立ち読み   戻る  

一九四一年から一九四五年にかけて戦った合衆国陸軍パラシュート歩兵部隊の隊員たちに本書を捧げる。彼らにとって、パープル・ハート(名誉戦傷章)は、勲章ではなく、従軍の証(あかし)であった。「今日から世界が終わる日まで、

再刊に寄せて

 二〇〇〇年六月、トム・ハンクスとスティーヴン・スピルバーグが、国立Dデイ博物館の開館式に出席するために、ニューオーリンズにやってきた。二人は、来館者、博物館の役員たち、報道関係者など、多くの人々の注目を集めた。開館式に併せて催された多くのイベントには、第二次世界大戦に参戦した元軍人たちが何千人も出席していたが、そのほとんどが、延長三・二キロに及んだ大パレードに参加した。彼らは、陸軍のトラックに乗り、沿道に並んだ何千人もの人々に手を振った。
 沿道の人々の中には、「ありがとう」とだけ書かれた看板を掲げている人が数多くいた。また、V‐Eデイ〔訳者注(以下略):Victory in Europe Day:対独戦勝日〕やV‐Jデイ〔Victory over Japan Day:対日戦勝日〕の新聞の第一面のコピーを掲げている人もいた。とにかく、これは、ニューオーリンズでは空前の軍事パレードだった。軍楽隊、現役の部隊、リエンアクター〔昔の戦闘を当時の軍装で再現する歴史愛好家〕たち、そして第二次世界大戦以来の数々の戦役に参戦した元軍人たち……。
 レンジャー部隊が通過したとき、ハンクスは、見学席から飛び出し、元隊員たちと握手して、彼らのサインを求めた。そして、いっしょに写真を撮ってもらってもいいかと尋ねたのだった。スピルバーグもまったく同じに、サインを求め、記念写真をねだった。大スターたちが、ここではファンになったのだ。

 そのあと、ハンクスとスピルバーグは、この本をベースとした、HBO〔Home Box Office:米国の大手ケーブルテレビ・ネットワーク〕のテレビ・ミニシリーズの制作を開始した。わたしが感銘を受けたのは、とにかく正確に描こうとする二人の姿勢だった。
 彼らは、各巻の台本を、わたしに送ってきた。もちろん、わたしは脚本家ではない。本の書き方は知っているが、テレビシリーズや映画の作り方となると何も知らないのだ。それでも、彼らは、わたしの意見や提案によく耳を傾けてくれた。彼らはまた、シリーズで描かれる登場人物の本人たちにも台本を送った。そして、E中隊の元隊員たちにインタビューして、新しい情報も入手した。これだけのことをした上で、今度は、俳優たちが、自分が演じる元隊員たちに電話し、質問を投げかけ始めた。「あのとき、どんな気がしましたか?」「それから、何が起こったんですか?」「そのとき、笑顔が浮かびましたか?」「喜びでいっぱいでしたか?」「憂鬱になりましたか?」……質問はいつ果てるともなく続いた。ハンクスにいたっては、ディック・ウィンターズを説得して、英国での撮影に立ち会ってもらったほどだった。

 なぜ、わたしが、E中隊についての本を書くに至ったか。その経緯については、すでに、この本の謝辞で説明した。では、ハンクスとスピルバーグがシリーズ化を決定するに至った経緯はどうだろうか。もちろん、二人とも、この本を読み、シリーズ化を決めたのだが、最終的に決定するまでには、いろいろと考えたようだ。何しろ、世間には、第二次世界大戦に関する本が、何百冊、いや、何千冊も出回っているのだ。

