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目  次

[対談]架空戦史から戦訓を引き出す危うさ(兵頭二十八・別宮暖朗)  11

ボルトアクション式小銃の傑作―三八式歩兵銃  11
日本軍は銃剣突撃を重視したことはない  17
ロシア軍の小銃には銃剣がネジでとめられていた  19
技術を軽視していなかった帝国陸軍  23
国内重工業の規模が劣っていた  26
山縣・有坂コンビが明治陸軍の技術をリードした  29
日露戦争後、組織が細分化されて、活力が落ちた  33
元帥の意見を無視して書かれた『機密日露戦史』  36
陸大教官を批判しながら陸大戦術を賛美する「司馬史観」  40

第1章 永久要塞など存在しない  43

旅順要塞はすべてベトンで練り固められていた?  43
要塞は火力の発展に伴い変化した  44
画期的なボーバンの築城術  47
榴弾砲の発明で城塞の優位がくずれた  49
ブリアルモンは保塁全体にベトンの天蓋をかぶせた  50
保塁と保塁の間には塹壕がつくられた  52
旅順要塞はブリアルモン式要塞である  54
ロシア人は巨大兵舎を保塁に併設した  56
保塁がなくとも塹壕だけで防衛側は粘ることができた  58
塹壕戦は兵士の一定の死を計算に入れていた  59
[ケース1]プレブナ攻防戦(一八七七年/露土戦争)  61
第一回攻撃  61
第二回攻撃  61
第三回攻撃  63
プレブナの戦訓  65

第2章 歩兵の突撃だけが要塞を落とせる  66

ボーバンの『攻囲論』は日露戦争より二百年も前のもの  66
ボーバンは城塞を攻略する方法を発見した  68
近代要塞は一カ所を突破しても攻略できない  70
奇襲性を確保せよ  71
独創的な乃木司令部の突撃壕  72
塹壕戦における攻撃側の困難  74
野砲の速射性を向上させた駐退機の発明  76
砲撃だけでは塹壕戦に勝利できない  77
歩兵の突撃が、塹壕を突破できる唯一の方法だった  78
さらにいったん突破しても、突破点を保持できなかった  80
犠牲覚悟の「横隊戦術」が攻撃の主流だった  83
敵の出撃を待つという方法  85
[ケース2]プルゼミスル攻囲戦(一九一四―一五年/第一次世界大戦)  88
五カ月の包囲に耐え、最後全員出撃を敢行し自滅した  88
オーストリア軍十一万人が降伏した  90

第3章 要塞は攻略されねばならない  92

要塞攻略か艦隊撃滅か?  92
ステッセルはバルチック艦隊の到着を待とうとした  95
ロシア軍と清国軍の防衛思想の違い  96
日本軍は一貫して旅順攻略のため戦った  98
日本の無名戦士が最終的に旅順を陥落させた  99
中途半端な策は、何もしないより悪い  101
戦略は軍事的合理性だけで決定することはできない  102
「消耗させる」という戦法  104
日露両軍とも国際法を遵守しながら戦った  106
[ケース3]ベルダン攻防戦(一九一六年/第一次世界大戦)  108
目的はフランス軍将兵を消耗させること  108
フランス軍はファルケンハイン参謀総長のワナにはまった  109
戦線はあまり動かず、両軍ともただ大量の損害を出した  113
消耗戦では、どこを占領するとか攻撃するとかは重要ではない  114
ドイツ軍は敗北した  116

第4章 失敗の原因は乃木司令部だけにあるのではない  117

旅順攻略のため第三軍が編成された  117
誰もが旅順要塞を過小評価した  119
出撃しないというステッセルの決心  120
艦砲による陸上への援護射撃  121
強襲による要塞攻略で合意が成立した  125
「怪弾」二発が勝敗を決めた黄海海戦  128
バルチック艦隊の極東派遣が決定された  130
第一防衛線を一挙攻略する策案  131
大損害をこうむり第一回総攻撃は失敗した  134
攻撃失敗の原因は乃木司令部だけにあるのではない  137
攻撃に失敗した軍隊をどう形容すべきなのか  139
対壕を掘削して戦術の転換を図る  141
海軍が二〇三高地占領を要求し始めた  143
第二回戦前哨戦―二〇三高地だけが残った  145
二八サンチ砲の到着  146
両軍の被害がついに逆転した  148
海軍がまた騒ぎ始めた  150
二〇三高地主攻説は誤りだ  152
第三回戦作戦計画は折衷案となってしまった  153
攻撃開始直後から作戦は失敗した  156
乃木司令部は主攻を二〇三高地へ変換した  158
ロシア軍も予備隊を逐次投入し始めた  159
二〇三高地が決戦場となった  160
ロシア軍の予備隊は消耗され尽くした  163
二〇三高地争奪戦は、この戦いで最も両軍に犠牲を強いた  165
二〇三高地が占領されたあとも戦いは続いた  168
二竜山そして望台が占領された  170
明治三八年一月一日、ステッセルは降伏した  174

