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はじめに

「警視庁公安部です。事情聴取に応じて下さい」
 その言葉を合図に、サラリーマンやOLを装っていた捜査員たちはいっせいに立ちあがり、標的を取り囲んだ。彼らの視線の先、バーの奥まった窓際のテーブルでは二人の男が緊張した顔を見合わせていた。
 東西冷戦が終結し、かつてのスパイ小説や映画が昔話のように思われた二〇〇〇年九月七日、東京都港区浜松町の雑居ビルのバーで今世紀最後ともいえるスパイ事件が発覚した。一年前から内偵をつづけていた警視庁公安部と神奈川県警の捜査員たちは、防衛庁防衛研究所所属の海上自衛隊三等海佐、萩崎繁博とロシア大使館付駐在武官ビクトル・ボガチョンコフ海軍大佐が接触した瞬間、二人に任意同行を求めたのだ。
 萩崎はボガチョンコフに手渡そうとした自衛隊の内部機密資料を抱えたまま、警視庁本部庁舎に移送される。そして八日午前四時一五分に逮捕状が執行され、彼は自衛隊法(守秘義務)違反容疑で逮捕された。
 一方、ボガチョンコフ海軍大佐は外交官免責特権を持ち出して聴取を拒否、萩崎一人を残すとロシア大使館に舞い戻った。そして悔しがる捜査員らを尻目に、事件から二日後の九日午後零時四一分、成田空港からモスクワ経由ロンドン行きのアエロフロート機で出国した。
 ボガチョンコフ海軍大佐は、GRU(ロシア軍参謀本部情報管理本部)に所属するスパイだった。GRUスパイの多くは合法的身分、すなわち外交官や駐在武官といった立場で世界各国に散らばり、敵対国の軍事情報を入手していく。軍事スパイ活動を専門とし、その実力は東側諸国機関のあいだでは右に出るものはない。
 日本におけるロシア(旧ソヴィエト連邦)の諜報活動は古く、第二次大戦前にさかのぼる。日本の南進政策などを探り当てたリヒャルト・ゾルゲ(47ページ参照)もGRU所属のスパイで、その活躍は今なお語り継がれている。
 東西冷戦時代にも、数多くのスパイ事件が日本で起きた。一九八〇年にはコズロフ事件(68ページ参照)が発覚。元陸上自衛隊陸将補の宮永幸久は、在職中に部下だった現職自衛官二人から軍事情報を入手しては、ソ連大使館付武官のコズロフに手渡していた。警視庁は事情聴取を求めたが、やはりコズロフもボガチョンコフと同様に外交官免責特権を行使して帰国した。
 その後、九七年にもロシアのSVR(対外情報部)に所属するスパイの日本人偽装事件が発覚。SVRは軍事情報を除く、すべての対外情報収集活動をおこなう諜報機関で、その母体は悪名高きKGB(国家保安委員会)である。ソヴィエト連邦崩壊後、KGBは解体され、SVRとして再編成された。
 SVR(KGB)が放ったスパイは福島県在住の男性になりすまし、旅券を取得していた。その後、出入国をくり返し、六〇年代後半から八〇年代まで三〇年以上もソ連大使館と極秘に連絡を取り合いながら、諜報活動に従事していた。
 しかし、素性がばれそうになったスパイは、渡航先の中国・北京で消息を絶つ。彼はのちにモスクワに居住している事実が確認された。この事件に対し、警視庁は「旅券不実記載及び同行使」といった罪状で逮捕状をとり、国際手配をおこなった。同時に事件に関係ある一等書記官にも事情聴取を試みるが、ここでも外交官免責特権の壁にはばまれた。

 日本で摘発されたスパイ事件の数々は、スパイ戦争の世界においては「氷山の一角」でしかない。共産主義国家のほとんどが消滅した現在、水面下では熾烈な戦いがさらに活発化している。なかでも産業経済スパイ戦争は日々エスカレートし、守りの甘い日本は世界各国の標的として完全にマークされている。
 本書の狙いは、厚いベールに包まれた諜報機関の内部をわかりやすく紹介することにある。「世界で最も古い職業の一つ」といわれるスパイとはいかなる存在なのか。そして、映画や小説で描かれるスパイの世界と現実はどう異なり、どうリンクするのか。知られざるスパイ戦の内幕を可能な限り再現したものである。
 しかし、なによりも私が言いたいのは、スパイは諜報機関だけでないということだ。我々が暮らす一般社会にも、スパイは存在する。コンピュータ社会の美名のもとに個人レベルの危機管理意識は低下し、個人情報は知らないうちに売買されている。もはやスパイの存在は他人事ではないはずだ。
 本書は諜報機関の歴史やスパイの紹介にとどまらず、実用書としても使えるように、現実に用いられる最先端のスパイ・テクニック、そしてスパイへの対処法についても解説した。諜報機関がいかにエージェント(協力者)を獲得するか、といった現場のノウハウにも触れたので、今回摘発された海上自衛隊三佐によるロシアへの情報漏えい事件(ボガチョンコフ事件)とその内容を照らし合わせてみてほしい。
 最後に本書『図解スパイ戦争』を書き上げるにあたって、快く取材に応じてくださった諜報機関関係者および各関係方面の方々、貴重な資料を発表され、また提供してくださった方々、イラストレーターの白山宣之氏、並木書房編集部に深い感謝と敬意を捧げる。
                                  毛利 元貞


