目 次
読者の皆さまへ
はじめに 6
空戦の「極意」を身につけた者だけが生き残る 6
最悪でも引き分けに持ち込むべし 10
格闘戦は窮地に陥った時の脱出法と考えよ 14
落とす瞬間に次の敵機の動きを予測する 20
零戦はオリジナルの二一型が最高だった 25
第1章 エースパイロットの条件 28
零戦と私の稀有な運命の巡り合わせ 28
戦後になってはじめてエースと呼ばれる 31
エースの条件とは 34
パイロットとしての「誇り」 37
空戦の極意は「先手必勝」 41
死との直面 44
パイロットに必要な素質 46
第2章 生まれながらに完成した名機 51
長大なる航続力が零戦の特長 51
奇跡的な航続力が基地まで運んでくれた 53
零戦の栄光と悲劇 59
コミック 天空輪舞 (坂井三郎/原作・吉原昌宏/画) 65
第3章 零戦操縦法 89
各装置の点検と確認 89
零戦搭乗の手順 95
舵の利きをチェックする 97
燃料計とAMCフリーの確認 100
栄一二型エンジンを始動させる 103
「出発準備OK!」 106
離陸の手順 110
巡航状態で七・七ミリ機銃を試射する 112
第4章 空戦の極意 116
その1 見張り能力を高めよ! 116
その2 敵の機首前方に出てはならない! 121
その3 早撃ち、長撃ちは絶対にするな! 125
その4 射撃の極意 132
その5 射撃に有利な後ろ下方をとれ! 135
その6 射弾回避と反撃は同時にするな! 139
帰還してはじめて一人前のパイロット 147
戦果の確認 151
「戦闘機パイロットに天才はいない」 153
第5章 零戦とライバル機たち 155
零戦の性能を追いこした米戦闘機 155
零戦後継機の「紫電改」 162
「誉」エンジンの不調 166
大空の恚{本武蔵揩フ死 171
「紫電改」とその搭乗員たち 175
制空戦闘機と迎撃戦闘機 176
私の選んだベスト戦闘機 183
終章 坂井三郎に学ぶ「必勝の心得」 189
「父・坂井三郎の思い出」(坂井スマート道子) 208
編著者あとがき 218
はじめに(一部)
大空のサムライ、坂井三郎……。
伝説の撃墜王に会って直に話を聞きたい。
そして空戦の真髄に触れてみたい。
この念願の企画がついに実現した。
読者は心して生の声に耳を傾けて欲しい。
まずはサムライ、坂井三郎の空戦記録を紹介し、
インタビューに突入する。いざ――。
空戦の「極意」を身につけた者だけが生き残る
戦後、半世紀以上たった今、本当の戦いがどのようなものであったかを語れる人間は数少なくなってきた。
戦場ではさまざまな戦いが繰り広げられた。戦艦どうしの海戦、戦車や兵士が登場する陸戦、そして戦闘機どうしの戦い――言わば空戦である。なかでも大空の戦いである空戦がどんなものであったかは、我々の想像の域を越えるものがある。
果たして実際の空戦では、どのような「技」が使われたのだろう。
太平洋戦争で愛機零戦を駆って二〇〇回以上の空戦を経験し、大小六四機の敵機を撃墜した大空のエース、坂井三郎。この男こそが本当の空戦の「極意」を語れるのではないだろうか。
大正五年生まれの坂井氏は、昭和八年戦艦霧島、榛名の砲手をへて、昭和十二年に戦闘機パイロットとなった。
その空戦歴はすさまじい。
初陣の昭和十三年、中国戦線で九六式艦上戦闘機を駆り、中国空軍と戦い、ソ連製のイ‐16をはじめて撃墜。のちに運命の戦闘機、零戦と出会う。
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争勃発。台湾・高雄にある台南基地よりフィリピン・マニラにあるクラーク・フィールド基地への渡洋攻撃に参加。米陸軍カーチスP40ウォーホークを撃墜した。