第5章 ロシア軍は消耗戦に敗れた  175

満州軍総司令官クロパトキンと要塞司令官ステッセル  175
ステッセル将軍の降伏電報  178
ステッセルは兵員の減耗により降伏することを決心した  180
食い違うロシア軍の損害  181
ロシア兵の半数近くが死傷した  184
短期決戦で旅順を陥落させる方法はなかった  187
本街道突破をめぐる判断  188
命令戦法と訓令戦法  190
白襷隊――当初から作戦は齟齬をきたした  191
松樹山補備砲台にこだわりすぎた  193
ETAPEとは  196
[ケース4]リエージュ攻防戦(一九一四年/第一次世界大戦)  199
ルーデンドルフは保塁の間を抜け、市街地に飛びこんだ  199
ベルギー軍は要塞からの撤退を決心した  202
ビッグ・バーサ登場  203

第6章 旅順艦隊は自沈した  206

ロシア軍は銃剣突撃に重点を置いていた  206
ロシア軍は簡単に撃破できる相手ではなかった  208
ロシア軍は火力を重視しなかった  212
一世代古いロシア軍のモシン・ナガン銃  214
最新技術を組み合わせた名銃「三十年式歩兵銃」  216
画期的だった巨大口径臼砲の使用法  219
有坂が二八サンチ砲の旅順持ちこみを提案した  221
二八サンチ砲の威力と効果  225
旅順艦隊は二八サンチ砲で撃沈されたのか  228
旅順艦隊の多くは自沈または自爆だった  232
二〇三高地占領前に旅順艦隊は破壊されていた  236
[ケース5]ノボゲオルギエウスク要塞攻囲戦(一九一五年/第一次世界大戦)  239
要塞攻略の切り札「ビッグ・バーサ」を投入した  239
砲弾が保塁に命中するとロシア兵はなだれをうって降伏した  241

第7章 軍司令官の評価はどうあるべきか  244

旅順攻防戦は日本の零敗ではない  244
『機密日露戦史』は客観的戦史とはいえない  247
参謀本部は旅順要塞を簡単に攻略できると誤判断した  250
旅順艦隊の追い出しに成功した  253
重要なのはどこを攻めるのではなく、どれだけ敵を消耗できるか  258
二〇三高地争奪戦が決戦となった理由とは  260
旅順攻防戦が日露戦争の大勢を決めた  262
旅順要塞陥落により「血の日曜日事件」が起きた  265
旅順陥落はロシアの太平洋国家となる夢を断念させた  268
普通、勝利した将軍が有能とみなされる  270
乃木は戦術を転換させ、成功した  272
消耗戦は味方も犠牲をはらう  274
乃木は無能ではなかった  275
 主要参考文献  279
 あとがき  283


