け暮れた「ガラ」の日常  156
大河を渡し陣地を築き密林を切り開く  158
将官になれた率はもっとも高かった  160
「空地分離」思想で編成された飛行団  162
やはり直面した射高と機動力のジレンマ  164
陸軍暗号は米軍も解読できなかった  166
実際には砲兵として戦った「化学戦のプロ」  168
武装をし交戦権もある衛生部員  170
「監軍護法の鬼」は損な裏方  172
幕末以来のフランス式を受け継ぐ軍楽隊  174
重砲一門につき一二頭の馬がいた  176
モノとカネを握った秀才たち  178
パート5 陸軍と自衛隊はここが違う 181
戦前も戦後も基本的には「少数精鋭」  182
「山形三本」で一人前の自衛官  184
部隊を支えるプロフェッショナル集団  186
陸自幹部の「A」「B」「C」とは?  188
「実施学校」にほぼ相当する「職種学校」  190
世界的にも珍しい陸・海・空一緒の教育  192
ほぼ変わらない「将官への道」  194
「軍隊ではない」陸自隊員の裁判は?  196
射程百数十キロを誇る現代の「要塞砲」  198
今も昔も食わせて、眠らす「宿屋のオヤジ」  200
机にへばりついてはいられなかった「主計」  202
正装をしていないと思われた自衛官  204
「ボロボロの自衛隊旗」を見ないワケ  206
参考文献  208
おわりに  211
 [コラム]階級が高いほど戦死した日露戦争の実態  52
 [コラム]職人芸があったから造れた日本の高性能兵器  106
 [コラム]「統帥権」は悪者か?  148
 [コラム]士官制度の違い――陸軍のデモクラシーと海軍のリバティー  180

おわりに
 書き終えてみて脱力感がある。日本陸軍を書くことは、そのまま昔のわが国を、日本人を書くことになる。ここで書いたことは陸軍の全体像から見たら、ごく一部でしかない。軍事史に詳しい人なら、省いたところに気づかれたり、あるいは間違っていると思われたりする箇所もあるだろう。ご教示をお願いしたい。
 私の専門は教育史だった。学部時代の「国民教育と軍隊」というテーマが私の出発点だった。大正から昭和戦前期の公教育と陸軍の関係に興味をもった。手当たり次第に史料を漁っているうちに、「偕行社記事」に出会った。偕行社とは、旧陸軍の将校たちの研究・親睦組織である。その機関誌が月ごとに発行されていた。それが偕行社記事である。研究論文や、海外事情の紹介があったり、懸賞に応募した投稿が載ったりしている。陸軍将校たちの外国事情についての関心の深さがうかがえる。また、将校たちの日常生活を読み取れる記事もあった。そのときどきの世相や世間の気分を知るのに役に立った。
 大正時代の投稿者の中には、第二次世界大戦で有名になった将軍たちの名前があった。彼らが大尉、少佐という中堅将校の時期にあたる。
「下士を活用し、教育の成果を挙げる」、「学校教育に軍隊体育を採り入れることへの提言」、「初年兵教育についての一考察」などという論文の数々があった。当時の若い軍人たちはどんなことを考えていたのだろう、そういった興味から読み始めた。すると、いつの間にか、私は彼らと議論を交わしているような気がしてきた。彼らの抱えていた、当時の人、組織に関わる問題点は、いまの私のそれらと共通するものばかりである。
 私の父は技術屋だった。戦時中の若い頃には陸軍航空と関わりをもっていた。私が兵器や機械のメカニズムにも興味があるのはそのせいである。
 父や周りの人から、陸軍機は南方で敵と交戦した損害より、離着陸の事故で失われる数のほうが多かったと聞いた。オイル系統ではパッキング技術の遅れ、エンジンではカムシャフトやロッドの不出来があった。無線機は絶縁の不備や真空管の欠陥がパイロットたちを悩ませた。部品ではちっぽけなバネやネジ一つにもよく泣かされた。同じ戦闘機なのに、優秀な試作機と稼働率の低い量産機の違いがあった。そんな話ばかりである。
 それぞれの理由などについても珍しい話を集めることができた。明治の初めからの西洋に追いつけ、追い越せの精一杯の努力の限界を見た思いがした。
 徴兵制度や軍隊内教育は、母の故郷の町で学ぶことができた。役場に残る兵事関係資料を整理する機会があった。上等兵や下士官になった人はどんな人だったのか見えてきた。除隊してからの軍人たちの職歴もまた興味深いものだった。陸軍で学んだ技術で商売を始めたり、優秀さを見込まれて働き場所を得たりという例が多くあった。
 大戦末期に陸軍に入った知識人たちは、多くが兵隊生活を非人間的に描いた。それとは違った証言もあった。田舎の町には陸軍を懐かしむ人たちがいた。軍隊を人生修行の道場と位置づけ、仲間とともに苦労を乗り越えた思い出を楽しそうに語ってくれた。不幸にして戦地で亡くなった上官や部下、同僚への思いの深さは、私の胸を今も打つ。
 せめて、公平な書きぶりで、陸軍の真の姿を残しておきたい。そう考えて何年もたってしまった。この書が多くの人の目にふれて、自分たちの父祖が懸命に戦ったことを知って欲しい。せめて事実を知ることだけが、私たち後世の人間ができることだからだ。
 最後に、陸上自衛隊と陸軍について語っておきたい。
 陸自はアメリカ軍の手によって育てられた。武器を供与され、そのシステムも、教育もほとんどアメリカ陸軍の真似をした。しかし、変えられないのは文化である。駐屯地の兵舎(いまは隊舎という)、本部の建物、全体のたたずまいが醸し出す雰囲気は旧陸軍のそれと驚くほど似ている。何より、中で暮らしている隊員たちは、そのまま陸軍軍人にすぐになれることだろう。
 隊員たちの態度や言葉は旧陸軍とあまり変わらない。屋内では脱帽し、頭を下げる敬礼をすることなどや、吸い殻入れをエンカン(煙缶)、洗濯物を乾かす場所をブッカンバ(物干場)と呼ぶことなどは、まさに陸軍の伝統を引き継いでいる。
 制度を比べてみても、アメリカ軍の長所と、陸軍の反省をよく組み合わせてつくられてきたように思える。それもまた、陸軍を見ることは、その国民を見るように、陸上自衛隊を見ることは、そのまま私たちの現在を見ることと同じであることの証である。
 
 ゴラン高原で、東ティモールで、黙々と任務を果たしている隊員たち、イラクへ派遣された隊員たちの武運を祈りながら。
                                      荒木 肇
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部教育学科卒業。横浜国立大学大学院修士課程(学校教育学専修)修了。横浜市の小学校で教鞭をとるかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、横浜市小学校理科研究会役員、横浜市研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。現在、民間教育推進機構常任理事、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)。1999年4月から川崎市立小学校勤務。2000年1月から横浜市神奈川区担当民生委員・主任児童委員も務めている。ベネッセ教育研究所CRN(チャイルド・リサーチ・ネットワーク)においても学校教育に関する諸問題について意見を発信中。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』(出窓社)、『「現代(いま)」がわかる―学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』(並木書房)がある。