その後、世界で誰も撃墜したことのない米陸軍の誇る#空の要塞$B17爆撃機をはじめて撃墜することに成功する。
さらにラバウルに進出した台南航空隊で、坂井氏は米陸軍のロッキードP38ライトニングやベルP39エアコブラなどの米第一線機と渡り合う。さらに南進したラエ基地からニューギニアのポートモレスビーに連日出撃、英空軍のハリケーン、スピットファイアなどとも一戦を交えた。当時、世界最強のラバウル航空隊の誕生である。
だが、昭和十七年八月、運命の時が訪れた。ガダルカナル島をめぐる戦いで米海軍のグラマンF4Fワイルドキャットを撃墜したものの、ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機の後部銃座の弾丸により頭部に被弾。片目失明の重傷を負う。しかし一〇四〇キロ離れたラバウル基地に奇跡の生還を成し遂げた。
内地で傷を癒したあと、坂井氏は後進の指導にあたる。しかし戦局の悪化とともに昭和十九年六月、硫黄島に進出、再び最前線へ。視力のハンディを背負いながらも米海軍グラマンF6Fヘルキャット一五機と戦って見事、生還したこともあった。
昭和二十年八月十五日終戦――。
だが、坂井氏の戦いは終わらなかった。武装解除もままならぬ二日後の十七日、横須賀航空隊上空に進入してきた新型爆撃機コンベアーB32ドミネーターと空戦。その日を最後に愛機、零戦と共に長い戦いを終えた。
まさに空戦の極意を会得した大空のサムライ、坂井三郎――。
八四歳を越えた年齢にもかかわらず、かつて大空で戦った旧敵国のエースたちとも旧交を温めている。とくに米国では著書『坂井三郎空戦記録』を基に英訳された『SAMURAI!(サムライ!)』がベストセラーになるなど、敵味方を越えて彼を賞賛する声は今も大きい。
座右の銘は#不撓不屈$(決してあきらめないこと)。
その言葉どおり生きてきた彼の語る空戦の極意とは?
男たちが命を賭けて戦った空戦。戦場では「極意」を身につけた者だけが生き残る。#大空のサムライ$と呼ばれ、ゼロ・ファイターとして連合国側から恐れられた撃墜王、坂井三郎。
現代の平和大国ニッポンにおいて、生きるか、死ぬかといった真剣勝負など存在しない。二百余りの命を賭けた空戦を経験した彼の#空戦の極意$とは、一体、どのようなものだったのだろうか?
坂井氏は、#兵法の達人$である剣豪、宮本武蔵の『五輪の書』から幾つかの戦いの方法を学んだという。
著者あとがき
坂井三郎先生とのおつき合いは、私がかつて出版社の集英社『週刊プレイボーイ』編集部に勤務し、「人生相談」を担当していた九〇年代から始まる。
先生は到底八○歳を越えたご老人とは思えないほど、エネルギッシュで活発であった。そして家族ぐるみでお付き合いいただき、仕事抜きでも、私を実の息子のようにかわいがってくださった。
いつものごとく突然、電話が鳴る。
「米第七艦隊の空母キティホークに招かれたので一緒に乗りに行こう」と坂井先生。
一九九九年一一月一二日に横須賀より出港する。空母の甲板の上で晩秋の風は冷たい。太平洋上で艦載機のF14トムキャットやF18Aホーネットが離着艦する光景を先生と見ながら、私は「零戦の操縦に限ったマニュアル本をつくれないでしょうか」と尋ねてみた。
答えはシンプルなものであった。
「いいとも。喜んでやりましょう」
と、先生はその場で快諾なされたのであった。
それから先生の多忙をきわめる日々――講演会やテレビ出演などのあいだをぬって、取材のため東京・巣鴨のご自宅に通うことになった。
