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「日本は核兵器を持つべきである」という兵頭二十八の意見は、もはや少数意見ではない。長年、兵頭は「核武装こそが安価な防衛の解決策であり、最小の核抑止力を保持するフランスを見習うべきだ」と主張してきた。小泉首相をはじめ、日本は軍事面でも発言力を強めたいという流れのなかでは、兵頭の意見は説得力があるかもしれない。
(ニューヨーク・タイムズ紙 2003年7月22日)
「日本は抑止効果の検証されている核武装をすべきだ」と保守論客の一人、兵頭二十八は語る。しかも「核武装は、北朝鮮に対してではなく、中国の脅威に備えるためである」と明言する。自民党の中にも核武装に理解を示す議員は少なくない。
(仏フィガロ紙 2003年11月10日)

まえがき

 ハイマン・リッコーバー海軍大将は、SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)搭載原潜(特にその加圧水型小型原子炉)の開発を、ほとんどゼロから指揮して成功させ、第2次大戦後の米国の核戦略体系にあって当初ほとんど「のけ者」であった海軍を、ついには空軍以上の圧倒的な、信頼される核抑止力にまで高めた男であった(レーガン政権時代に、退役)。
 彼はこんなことを言っている。
――組織には何事も為せない。立派なプランだけあってもダメ。マネジメント理論も、役に立たぬ。ただ、最上の個人が責任指導をできたときにのみ、事業は成し遂げられる――。
 朝鮮民族が独自に核武装をするのかどうかに我が日本国民の関心がかつてなく高まった2003年8月。政府の閣議で承認された防衛庁編『平成15年版 日本の防衛(防衛白書)』は、その47頁に、こんな説明を載せていた。
「核爆発の方式からは砲身(ガンバレル)と爆縮(インプロージョン)型に分けられる。…《中略》…。プルトニウムを使用した場合には砲身型にはできない。」
 1950年代に米海軍が、プルトニウムの砲身型の戦術核を2種類以上開発し、制式兵器として艦船等に実戦配備していたのは、当時から誰でも確かめられたシンプルな事実であった(1960年のフランスの初期の核実験に用いられた原爆が、やはり比較的に完成容易なプルトニウムの砲身型として組み立てられていたとする本もある。もしそうだとすれば、それも米軍の先行例の情報が勇気づけた実験かもしれない)。
 米海軍の核爆雷は、専門家しか手にとらないような硬い書籍・雑誌だけでなく、たとえば、街の書店で一般向けに市販された『核兵器図鑑』(ワールドフォトプレス編、86年、光文社刊)にも写真付きで紹介されている。その写真は米国内の博物館に常設公開展示されているものらしく見える。外務省や防衛庁が特殊ルートで探索せねばならぬような秘密情報でないことは確かだろう。
 新しい『防衛白書』が閣議で承認されるまでには、多くの防衛官僚と、肩書に「長官」等とつく一部代議士も少しは目を通したはずだが、要するに、核兵器・核戦術の専門家は今の同庁周辺にはいないのだと見てよい。それは、この白書の47頁に書いてあることを、たとえば中国、ロシア、イスラエル、インド、その他の国防政策に関わる人々がチェックしたときに、日本政府についてどんな印象を抱くだろうかと想像したら分かる。この『日本の防衛』は日本国民の権力をわざわざ低下させているのである。
 防衛庁が核のイロハを正確に解っていないとすれば、いったい日本国に「安全保障政策」などあり得るのか? それは納税者じしんの問いでなくてはならぬ。
 現代の日本の外交官には、日本国民の生命と財産に最大級の危険を一貫して及ぼし続けている諸外国の核兵器や核戦術の専門知識がなくてもよいことになっており、また外務省内でその専門家を育てる気もないこと――は、同省OBが書いた文章を眺めたら凡そ見当がついていたことだった。
 が、さすがに防衛庁には少しくらいは専門集団が隠れて存在するんだろうと、大方は思っていたのではないか。
 私も長年そう信じていた。不幸、その思い込みがまずグラついたのは、「防衛庁市ヶ谷移転事件」の際である(詳しくは、ちくま新書『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』等に譲ろう)。
 さらに偶然の機会から、私は2003年の前半に、日本原子力委員会の元メンバーだった方に対し「北朝鮮はプルトニウムのガン・アセンブル型原爆をつくる可能性はないのでしょうか?」とお訊ねすることができた(余談だが、専門家は「ガン・バレル」は幼稚っぽく聞こえると思うのか、お嫌いらしい。「ガン・メソッド」もよく好まれている)。が、その親切なOB氏は、そのような組み合せの原爆型式について、そもそも初耳であるようなご様子であった。
 これが日本の一流大学の原子力工学の教育レベルであると私は呑み込んだ。
 筆者はこの元技官の方のご厚意にとても感謝しているが、同時に核武装論者としてこう歎ぜざるを得ない。――『それにしても、米国原子力委員会との、なんと極端な意識の違いだろうか』と。
 ちなみに、ガン・メソッドでプルトニウムを使うには、広島型の長さを倍にすればよいこと、それは長さ5mほどになること等の説明は、1990年刊の山崎正勝・日野川静枝共著『原爆はこうして開発された』にもわかりやすく記述されているのを見るであろう。つまり市販書でもオープンになっている基礎的知識が、それが原爆関係の情報であるという理由だけで、日本の戦後の専門教育の現場では一貫して講授もされずにきている事情のあることが、強く推定されるのではないか。
 今度の『防衛白書』は、私に一つの「見切り」を強いた。それは、日本国内の原子力専門家にも、また防衛庁にも、核戦略問題は任せられぬ実状についてである。
 しかし思い直せば、これは、人類最初の核爆弾のときからそうだったのかもしれぬ。原爆は、アメリカの軍人が望んだのでも、亡命ユダヤ人の物理学者が発明したのでもない。英国政府の心配症の情報分析チームの忠告を受けた、フランクリン・デラノ・ローズヴェルト大統領という不世出の文民政治家が、たった1人のイニシアティヴで、空想を現実に変えたのだ。
 核武装問題に限らぬが、「日本に足りないのは何か」とよく言われる。
 それは、原材料でも、技術でもないだろう。いわんや地面の広さなどではない。
 そして勘違いする者がとても多いが、組織でもない。組織はすでに腐るほどある。組織が、それじたいで役に立つと思ってはならない。憲法が改正できたとしてもこれは同じことで、人が組織に頼ってしまえば、組織は建物の構造以外、全部腐るものなのである。
 答えは、「人」である。
 問題を把握できる人は、組織の内外を問わず、常に極く少数いる。が、問題に挑むたった1人の「指導的な長」が、いない。その人こそ、この国の明治以後、「足らない何か」のすべてである。
「立派な法律も役に立つが、立派な人間はもっと役に立つ」(ウィリアム・ペン)。
 この本では、読者の核武装問題についての把握を助けたい。特に巻末の附録年表は、本文のくどくどしい説明以上に、具眼の読者の世界認識を一新させるであろうと敢えて断言する。
 しかし、「長」をつくり出す力は、この書物にもありはしない。それはただ、同じ人、つまり読者が行為を通じて、生み出すことができるだけであろう。