 彼らが、『バンド・オブ・ブラザース』を選んだのには、物語の舞台が、北西ヨーロッパ戦線全体をカバーしているということがあったが、それ以上に、一つの素晴らしい中隊と、その中隊の隊員たちの人柄、そして行動に焦点が合わせられていることに魅力を感じたのだった。彼ら一人一人の目を通して歴史に触れられるということ――これこそ、わたしはもちろん、多くの読者たちがこの物語に惹きつけられた最大の理由なのだ。
 戦争は巨大な事件である。そこには、あまりにも多くの人々や、優れた将軍たち(中にはそうでない者もいるが)や、政治家たちが登場する。ドワイト・アイゼンハワーと最高司令部の人々、フランクリン・ルーズベルトと彼の軍事スタッフたち、あるいは戦争の戦略などについて、すべて読んでいたら疲れ切ってしまうだろう。それよりも、人々が求めるのは、一人一人の兵士、水兵、そして航空兵たちの経験である。「彼らは何をしたのか?」「どうやってそれをやってのけたのか?」――こうした根源的な質問に対する答えが知りたいのだ。人は、本を読むとき、まず、楽しみ、そして、何かを学びたいと思っている。しかし、最も求めているのは、生きて行くための力を得ることだろう。

 多くの人たちと同じように、ハンクスとスピルバーグも、第二次世界大戦の歴史に強い関心を持っている。二人とも、あの戦争で戦った人たちが、われわれのためにどれだけ犠牲を払ってくれたかをよく知っている。そして、戦った人たちを称えるために、多忙な中から、多大な努力を注ぎ込んだ。彼らの姿勢は立派である。

 わたしには、二人の気持ちがよくわかる。だから、一つ一つの物語を通じて、E中隊の男たちの経験を映像化する仕事に参加できたことを、嬉しく思っている。

                             スティーヴン・アンブローズ


目  次

 再刊に寄せて
1「翼が欲しかった」  13
2「立ち上がれ! フックをかけろ!」  40
3 下士官たちの反乱  62
4「さあ行くぞ! 覚悟しろヒトラー!」  87
5「俺に続け!」  111
6「出ろ! 出るんだ!」  142
7 休養、そしてたび重なる作戦の中止  174
8 地獄のハイウェイ  200
9「島」での戦い  231
10 アルデンヌへ  274
11「バストーニュ砦の不屈の男たち」  296
12 限 界 点  323
13 揺るぎなき結束  354
14 斥 候 隊  370
15「最高の気分」  396
16 敵を知る  412
17 ヒトラーのシャンパン  439
18 兵士の夢の生活  457
19 それからの人生  487
 謝辞および出典  513
 訳者あとがき  520
 著者略歴  526