目  次

 はじめに 1

第1章 スパイへの道 9

1 スパイとは何か 10
2 スパイへの適性能力 14
3 スパイの報酬 18
4 スパイ養成学校 22
5 迫真の尋問ゲーム 26
6 極秘訓練都市で最後の仕上げ 30
7 セックスでエージェント獲得 34


第2章 第二次大戦のスパイ 39

8 情報こそが力なり 40
9 日独を手玉にとったスパイ 44
10 仲間に裏切られた英国スパイ 48
11 出おくれたアメリカ諜報機関 52
12 日本が誇る陸軍中野学校 56
13 最高機密とされた暗号解読技術 60
14 破壊工作を遂行せよ 64


第3章 冷戦時代のスパイ戦争 69

15 東西二大陣営のスパイ戦始まる 70
16 鉄のカーテンを覗け〈アメリカ諜報機関〉 74
17 戦犯は許さず、報復せよ〈イギリス諜報機関〉 78
18 実戦で鍛えられたスパイ〈ソ連諜報機関〉 82
19 冷たく、そして熱い二つの国〈ドイツ諜報機関〉 86
20 英雄ギデオンのスパイ〈イスラエル諜報機関〉 90
21 ソ連に学んだスパイ技術〈中国諜報機関〉 94
22 国のためなら違法行為も〈フランス諜報機関〉 98
23 同民族どうしのスパイ戦〈韓国・北朝鮮諜報機関〉 102
24 世界のスパイが暗躍する国〈日本諜報機関〉 106
第4章 現代のスパイ戦 109

25 軍事スパイ戦から産業経済スパイ戦へ 110
26 産業スパイの汚い手口 114
27 機密情報はゴミのなかに 118
28 エージェント獲得の方法 122
29 公開情報から真実をつかむ 126
30 エージェントを植えつけろ 130
31 機密はコンピュータから 134
32 電波を横取りせよ 138
33 産業スパイから身を守る 142


第5章 スパイのテクニック 147

34 人間スパイ戦と電子スパイ戦 148
35 暗号作成と解読の秘訣 152
36 巧妙なスパイ連絡術 156
37 ハイテク盗聴技術 160
38 写真撮影で機密を盗みとる 164
39 暗殺者への道 168
40 他人を洗脳する方法 172
41 スパイに狩られるスパイ 176


第6章 限りなく現実に近いスパイ映画 179

42 スパイだった小説家 180
43 三十九夜 184
44 間諜最後の日 188
45 ロシアより愛をこめて 007シリーズ 192
46 寒い国から帰ったスパイ 196
47 ジャッカルの日 200
48 テレフォン 204
49 ザ・アマチュア 208
50 エネミー・オブ・アメリカ 212

 スパイ・諜報機関年譜 216
 スパイ用語集 220
 参考図書 224

毛利元貞(もうり・もとさだ)
1964年広島県生まれ。全米ボディガード協会、世界警察射撃教官インストラクター協会、米国警察インストラクター協会会員。高校卒業と同時に陸上自衛隊に入隊。その後、仏外人部隊、米国傭兵訓練学校教官、そして東南アジアでの傭兵訓練をへて、現在は米国警察特殊部隊SWATの対テロ訓練指導をおこなう。また91年からノーベル平和賞受賞者ダライ・ラマ14世のボディガード訓練を担当。国内においては作家としても活動。テレビ、ラジオ、テレビゲームといったエンターテイメント作品のシナリオ制作および監修も手がける。主な著書に『新・傭兵マニュアル完全版』『SWATテクニック』『ボディガード流護身術』『軍隊流護身術』『総合護身術(近刊)』(いずれも並木書房)、『犯罪交渉人』(角川書店)、『銀鼠』(廣済堂出版)。アクション指導の代表作品として映画『梟の城』(東宝)、ミリタリー監修としてテレビゲーム『メタルギア・ソリッド』(PS版 コナミ)『メタルギア・ソリッド2(2001年発売)』(PS2版 コナミ)がある。メールアドレスはdeaddrop0086@hotmail.com