 


[目次]

まえがき

第1章 核攻撃を抑止するのは「核」だけである  13

「抑止」とは何か?  13
「即時」かつ「大量破壊」は核兵器だけ  15
「核」はこう効く――イスラエルが「原爆」でかちとった立場  17
欧州や太平洋で「毒ガス」が使われなかった本当の理由  20
装備に劣る側にイニシアチブはない  21
核兵器と通常兵器は同質だと考えたがる「ヒガミ根性」  23
対住民殺傷は「不道徳」ではあるが…  25
「カウンター・ヴァリュー」とは何か?  28
日中間で成立する相互確証破壊  30

第2章 経済大国で軍事小国という許されざる矛盾  33

アメリカと中国はどちらが信じられるのか  33
日米に道義的対立が生じる可能性  35
「海外派兵はなぜ必要か――大国の意義について  37
「攘夷」止まりの日本人が理解できない「近代」  38
「人殺しの請け負い」は許されるのか?  41
安く大量に集めただけの兵隊の出る幕はなくなった  43

第3章 核兵器は何からどう製造されるのか  45

「ウラン25kg」または「プルトニウム8kg」で可能  45
ウラン濃縮には巨大で精密な工業技術が必要  46
ウランの砲身式原爆――核武装への近道  48
ウランの爆縮式原爆――メリットが大きく応用も効く  48
プルトニウムの精製――低濃縮ウランから人工的に  50
プルトニウム「239」と「240」  51
高速増殖炉の場合  54
プルトニウム原爆――基本的には爆縮式  55
水爆―原爆を引き金として核融合を起こす  57
水爆を引き金にさらに核融合を  58
心理兵器となった「ダーティ・ボム」  59

第4章 核武装の「壁」は存在するのか?  61

「法律の壁」はない  61
その気になれば実験場はある  63
実験は隠せないが、隠す必要もない  64
カネもモノもネックではない  66
日本の近代につきまとう「ハートとマインド」の問題  67