謝辞および出典

 一九八八年秋、第一〇一空挺師団第五〇六パラシュート歩兵連隊E中隊の元隊員たちが、ニューオーリンズで同窓会を開いた。わたしは、ニューオーリンズ大学アイゼンハワー・センターの副館長で、わたしの助手を務めているロン・ドレズとともに、彼らが滞在しているホテルに行った。アイゼンハワー・センターでは、Dデイ・プロジェクトの一環として、Dデイに参加した元軍人たちの証言を録音する作業を続けていた。そこで、E中隊の男たちに対して、グループ・インタビューを行ない、彼らのDデイ体験を収録しようと思ったのだ。このインタビューは、非常に質の高いものになった。ユタ・ビーチ近くのドイツ軍の砲塁に対する、果敢な攻撃の話が聞けたからである。
 生え抜きの中隊員で、のちに中隊長となり、最後には第二大隊長となったリチャード・ウィンターズ少佐に、インタビューの記録を見せたところ、彼は、いくつか不正確な個所があるし、誇張も見られると言い、不快を露わにした。そして、正確に記録する必要があると言った。
 一九九〇年二月、ウィンターズ、フォレスト・ガス、そしてカーウッド・リプトンが、ウォルター・ゴードンに会うために、ミシシッピー州のパス・クリスチャンを訪れた。わたしは、パス・クリスチャンから、湾を隔てた対岸のベイ・セントルイスに住んでいた。つまり、ゴードンはわたしの隣人だった。彼はわたしに電話してきて、E中隊について、フォローアップのインタビューをできないかと打診した。わたしは、もちろんやりたいと答え、彼らを家に招いて、ミーティングをし、夕食をともにすることにした。われわれは、午後いっぱいを、わたしのオフィスですごした。机の上に地図を広げ、テープレコーダーを回しながら。その後、わたしの妻のモイラが腕によりをかけたローストビーフのご馳走を楽しみながら、彼らは、Dデイのノルマンディー以後の経験を語った。オランダ、ベルギー、ドイツ、そしてオーストリア……。
 彼らは、みな、わたしの著作、『ペガサス・ブリッジ』を読んでいた。アイゼンハワー・センターでは、インタビューに協力してくれた元軍人たち全員に、この本を渡していたからである。そのうち、ウィンターズが、E中隊の歴史は、本のよいテーマになるのではないかと言った。
 そのころ、わたしは、三巻からなるリチャード・ニクソンの伝記の最後の巻を書いているところだったが、ウィンターズの提案は、いろいろな意味で魅力的に思えた。わたしは、ニクソンの伝記を書き終えたら、軍事史に戻りたいと考えていた。とくに、Dデイの本を書きたかったが、一九九二年まで、作業を始めるつもりはなかった。Dデイの五十周年記念日の、一九九四年六月六日に出版したかったからである。しかし、このままでは何も書かない空白の時期ができる。このときのわたしは、文筆家として、毎日何か書いていないと満足できない時期にあった。そして、Dデイに関連する第二次世界大戦のテーマで、比較的短い本に適切なものを探していたのである。
 E中隊の歴史は、このわたしの目的に完全に適合するものだった。幸い『ペガサス・ブリッジ』を書くために行なったリサーチのおかげで、Dデイのとき、左翼を受け持っていた、英第六空挺師団の物語はよく知っていた。だから、反対側の右翼を受け持った、第一〇一空挺師団の中の一つの中隊の話を知るというのは、非常に魅力的なことだった。
 しかし、E中隊の物語には、もっと魅力を感じさせる要因があった。わたしは、四半世紀にわたって、数多くの元軍人たちにインタビューしてきた。しかし、夕食のテーブルの向こう側に坐っている、四人の元軍人たちのあいだには、いままで見たことのない、特別に緊密な雰囲気があった。彼らの話が、中隊のほかの男たちのことや、何十年にもわたって続けてきた同窓会のことに広がって行くのを聞いているうちに、彼らが、今も、固い絆で結ばれた兄弟の一団であることが、はっきりと見えてきたのである。
 彼らは、全米と海外に散らばっているのに、おたがいの妻、子供たち、孫、そして抱えている問題や成功の話を実によく知っていた。頻繁に訪問し合い、手紙や電話で常に緊密な交流を続けていた。そして、緊急なときや、トラブルが起こったときには、たがいに助け合っていた。これだけ緊密な関係を維持している彼らに、唯一共通していることといえば、アメリカ陸軍によって偶然にかき集められ、第二次世界大戦の三年間をともにしたということ、ただそれだけだった。
 それなのに、なぜ、これほどの緊密さが生まれたのか。わたしは、たちまちこの謎の虜になった。それは、世界の歴史を通じて、あらゆる軍隊が生み出そうとしながら、生み出せずにいるものだった。それが、E中隊では実現していた。わたしにとって、この謎を解く唯一の方法は、リサーチをして、中隊の歴史を書くことだった。