取材の回数は二○○○年三月から九月初旬まで合計一○回ほどだが、インタビューも深夜に及ぶと、先生みずから怩キき焼き(海軍式)揩ネどの食事をつくって、私を励ましてくださったこともあった。
二○○○年の夏はとくに暑く、きびしいものだったが、インタビューの合間に、
「もう、そろそろラバウルの仲間たちのところに行かなくちゃな。みんなが待ってるから……」
と、サラリと言うこともあった。夏好きの先生にしては、弱気な発言であったが、いつもの先生の冗談だろうと聞き流していた。
ところが、である。
先生は突然、九月二二日午後一一時五○分、他界された。
厚木の米軍基地で西太平洋艦隊航空司令部設立五〇周年記念祝賀会夕食会に先生は招かれ、パーティが終わる頃、「ちょっと立ちくらみがする」と言って、横になられた。
そして基地で休まれたあとに、綾瀬市にある近くの病院に救急車で運ばれ、検査を受けたが、血圧が低いだけで、心電図やCT検査などの結果はごく正常であったという。
午後一〇時頃、先生は「眠ってもよいか」と尋ねられたそうである。そこで主治医は「ゆっくりお休みください」とだけ答えた。そしてその直後のMRI(磁気共鳴診断装置)による脳の検査中に容態が急変、呼吸停止にいたり、一一時五〇分、ついにそのまま帰らぬ人となってしまったのだ。
「まさに天命を全うされたとしか言いようがない」というのは、主治医の言葉である。
翌日、巣鴨のご自宅に運ばれた先生の亡きがらに接したときは、
「私を脅かそうと、冗談をやっているに違いない」(先生は実際、このようないたずらが好きであった)
と思われるほど、すやすやと休まれている感じであった。そんなわけでその日は、自分にとって先生が亡くなったという事実の実感がまるでわかなかった。
ただその夜は土砂降りの夜であった。帰宅してはじめて実感がわいてきて、自室にこもってひとりで大泣きに泣いた。
玄関に出ると大雨のなかを、季節でもないのに一匹のホタルがどこからともなく飛んできた。まるで先生の操る一機の零戦が、マニラ攻撃のあと、土砂降りの大雨のなかを台湾まで燃料ぎりぎりで飛んで戻ってきたような気がして、先生はホタルになられてしまったのか、とさらに号泣してしまった。
そして二○○○年一〇月一四日の青山斎場での「お別れ会」では、先生のご遺影に「この本を絶対、完成させます」と堅く心に誓った。
この本の出版にあたっては、目を通していただいた坂井先生の御遺族、とくに長男の襄氏、さらには本書に「父・坂井三郎の思い出」を寄せてくれた二女の道子さんの御指導、および元零戦パイロットの山中志郎氏の御協力なくしては完成しなかったもので、最大限の謝辞を述べたい。
また坂井先生の残されたラフスケッチから精緻な図版をおこして下さった野原茂氏、空戦を迫力あるコミックで再現した吉原昌宏氏には心より御礼申し上げる次第である。
そして今回、版を重ねるにあたり、新たに「終章 坂井三郎に学ぶ『必勝の心得』」として、坂井先生の名言の数々を再現することができたのは編著者として大きな喜びである。
あらためて本書を人生の師でもあった亡き坂井三郎先生に捧ぐ――。
世良光弘
世良光弘(せら・みつひろ)
1959年生まれ。予科練出身の厳格な父を持つ家庭に育てられる。中央大学卒業後、時事通信社を経てフリーランスに。86年のフィリピン革命からはじまって、天安門事件や湾岸戦争、ペルー大使公邸占拠事件、北朝鮮国境地帯などの国際報道のルポを中心に週刊誌上で発表。集英社「週刊プレイボーイ」編集部では、坂井氏の人生相談「大空に訊け!」を担当する。著作に『局地戦闘機・紫電改』、『世界のPKO部隊』(共著)など。
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