 日露戦争がなぜ開始されたのか、すなわち戦争原因をめぐって、これまでに、さまざまな論議があった。司馬遼太郎は日露戦争を「祖国防衛戦争」と定義している。(『歴史の中の日本』一〇五ページ)
「日露戦争は……日本の開戦前後の国民感情からすれば濃厚にあきらかに祖国防衛戦争であった。が、戦勝後、日本は当時の世界史的常態ともいうべき帝国主義の仲間に入り、日本はアジアの近隣の国々にとっておそるべき暴力装置になった」
 現在、この言葉を聞いて、一体、ピンと来る読者は多いのだろうか。
 この「祖国防衛戦争」とは「帝国主義戦争」と対立するマルキストの言葉で、第二次世界大戦の独ソ戦勃発後、スターリンが初めて使用した。スターリンは独ソ戦が「帝国主義戦争」ではなく「祖国防衛戦争」であり、プロレタリアの祖国、ソ連を防衛する戦争だとして、国民の愛国心をかりたてた。
 レーニンは「帝国主義戦争」を、銀行家が政治家と結託して引きおこすものだとした。これに従って、現在のマルキストは、金融資本段階に達した資本主義国家同士が引き起こす戦争は、全て帝国主義戦争としているようだ。高校や大学でこのような説明を聞き、しっくりしなかった読者も多いと思う。
 感じる疑問は「日露戦争が『帝国主義戦争』または『祖国防衛戦争』だと歴史家に『定義』されたとしても、日露戦争を戦い、あるいは斃れ、傷ついた祖父や曽祖父の想い出と一致しない」ことだろう。
 一九〇四年二月六日、駐ペテルブルグ公使栗野慎一郎はロシア外相ラムスドルフにパスポートを要求した。十九世紀国際法では、外交使節のパスポート要求は国交断絶を意味する。また、当時、外交紛争を戦争という手段で解決することは合法と受けとめられていた。
 翌日未明から瓜生艦隊は、仁川にいたロシア軽巡ワリアーグを攻撃自沈させ、連合艦隊は渤海湾に突入し、旅順艦隊の撃滅を図った。この先制攻撃により日露戦争は開始された。
 また、日本が開戦を決意するに当たり、決定的な要因となったのは、前年九月、ニコライ二世がペテルブルグにおける外交交渉を拒絶し、大連(ダルニー)にいたアレクセイエフ極東総督に限定したことである。国際法上、外交交渉は双務性が要求される。首都における外交使節の駐在がありながら、出先における交渉に限定することは、耐えがたい屈辱であり、これを許しては宗属関係に入ったと誤解されかねない。
 これは、ニコライ二世がおかした重大な外交的失策の一つとみてよい。ニコライは国交断絶の通知を受けても、まだ日本が開戦決意したことが理解できず、仁川にいたロシア艦船に戦争の危険があることを連絡しなかった。
 これにより、ニコライ二世は仁川におけるワリアーグの損失は自らの過怠のためだったと、あとで弁明する羽目に陥った。先制攻撃を受けても、兵員に重大な損失が生じない限り、なかなか戦争という事実を把握できない。冒険的外交方針をとった場合、いよいよ理解できない。
 それでは、なぜニコライ二世は日本に対し冒険的外交政策をとり、日本はこれに武力で対抗したのだろうか。これも、現在は曖昧にされているが、当時は自明のことだった。
 ロシアの国家戦略は朝鮮半島を領有し、太平洋国家になることだった。遼東半島やウラジオストックを保有しても、極東ロシア領は経済的に保持できない。その根本的な問題は、産業がないことである。シベリアで農業は成立せず、工業もあらゆる基盤を欠いていた。これは現在でも同じであり、漁業と林業、鉱業しか産業はなく、そして販売先は日本に限られる。
 この状態であれば、多少とも産業が成立すると見込まれた朝鮮半島を領有することはロシア人にとり自然な決定である。それでも、ロシアは日本を支配下に置く意図はなく、朝鮮半島領有を容認して構わないとする論者もいるが、それはロシアを西欧諸国と同列に置く誤りである。新占領地で残虐な支配を行なった実績のある国が隣接することに、穏やかでいられる国はない。
 日露戦争直近においても、ロシアのコーカサス方面への進出は、猛烈な流血と難民を伴っていた。一八七八年露土戦争は、ロシアが後カフカス地方に住んでいたチェルケス人を迫害し、大量の難民が発生、三百万人を超えるイスラム教徒がブルガリアに流れこみ、キリスト教徒と対立したことが一因となった。
 他にも、テケ・トルコマンの大量虐殺、ブラゴフェシチェンスクの中国人大量虐殺など、十九世紀における大量殺人は大部分ロシア人の手で行なわれた。
 おそらく、ロシア正教に改宗しない朝鮮人は、日本に逃げるしか道はなく、それに伴う数百万人に及ぶ死者の発生は、ロシア統治の実績からいえば、ほぼ確実である。もちろん「次」を予想せざるを得ず、十分な兵力、装備、機略をもった国、日本が手をこまねいて眺めるなど、考えられることではない。