 一九九〇年五月、ドレズが、フロリダ州オーランドで開かれた中隊の同窓会に出席し、八時間にわたるグループ・インタビューをビデオに収録した。同じ月に、わたしは、自分のオフィスで、三日間にわたってゴードンにインタビューした。七月には、ペンシルヴァニアのウィンターズの農場に行き、四日間にわたってインタビューした。最後の四日目に、東海岸に住む六名の元中隊員たちが、車で農場にやってきて、グループ・インタビューに応じた。一九九〇年の終わりに、わたしは、サザーン・パインズのカーウッド・リプトンの家を訪れ、週末をそこですごした。ビル・ガルニアもこれに加わった。そのあと、オレゴンに飛んで、つぎの週末を、ドン・マラーキーと、西海岸在住の元隊員たちとともにすごした。
 このほか、十二名の元中隊員たちに電話でインタビューし、存命の元隊員たちのほとんどすべてと、何度も手紙のやりとりをした。そのうちの十名は、わたしのたっての要請にこたえて、戦時中の回想録を書いてくれた。短いもので十ページ、長いものは二百ページにもおよぶ回想録がわたしのもとに送られた。また、戦時中に書かれた手紙のコピーや、日記や、新聞の切り抜きも送られてきた。
 一九九〇年十一月、モイラとわたしは、ノルマンディーとベルギーに行き、E中隊が戦った戦場を訪れた。そして、フランスでは、中隊が戦った当時、その地域に住んでいたフランス人たちにインタビューした。一九九一年七月、今度は、ウィンターズ、リプトン、そしてマラーキーと一緒に、ヨーロッパ各国をまわり、E中隊が戦った場所を歴訪した。また、彼ら三人と、モイラと、わたしは、ミュンヘンにある、フリードリヒ・フォン・ハイト男爵の家をたずね、午後のひとときを語り合った。
 デイビッド・ウェブスター二等兵の未亡人、バーバラ・エンブリー夫人は、彼が両親に宛て出した手紙と、彼が書き残した、一冊の本に相当する第二次大戦の回想録のコピーを提供してくれた。ウェブスターは、鋭い観察眼と素晴らしい文章力の持ち主だった。本書に対する彼の貢献は計り知れない。
 ジェームズ・モートン少尉が文章を書き、一九四五年に出版された第五〇六パラシュート歩兵連隊の公式スクラップブックである、『クラヒー!』も、計り知れないほど重要な資料だった。ドン・マラーキーがわたしに一冊寄贈してくれたが、これは極めて寛大なことである。これは、極めて稀な本だからだ。レナード・ラッポートとアーサー・ノースウッドが書いた、『ランデヴー・ウィズ・デスティニー、第一〇一空挺師団史』は、戦況の全体像、数々の事実、数字、詳細、そして当時の雰囲気をよく伝えてくれた。また、ほかにも、いくつかの出典があるが、これらはすべて本文注釈に明記した。

『ペガサス・ブリッジ』を書いたとき、わたしは、オックスフォードシャーおよびバッキンガムシャー軽歩兵師団D中隊の中隊長だった、ジョン・ハワード少佐を含めて、インタビューした英軍グライダー部隊の三十名の兵士のいずれにも、完成した原稿を見せなかった。締め切りが迫っており、全員に原稿を見せるのに何カ月も費やす余裕がなかったからである。また、元軍人たちの話は、小さな点ではしょっちゅう食い違っていたし、大きな点で矛盾があるときもあったのだ。したがって、わたしが書いたものを、完全に正確な記述として受け入れる者は一人もいなかっただろう。もし、彼らに原稿を見せたら、記述された出来事の時期、内容、またはその発生の理由について、際限なく口論が続くのではないか。それがわたしの危惧だった。
 何が真実だったか。記憶違いがあるとすれば、それはどれか。年老いた元兵士が語る戦時体験において、何らかの誇張があるとすれば、それは何についてか。謙遜が強いあまり、兵士が語ろうとしない英雄的行為にはどのようなものがあったか。……これらのことについて、可能な限りベストの判断を下すのは、わたしの仕事だと思った。
 端的に言えば、物語は彼らのものだが、本はわたしのものだと感じたのである。
 果せるかな、ジョン・ハワードは、変更や修正を提案する機会が与えられなかったことを不満に思った。『ペガサス・ブリッジ』が出版されてから、彼はずっとわたしの過ちを主張し続けた。わたしも今は、彼が正しかったと考えている。もし、あのとき、彼や、ほかの人々に、修正、批判、あるいは提案の機会を与えていれば、『ペガサス・ブリッジ』は、もっと正確で、もっと良い本になっていただろう。
 だから、わたしは、この本の原稿を、E中隊の男たちに配った。彼らは、たくさんの批判、修正要求、そして提案を送り返してきた。とくにウィンターズとリプトンは、文字通り一行一行をチェックした。したがって、この本は、集団によって書かれたというべきものである。われわれは、これが、中隊の完全な歴史であるなどと言うつもりはない。記憶とは、本来曖昧さを含むものであるし、戦死した者や、この本が書かれる前に死亡した男たちの証言も欠落している。しかし、われわれは、終始内容をチェックし、さらにチェックし直した。何度も電話で話し、手紙をやり取りし、戦地を訪問した。われわれは、これらの努力を通して、E中隊の真実の物語に、可能な限り近づけたのではないかと感じている。