第5章 核攻撃をいかに警戒し、防ぐか?  69

米国の地球的早期警戒能力  69
地対地ミサイルはどのように飛来するか?  70
OTHレーダー、硫黄島に設置計画もあったが…  72
早期警戒衛星――秘中の秘に属するハイテク  74
防空退避壕――民間防衛の基本  75
都市の「不燃化」「耐爆化」「耐核化」  76
指揮機能の防衛――疎開と多重化  79
「要撃戦闘機」の系統  82
1960年代、東京には「核の傘」がさしかけられていた  84
ナイキとペトリオット  86
共産中国との許されざる取り引き  87
MD(ミサイル防衛)のきわめて有害な詭弁  89
基本的に「猟師」よりは「鳥」が優位  90
相対速度はもはや「不確定性」の次元  93

第6章 日本の「核の3本柱」は?  96

報復手段の多重化――米露英仏の場合  96
ペイロード(搭載量)が軍に予算をもたらしてきた  97
セオリーに謂う、核の3本柱の構成とは?  99
航空機投下式の原爆――まず最初に完成させる  101
投射手段としての飛行機――F‐2戦闘機の搭載能力  104
地上発射型のSSM――SLBMの前段階として  106
SLBMを搭載する潜水艦――製造能力は十分にある  108
巡航ミサイル幻想――目下のところ「気軽な補助的オプション」  110
第7章 核兵器の「威力」はこう考える  114
大型通常爆弾イコール小型核爆弾ではない  114
核戦争計画者の統計学的な悩み  115
「軽い」戦術核につきまとう危惧  117
マイクロ・ニュークはクリーンな地下破壊兵器?  119
指導者の寝床を教えてくれるようなRMAは到来せぬ  121
サイバー攻撃でメガ・デスは起きない  124
中国の核戦力  125
中国に対する「抑止」はどう実現するか?  126
他人の頭の中は読めない  128
中国の伝統文化と近代海軍システムは相容れない  130
中国に大海軍建設の体力はない  131
侵略戦争を抑止するための宣伝を怠ってはならない  132
敵・味方・国内にも必要な抑止信頼性のPR  134
政府から有権者への説明努力  137
典型的な逃避的夢想論――威力の相場値を想像する能力の欠如  138
アメリカを母親と見たがる人たち  141
真に憤るべきは「米国の押し売り」に非ず  143
技術的省察と国益  145
日本人に特有の「無戦主義」――日本近代の悩みの深さ  146
「債務」に気がつけない「人としての稀な愚鈍さ」  148
全員説得を必要とするのは全体主義である  149
第8章 問題は外国の「世論」ではない  151
アメリカにものが言えるフランスとの違い  151
外国の「世論」ではなく、「行動」だけがファクターである  153
経済封鎖(エンバーゴ)は「ほとんど戦争」  155
ジェット機時代でも石油は切り札  160
日本の初期核武装に対する圧力――それはどこからくるのか?  162【巻末付録】核戦争関連年表  163
あとがき  223