 ニコライ二世は、日本人を「猿」と呼び、イギリス人を「ユダヤ人」と呼んだ。極東やインドにどうしても譲らない敵がいることはよくわかっていた。
 このようなことで、日露戦争を止めることはかなり難しい。膨張策をとるロシア帝国、それにストップをかける意志と能力のある国家、大日本帝国は相容れない。
 日本が先制攻撃を決心したのは、海軍について軍事的裏づけがあったからだ。
 海相山本権兵衛は艦隊をあるコンセプトによって統一していた。すなわち、戦艦は一二インチ、装甲巡洋艦は八インチの主砲で統一し、また速度が圧倒的であるように設計されていた。歴史上、海戦とは滅多に起きるものではない。とりわけ鋼鉄船の出現以来、事前に相手側艦隊の内容を把握できるようになった。このため、負けると知った側は出撃しなければよい。
 にもかかわらず、日露戦争では大海戦が生じた。これはなぜか?
 まず前提だが、ハーベイ鋼の装甲をもつ戦艦や装甲巡洋艦などの大型艦が砲戦で沈むとは考えられていなかった。また、速射性のない大口径砲を命中させることは至難であると推定された。当時の艦砲は六インチ以下の副砲に限り、ある程度、速射性があった。主砲にはこれがない。
 日本の装甲巡洋艦は八インチの主砲四門があったが、イギリス、フランス、ロシアなどの海軍国の装甲巡洋艦には主砲のないものすらあった。つまり、主砲の役割はどうせ当たらないのだから、とどめを刺す用途しかないとされていた。
 当時の砲戦におけるメインの考え方は、接近し、六インチ以下の副砲で、ホースで水をかけるように移動射撃して命中させればよいというものであり、日本海軍は日清戦争では、このような射撃法で清国海軍を圧倒した。
 また、装甲巡洋艦の用途だが、艦速が異なるため、戦艦と一緒の艦隊行動は適切ではないと信じられていた。つまり、遠洋航海して通商破壊戦に出るための艦だった。ロシアは装甲巡洋艦からなるウラジオ艦隊をそのように使用した。日本海軍は、こういった海軍思想に従わず、装甲巡洋艦を主力並列艦として使用し、また主砲すなわち大口径砲を重視した。
 これらの発想は極めて斬新である。山本権兵衛の天才によるのだが、どの天才にも共通なように、「なぜか」について書き残していない。同じ頃、ドレッドノートと巡洋戦艦を発明したイギリス海軍の天才ジャッキー・フィッシャーと義兄弟の契りを結んだ仲だ、と書き残しているので、あるいは天才同士で肝胆あいてらした結果かもしれない。
 ロシアの提督はこのような画期的な機略を理解できず、日本海軍の挑戦に個々に応じてしまう結果となった。
 実戦では、連合艦隊の主砲弾はまるで水を浴びせるようにロシア艦に命中し、装甲巡洋艦の働きは戦艦に劣らず、ロシア艦隊の大半を鹵獲するか水中に沈めたのだから、明治の日本人に脱帽するしかない。
 一方、ロシア極東海軍は根本的に解決不能な問題を抱えていた。極東に海軍基地が二つしかないのである。そのうえ両方とも不完全な修理能力しかもちあわせていない。
 すなわち、旅順とウラジオストックの二カ所だが、まともなドックがあるのはウラジオストックで一万トン級だが、大規模石炭ヤードと修理工場を欠いていた。そして、旅順は清国の築いた二千トン級のみで軽巡洋艦しか入らない。修理能力はあったが、とにかく役に立つドックはない。
 中国沿岸は、渤海湾から福建省まで海岸線が遠浅のため、浅水港しかない。旅順港もまた同じで、港内の水深は満潮時一〇メートルほどである。このため、干潮時、大半の軍艦は擱座した。出港は、四、五時間ほどしかできない。
 ところが、喫水線下に破損が生じても、これがため、修理することができる。旅順艦隊のセバストポリは二回触雷し、喫水線下に大穴があいたが修理に成功した。だが、上部構造を大幅に破壊されると修理は簡単ではない。つまり、鉄板を当て、アーク溶接することはできるが、砲塔内の修理は容易ではなく、また艦橋が破壊され、中の計器を交換する必要が生じると、本国まで部品をとりよせねばならず、外部との連絡が断たれると、修理は絶望的となる。
 一方、連合艦隊の方は日本国内にある無慮数百の造船所が利用できる。修理能力では連合艦隊の方が格段に上なのである。もし海戦があり、五分五分で上部構造が破壊されれば、連合艦隊は即刻修理可能だが、ロシア極東艦隊は放置するしかない。
 ロシア極東艦隊にとり、勝利の道は、バルチック艦隊の到着を待ち、主力艦を二倍として、本格的海戦に打ってでるしかない。これは開戦となった瞬間に海軍提督であればわかることだが、陸軍軍人にわからせるのは大変なことだ。旅順艦隊司令官マカロフ(四月戦死)とその後継ウィトゲフト(八月戦死)も、ステッセル以下、陸の諸将の説得につとめた。