 これは、わたしにとって、実に思い出深い経験だった。第二次世界大戦が終わったとき、わたしは十歳だった。同年輩の多くのアメリカ人と同じように、わたしはいつも、GIたちを賞賛してきた。――否、賞賛ではなく、畏敬の念を抱いてきた。彼らがしたことは、賞賛の域を超えるものだと思った。今もそう思っている。
 スクリーミング・イーグルズは、史上もっとも有名な師団の一つである。その隊員の何名かを、これほどまで深く知ることができたのは、わたしにとってこの上なく光栄なことだった。だから、彼らが、わたしを名誉隊員にしてくれたことを、わたしは誇りをもって自慢する次第である。わたしは、英軍のオックスとバックスのD中隊の名誉隊員でもあるので、これで両翼がカバーされた。まさに、喜びが溢れる思いである。

スティーヴン・E・アンブローズ
アイゼンハワー・プラッツ、ベイ・セントルイス
一九九〇年十月―一九九一年五月
ザ・キャビン、ウィスコンシン州ダンバー
一九九一年五月―九月

訳者あとがき

 本書『バンド・オブ・ブラザース――第一〇一空挺師団第五〇六パラシュート歩兵連隊E中隊 ノルマンディーからヒトラーのイーグルズ・ネストまで』は、一九九一年に初版が出版され、すぐに全米ベストセラーとなった作品である。以後も版を重ねており、今でも、書店の店頭に常時ストックされている。
 一九九九年の暮れ、俳優のトム・ハンクスと、映画監督のスティーヴン・スピルバーグが、『バンド・オブ・ブラザース』を映画化する意向を表明した。ただし、劇場公開作品ではなく、ケーブルテレビ・ネットワークで放映する、十話構成のシリーズとして制作するというものだった。物語のスケールを考えると、二時間ないし三時間の劇場映画では正しく描ききれないと考えたからだった。
 ハンクスとスピルバーグといえば、今日のアメリカの映画産業を代表する最高の実力者である。この二人が力を合わせて、一億二千万ドルの巨費を投じて、十話からなるシリーズを作るというのだ。それも、ノルマンディー上陸作戦をテーマとした劇場公開映画の大作『プライベート・ライアン』で、映像の力を最大限に引き出し、戦争の現実の再現に新しい可能性を開いた直後だっただけに、アメリカの人々の関心は極めて高かった。
 しかし、『プライベート・ライアン』のときもそうだったが、今回のシリーズでも、制作に関する情報が一般に公開されることはほとんどなかった。また、撮影が英国を中心とするヨーロッパで行なわれたため、アメリカ国内は、シリーズの完成を静かに待つかたちになった。そして、二〇〇一年の秋、完成されたミニ・シリーズ、『バンド・オブ・ブラザース』は、アメリカの大手ケーブルテレビ・ネットワークのHBOで放映され、全米で大きな反響を呼んだ。このことは、ご存知の方も多いだろう。
 シリーズの公開に合わせて、本の方も、再び大増刷され、全米の書店の店頭に積み上げられて、さらに多くの新しい読者を獲得した。そして、新しい読者のあいだでも、読んで面白いだけでなく、心に残る力を持ったヒューマン・ドキュメントとして、改めてその価値が再認識されている。今後も、この本は、第二次世界大戦を、前線の兵士の目から描いた名作として、長く読み継がれてゆくことだろう。