あとがき
 核武装は、外国が日本を先に核攻撃しようと思わせないための、唯一の方法である。これを「核抑止」という。
 核抑止が相互に成立している関係を「MAD」と呼ぶ。MAD(Mutual Assured Destruction)は冷戦中に核保有国の間で実際に機能したし、冷戦後も機能してきている。つまり有効性について誰も疑義を差し挟めないのである。
 即興的なマス・ディストラクション(大量破壊)の抑止は、その相手に「同害」を警告する以外の方法では、残念ながら不可能だ。民間人もいわば人質にとるわけだから、マザー・テレサのようにノーベル平和賞は貰えないだろう。が、それが自国民を確実に救う道である。
 かつて米国の御用学者が、SDI(戦略防衛構想、別名「スターウォーズ」計画)は、パニッシュメント(懲罰)による抑止から、拒否(denial)による抑止への進化なのだ――と、ぬけぬけと説明してみせたものだが、この種の詭弁は、言語を操作しているご本人には詭弁であることがよく分かっているはずだから、知識人としてかなり「反知」的な態度だと言わざるを得ない。
 抑止は同害の即時報復能力が確実に担保する。これまたMADの通念である。
 インドは、中共とパキスタンに対抗して、兵器としての核爆弾を持った。核実験だけでは抑止力になり得ないからである。鞘の内には、竹光ではなく、切れる刃が収まっていることを証明していなければならないのだ。
 抑止は、核兵器を使わせないようにする戦略である。自分の国が狭いか広いか、人口が多いか少ないかを気にするのは、核兵器を最初に使おうしている国だけである。
 イスラエル、イギリスは、日本より狭いが、大車輪で原爆を完成した。国土が狭く、人口密度が高く、外国からの核攻撃に対して脆弱であると感ずるならば、ますます核抑止力を整えて、外国が夢にも日本に核爆弾を指向しようとは考えないように仕向けることが、肝要であろう。
 外国政府の口約束で与えられた「核の傘」は、次の瞬間にはもうたたまれているかもしれない。あるいは最初から破れ傘なのかもしれない。中国の圧力で東京から1972年前後に核の傘が取り去られた次第については、本書の第5章をご覧いただくと分かるだろう。
 本書のタイトルが「再論」となっているのは、筆者は1996年に『SAPIO』や『諸君!』で「こうすれば日本の核抑止は現実的になる」という話を一通りしているからに他ならない。この一連の記事は、加筆修正をした上で、翌年に『ヤーボー丼』という単行本にも再録した。(同タイトルは現在は書籍としては絶版だが、その代わりに『武道通信』のデジタル・ブックとして有料ダウンロードができる。)
 けれども当時、この論文および書籍についての国内での批評はいっさい聞かなかったように記憶する。
 それならば、人々は無関心であったのかといえば、そうでもなさそうだった。WASHINGTON TIMES という保守系新聞の97年3月23日号に、Willis Witter 記者による筆者の紹介記事が載っている。そのなかで評論家の加瀬英明氏が、この兵頭のような核武装論者は日本国内ではいかに孤立しているかについて記者の問いにちゃんと答えている。つまり日本国内でのみ、左右の誰も敢えてこの論議には加わろうとしなかったという「時代の制約」があったのだ。
 それから7年経つ。この間に「時代の制約」はとれたと言えるだろうか。
 確かに、自民党官房副長官(当時)の安倍晋三氏が早稲田大学の大隈講堂で、核武装を否定せぬ旨の発言をしても、何のスキャンダルにもならなくなった。しかし安倍氏は、政府の長でも、与党の総裁でもない。日本の総理大臣が過去の政府見解を見直す必要があると国民に訴えているわけではないのだ。
 前後して雑誌の『諸君!』(2003年8月号)も核武装論特集を初めて組んだのは特筆される。されどもこの特集は、却って日本の識者のこの問題についての基礎知識がいかに杜撰かを露呈してしまった。誰もが核武装の歴史を参照せず、自分の思いつきで語っているだけなのだ。
 この『諸君!』特集時点までの筆者を含めた日本の核武装言論の流れは、月刊『正論』(2003年9月号)誌上で、評論家の遠藤浩一氏が、手短か且つ正確にまとめておられるから、問題に興味のある方はこれを参照されると良い。
 本来、本書で筆者が述べているようなことは、世界の核武装諸国の指導層にとっては、常識レベルのことばかりである。筆者も、ここが日本でなければ、その先の論戦をしたいと思う。ところが日本では、その前の須知のデータベースが無いのだ。論議の土台が欠けている。とすれば、それを整備するところから地道に苦労しなければならないというのが、日本の核武装論の只今の「時代の制約」だと諦める他はないだろう。
 この本の原稿を書いているさなかに、数年来、作文用に使ってきたデスクトップ・パソコンと、前年末から送稿通信用に使っていた中古のラップトップが相次いで壊れてしまった。その直前には、10年以上使い続けた「2槽式洗濯機」も駄目になり、「全自動洗濯機」を購入していたから、それに続いての2台のパソコン調達のための出費は痛かったのである。
 が、さすがは「XP搭載マシン」(ただし1台はまたしても中古)というべしだ。その後の仕事環境は劇的に改善された。
 まず、今まで見辛かった「重い」ウェブサイトが見やすくなった。世の中にはこんなに「只で情報を提供する」人がいるのかと思うと、すでに拡大している「デジタル・デバイド」がそら恐ろしく感じられると同時に、この無料公開情報と同じことを同じレベルで書いていたら、著述家には誰も用は無いのだと改めて達悟できた。
 近代の庶民は誰もが専門家であり、それ故に一番大事なことは必ず見落とされる。人々が注視をせざる一等大切な問題に人々の注意を喚起するために、評論家は自分の時間を役立てるべきだろう。なぜなら、おそらく数編の短文を書いただけでは、専門家になってしまった大衆の専門外問題への興味を惹き得る可能性は、僅かだからである。
 本書は今の日本に急いで必要だと思って2003年の夏に仕上げるつもりで作業を開始したものだが、もしも日本に並木書房という出版社がなければ、多くの人の目に触れるような企画にもできなかったであろう。リリースが遅れたのは、まったく地方暮らしで気が緩んでいる筆者のせいである。
 本書にもまた間違いがあるだろう。もっと充実すべき基礎データもたくさんあるだろう。逐次の補正を期したい。

兵頭 二十八(ひょうどう・にそはち)
1960年生まれ。東京工業大学・理工学研究科・社会工学専攻・博士前期課程修了。雑誌編集部などを経て、現在は「軍学者」。主著に『日本の防衛力再考』(『武道通信』デジタルブックシリーズ)、『軍学考』(中央公論新社)、『ニュースではわからない戦争の論理』(PHP研究所)、『学校で教えない現代戦争学』『戦争の正しい始め方、終わり方(共著)』(並木書房)などがある。