 ところが、一九〇四年八月一〇日、黄海海戦が発生し、日露戦争の海の戦いは一旦の決着がついた。これはどのような事情によるものか?
 開戦時の仁川海戦を横目にみて、連合艦隊は渤海湾に突入し、旅順要塞に逃げこんだロシア艦隊を挑発したが、出てこない。海軍はこのうえはと、閉塞作戦を実行したが失敗した。乃木第三軍は陸側から攻め、欠陥要塞の虚をつき、港内を瞰制できる要地、大弧山占領に成功した。直ちに、大弧山頂上に観測所を設置し、市街地および港内の射撃を敢行した。
 八月九日、海軍陸戦重砲隊の一弾は遠く弧を描くように七キロを飛び、吸いこまれるように戦艦レトウィザンに命中した。
 太平洋戦争勃発時の海軍軍令部総長永野修身はこの時、重砲隊中隊長で、のちのちまでも、この砲弾は自分の指揮した一二〇ミリ砲から発射したものだと自慢した。
 自慢する価値はある。この砲弾は世界史を変えた一発である可能性がある。ともあれ、この「怪弾」によりウィトゲフトはウラジオストックに向けての出港を決心した。
 ロシア側からみれば、大弧山より外側に防衛線をしき、日本軍をそれから内側にいれることを拒止できれば、旅順艦隊を要塞内に温存できた。
 だが、陸海軍ともに黄海海戦が決定的でないとみた。参謀本部は乃木司令部に要塞の強襲による攻略を命令していた。八月一九日から始まった第一回総攻撃はこの結果である。
 旅順攻防戦について乃木司令部が「無能」(司馬遼太郎)とか、「白痴」(福岡徹)と批判されるのは、この第一回総攻撃についての謂いである。
 この戦いは日露開戦から一直線につながっている。あるいは、第一回戦は開戦に伴う悲劇のクライマックスではなかったか。
 日露戦争の背景の大部分は忘却された。明治の日本人は生まれたばかりの国、大日本帝国に誇りをもっていた。その国は単に、軍事や経済に優れるばかりではなく、国民に「自由」と「平等」を保証していた。国民はいかなる職業につくこともでき、居住地を選択でき、学業次第では官吏になることもでき、言論の自由までもあった。
 新聞は「専制国家」ロシアに鉄槌を下せと叫んだ。そして、国家が国民に戦えと要請したとき、国民は全力をあげて戦った。大半の戦いで日本兵は五割を越えるロシアの大軍団をものともしなかった。
 兵士は、日本が「プロレタリアの祖国」「アジアの盟主」「白人に対抗するため」などと考えて戦ったのではなく、国家とそれを代表する明治天皇の命令に「義務」を感じて命を賭して戦ったのだ。
 歴史が必然的に進行する、すなわち奴隷制―封建制―資本制―共産制と人類社会は進化するという歴史観は、もはやまともなサークルでは語られない。「帝国主義戦争」も「祖国防衛戦争」もその脈絡で生じたものであり、政治宣伝にすぎない。司馬遼太郎がこういったマルクス主義者の教説の範囲で歴史を理解したことは驚くにあたらない。日本の一九六〇年代はそういう時代だった。そして戦前においても、現在においても、その呪縛から逃れ出ることができない人々がいたし、いる。
 これまで人類史上で数多くの戦争が発生した。一つとして同じ戦争はない。日露戦争も当時の極東情勢と、大日本帝国の成立との関係でみるしかなく、類例があるわけではない。さまざまな戦争を説明したり、類型化したりするのは本書の範囲を越える。ただ、司馬遼太郎がかかった呪縛で日露戦争を理解することは不可能だ、というだけである。
 本書をまとめるにあたって、ほとんどの面で示唆をいただいた軍学者兵頭二十八氏、また弾道学について参考にさせていただいた防衛大学校教授大野友則氏、さまざまな点でご教授いただいた高城正士さん、江藤真一さん、そして最後に並木書房出版部に厚く感謝申し上げます。
 二〇〇四年一月
                                       別宮暖朗
別宮 暖朗(べつみや・だんろう)
1948年生まれ。東京大学経済学部卒業。西洋経済史専攻。その後信託銀行に入社、マクロ経済などの調査・企画を担当。退社後ロンドンにある証券企画調査会社のパートナー。歴史評論家。ホームページ『第一次大戦』(http://ww1.m78.com)を主宰するほか『ゲーム・ジャーナル』(シミュレーション・ジャーナル社)に執筆。著書に『戦争の正しい始め方、終わり方(共著)』(並木書房)、『中国、この困った隣人』(PHP研究所)がある。

兵頭 二十八(ひょうどう・にそはち)
1960年生まれ。東京工業大学・理工学研究科・社会工学専攻・博士前期課程修了。雑誌編集部などを経て、現在は「軍学者」。著書に『学校で教えない現代戦争学』『ニッポン核武装再論』(並木書房)などがある。