 著者のスティーヴン・アンブローズ博士の経歴と作品は、本書の著者紹介に詳しく記載されているので、それをお読みいただきたいが、とくに第二次世界大戦を扱ったノンフィクションの分野では、全米で知らない人はいないほどであり、中でも、『シティズン・ソルジャーズ』は、第二次世界大戦の欧州戦線の真実を描いた決定的な作品と評価されている。アンブローズ氏はまた、歴史家の立場から、日に日に風化してゆく第二次世界大戦の記憶を、アメリカ国民に伝える活動を広範に続けている。その一つが、ルイジアナ州のニューオーリンズに二〇〇〇年開設された、国立Dデイ博物館のプロジェクトだ。
 この博物館は、第二次世界大戦に関する博物館としては、全米最大であるだけでなく、その活動もユニークなものだ。第二次世界大戦に参戦した、元軍人たちの証言を録音、あるいは録画して、それを永久に保存して、今後何世紀にもわたって、後世の人々が、あの戦争の実態を、それを経験した当事者たちから、直接聞くことができるようにしようというのである。

『バンド・オブ・ブラザース』は、副題が示すとおり、米国陸軍のパラシュート歩兵連隊の中のひとつの中隊の兵士たちの足跡を、初陣のノルマンディー降下作戦に始まり、オランダ、ベルギー、そしてドイツへと追った物語である。第二次世界大戦における欧州西部戦線の戦いに関心を持つ者にとって、彼らが参加した、Dデイ、マーケット・ガーデン、そしてバルジの各作戦は、いずれも決定的に重要、かつ劇的なものであり、その実態を詳細に描く本書の記述は、読んでいて大きな興奮を引き起こす。また、ベルヒテスガーデンに築かれたヒトラーの山荘、「イーグルズ・ネスト」(「鷲の巣」)の攻略のエピソードでは、精強をもって世界に恐れられたドイツ軍の崩壊の模様が、壮麗なオーストリア・アルプスの景観を背景として、生き生きと描かれており、歴史を追体験することの強烈な力を感じさせる。しかし、本書の特徴は、これらの一連のエピソードが伝える「史実」の力だけに留まらない。最大の特徴は、すべてのエピソードが、実際にそれを体験した兵士たちの言葉によって語られていることである。
 実際、訳者が本書にひかれた理由は、実戦経験者の言葉に直接に触れられるということだった。読者の皆さんも感じられるだろうが、「 」の中にこめられた、兵士たち一人一人の言葉には、彼らの人柄が鮮やかに現れている。そして、そこにあるのは、国境や文化、あるいは、戦勝国や敗戦国といった枠を超えた、人間の自然な感情や想念だけだ。このため、われわれは、戦争という不条理と、その不条理に放り込まれた普通の若者たちの気持ちを、素直に共有することができるのだ。われわれが歴史に興味を持つのは、そこに、われわれ自身の人生の糧となる真実がいっぱいにこめられているからだろう。そして、その歴史の真実に触れる手段として、それを実際に体験した人たちの言葉に耳を傾ける以上のものはないだろう。それを、本書は見事に達成している。

 訳者が本書の翻訳を思い立ったのは、三年ほど前のことだった。八年前に初めて本書を読んで以来、その内容の素晴らしさを友人たちと語り合おうとしたが、英語で書かれているため、自ずと限界があった。いずれ翻訳が出るだろうと思い、それが出たら語り合えると思ったが、いくら待っても、どの出版社からも出なかった。そして、「誰も翻訳しないのなら、自分がやろう」と決心した。
 あるとき、思いがけないきっかけがあって、ボストン在住のジョン・「ジェイク」・パワーズという青年と知り合った。彼は、第二次世界大戦の空挺隊のファンで、いわゆる、「リエンアクター」でもある。当時のユニフォームや装具を揃え、自らパラシュート降下を何度も体験しているほど熱心だった。そして、ウィンターズ少佐を始めとして、本書に登場するE中隊の元隊員たちと親交を持っていた。彼は、わたしが、本書を読んで感銘を受け、翻訳を試みているということを知ると、「君を元隊員たちに紹介しよう」と申し出てくれた。さらに、原作者のアンブローズ博士にも引き会わせてくれた。これらの経緯があって、ついに、本書の翻訳を担当することになったのである。現在、わたしは、アンブローズ博士と、博士の助手を務める、ご子息のヒュー・アンブローズ氏とともに、近い将来出版される本のリサーチに携わっているが、すべては、一人の読者として、『バンド・オブ・ブラザース』を読んで受けた感銘から始まったのだ。
 アンブローズ博士は、謝辞の中で、「この本は、集団によって書かれたというべきもの」だと語っている。訳者も、博士にならって、二人の友人とともに本書の翻訳を行なった。佐藤泰正氏と猿渡青児氏である。両氏は、この新米翻訳者の原稿のすべてに目を通し、逐次適切な助言を提供してくれた。両氏の支援がなければ、この日本語版は、原書が持つ力を伝えることはできなかっただろう。したがって、博士の表現を借りて言うと、この日本語版は、「われわれ三人で作ったもの」である。
 しかし、われわれ三人がいくらがんばっても、出来上がったものを出版してくれる人がいなければ、すべては無意味だった。だから、新米翻訳者の仕事を、寛容な目で受け入れ、出版を実現してくれた、並木書房出版部には、いくら感謝しても足りない。また、E中隊の元隊員たちと、著者のアンブローズ氏に訳者を引き会わせてくれたジョン・パワーズ氏にも、心から感謝している。
 最後に、もっとも重要な人たちに感謝したい。まず、原作者、スティーヴン・アンブローズ博士と、ご子息のヒュー・アンブローズ氏である。両氏は、見ず知らずの一読者からの声に耳を傾け、この本を日本の読者と分かち合うために是非翻訳したいという熱意を理解して、日本語版出版の実現に全面的に協力してくれた。それだけでなく、彼らの仕事のパートナーとして、つぎの新しいプロジェクトに取り組む機会まで与えてくれたのである。
 つぎに、本書の主人公である、E中隊の元隊員たちに感謝したい。実際、訳者にとって、彼らに出会えたことが、本書を翻訳して得た、最大の喜びだった。訳者の手元には、本書『バンド・オブ・ブラザース』のハードカバーの初版本がある。この本には、ウィンターズ少佐を始めとする、E中隊の元隊員たちが署名してくれている。その中で、ウィンターズ少佐だけが、つぎの言葉を書き添えてくれている。「ジュンイチ、オールウェイズ・スタンド・ストレイト」(「淳一、いつも誠実に、胸を張って生きたまえ」)この言葉は、国境や文化の壁を越えた、人間の生き方そのものを示しているように思える。「 」の中の名前は、「ジュンイチ」である必要はない。誰でもよいのだ。少佐の署名と、彼の言葉を取り囲むように、本書に登場する元隊員たちの署名が、ページ一杯に記されているが、彼らの想いも同じではないだろうか。本書の中で、マイク・ラニーが、孫に、「おじいちゃんは、戦争の英雄だったの?」と聞かれ、「いいや。でもね、英雄の仲間たちといっしょに戦ったよ」と答えたエピソードが記されている。
 彼は、「E中隊での日々を思うとき、いつもこのときの自分の答えを思い出し、本当にそのとおりだったと思う」と結んでいるが、E中隊の男たちの足跡を追った本書を訳し終えて思うのは、洋の東西、また、戦勝国・敗戦国を問わず、誠実に、胸を張って生きる者は、すべて英雄なのではないかということである。だとしたら、現代に生きるわれわれにも、英雄になるチャンスがあるかもしれない。兵士の制服を着て、戦場に赴いた、かつての「普通の」若者たちのように。
上ノ畑淳一

著者経歴

 著者、スティーヴン・アンブローズ氏は、一九三六年、ウィスコンシン州ホワイトウォーターで生まれた。彼の父はこの町の開業医だった。当初、父の医院を受け継ぐため、ウィスコンシン大学の医学進学課程に進んだが、一人の優れた教授と出会い、その啓発を受けて、歴史学専攻に転じるとともに、本の著作と学生の教育を一生の仕事とすることに決めた。その後、ルイジアナ州立大学で修士号を取得し、再びウィスコンシン大学に戻って博士号を取得した。
 氏の最初の著作は、ルイジアナ州立大学での修士号論文をもとにしたもので、南北戦争の北軍の将軍、ヘンリー・ハレックの伝記だった。二番目の著作は、ウィスコンシン大学での博士号論文をもとにしたもので、やはり南北戦争の将軍、エモリー・アプトンの伝記だった。一九六〇年、アンブローズ氏は、ニューオーリンズ大学で教鞭をとり始める一方、ウェストポイント(米国陸軍士官学校)の歴史を描いた、『義務、名誉、国家』(Duty, Honor, Country)の著作に取りかかった。氏が二十八歳のとき、ハレックの伝記を読んだアイゼンハワー大統領が、伝記の執筆を依頼してきた。
 大統領の依頼を受け入れ、彼の第二次世界大戦における軍歴を調べてゆくうちに、アンブローズの関心は、南北戦争から、第二次世界大戦に移っていった。さらに、戦後の大統領の政界における活動を調べてゆくうちに、政治史に関する著作にも携わるようになった。
 以来、氏は、二十冊以上の本を執筆している。その中には、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・リストに載った、『Dデイ、一九四四年六月六日』(D-Day, June 6, 1944)、『シティズン・ソルジャーズ』(Citizen Soldiers)、『バンド・オブ・ブラザース』(Band of Brothers)、『不屈の勇気』(Undaunted Courage)、および『ナッシング・ライク・イット・イン・ザ・ワールド』(Nothing Like It in the World 『世界に類なし』)などが含まれている。氏は、スティーヴン・スピルバーグが監督した映画、『プライベート・ライアン』の歴史考証を担当した。また、『ヒストリー・チャンネル』や『ナショナル・ジオグラフィック』の数多くのテレビ・プログラムの制作にも関わっている。さらに、HBOが制作した、『バンド・オブ・ブラザース』のミニ・シリーズの制作にも関わった。
 アンブローズ氏は、ボイド氏記念歴史学講座〔米国の大学には、特定の学問の研究をするために、篤志家からの寄付によって設立された講座がある〕の永久教授であるが、現在は、教壇を退き、著作に専念している。彼はまた、ニューオーリンズのアイゼンハワー・センターの名誉所長であり、国立Dデイ博物館の設立者でもある。さらに、『季刊軍事史ジャーナル』(Quarterly Journal of Military History)への寄稿と同誌の編集に携わる一方、いくつかの主要な歴史および文化関係の協会でも、役員または会員として活躍するなど、多忙な毎日を送っている。

BAND OF BROTHERS
E COMPANY, 506TH REGIMENT,101ST AIRBORNE
FROM NORMANDY TO HITLER'S EAGLE'S NEST
BY STEPHEN E. AMBROSE
COPYRIGHTS ○1992,2001 BY STEPHEN E. AMBROSE
JAPANESE TRANSLATION RIGHTS ARRANGED WITH
SIMON & SCHUSTER, INC. THROUGH JAPAN UNI AGENCY, INC., TOKYO

スティーヴン・アンブローズ(STEPHEN E. AMBROSE)
1936年生まれ。1960年ニューオーリンズ大学で教鞭をとり始める。28歳のとき、アイゼンハワー大統領から伝記の執筆を依頼される。その後、ニクソン大統領の伝記も手がける。これまでに20冊以上の本を執筆。その中には、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・リストに載った『Dデイ、1944年6月6日』『シティズン・ソルジャーズ』などが含まれる。またスティーヴン・スピルバーグが監督した映画『プライベート・ライアン』の歴史考証も担当。『ナショナル・ジオグラフィック』など数多くのテレビ・プログラムの制作にも参加。ボイド氏記念歴史学講座の永久教授。2000年6月開館した国立Dデイ博物館の館長でもある。2002年10月14日66歳で死去
上ノ畑淳一(うえのはた・じゅんいち)
東京出身。慶応義塾大学卒業後、1979年に渡米し、コンピュータ関連の翻訳および
通訳を経て、現在、建築およびコンピュータ技術関連のコンサルタントとして活動。
少年のころから、第二世界大戦をはじめとする世界史に関心を持っており、『バンド・
オブ・ブラザーズ』の原著および原作者に出会ったことを契機として翻訳を思い立った。
カリフォルニア州サンフランシスコ市在住。