●はじめに
いきなり自己紹介とは、唐突の感がありますが、本文を読まれる方には、そうしたほうが便利かと思うからです。と申しますのは、ここには、さまざまな戦場の姿がありのままに記されており、師団長、連隊長、参謀、下士官や一般の兵隊さんが登場してきます。その内容はほとんど全部といっていいくらい、私自身の長い軍隊生活、戦場体験の中から生まれたものばかりです。
したがって私が、どんな軍歴をへてきたかを知っていただくことによって、「ああこの話は、あの頃のことだな」とわかっていただけるし、失敗談、成功談、エピソードの中から昔の軍隊や戦場というものがどんなものであったかを、若い人たちにも、多少なりとも理解していただけるだろうと考えたからです。
私は、大正六年(一九一七年)の生まれで、満州事変(昭和六年/一九三一年)の翌年、東京陸軍幼年学校に入りました。この年の五月、犬養首相が官邸で陸海軍人によって暗殺されるという、いわゆる五・一五事件が起きました。昭和一○年、陸士の五一期生となりましたが、翌一一年二月、日本を震撼させたあの二・二六事件に際会しました。一二年、歩兵第八連隊の士官候補生となり、満州国新京(今の長春)に駐屯していた時に支那事変が勃発しました。その四年後に対米英蘭戦争(大東亜戦争)が起きようとは、誰が予想したでしょうか。このような激動の時代に、私は少青年期を過ごし、父の志を継いで軍人の道を選んだのであります。
父は陸軍士官学校(陸士)一八期の軍人で、大正時代、三年間、中国のシルクロード地区に勤務し、満州事変の時は関東軍飛行隊長でありました。
私は昭和一三年の一二月に陸士を卒業し、見習士官の時には、満州東部の討匪戦に独立小隊長として参加しました。相手は民族系の謝文東の部隊と共産系の王陰武の部隊でした。
昭和一四年春、陸軍少尉に任官し、歩兵第八連隊の連隊旗手となり、明治七年に明治天皇からいただいた軍旗を奉じて、八月ノモンハンの戦場に赴きました。一五年春、連隊乙副官になりましたが、第八連隊の属する第四師団は、一五年夏に全部隊が満州から中国の武漢西北方地区に移駐することになり、私たちの連隊本部は、漢水左岸地区の雲夢県に駐屯し、私は一六年まで、漢水、予南、江北、大洪山などの作戦に参加しました。
同年八月に、私は連隊から陸士の区隊長に転任しました。一九年の夏まで、陸士、幼年校と教育職にありましたが、その秋、戦争の緊迫とともに、愛する生徒を残し後任のないままフィリピンに飛び、レイテの決戦に参加し、そこで二○年八月の終戦を迎えました。
回顧すれば、昭和一二年士官候補生として満州に赴任してから終戦までの約九年、軍隊生活は、ほとんど第一線勤務に終始したことになります(戦後の自衛隊生活を含めれば三○年近くになります)。その私も今年八○歳になります。冒頭に記したように、戦後五○余年、この平和な日本に生きている若い方々には(だけでなく中高年の人たちも)戦争・戦場の実際の姿がどんなものであるか、おそらく映画・テレビや劇画でしか見る機会はないでしょう。しかし、日本以外の世界では、それは日常茶飯事なのだということを理解していただきたいものです。私がありのままの戦場の姿を伝えたいと考えたのは、一つには、自分自身の長い戦場経験から得たもの、学んだものを伝えることは、むしろ老兵の義務であると思ったこと。二つには、亡き戦友たちの心を伝えたい。すなわち、そのことによって鎮魂の気持をあらわしたいと考えたからであります。本書は、いうなれば戦場からの遺言であり、メッセージでありましょうか。
さて、「戦場」についてですが、私の語るのは、海でなく陸の戦場であります。戦場と一口に言っても、それはいろいろさまざまあって、銃砲弾の飛び交う死の確率の高い環境もあれば、作戦の合間の、のんびり生を楽しめる場面もあります。海空軍に護衛されたきびしい海上輸送もあれば、国内の都市、村々も戦場になります。正規戦の舞台もあれば、非正規戦の環境もあります。本稿は、私の体験を通じて公刊戦史にあまりあらわれない、多少ドロドロした戦史の舞台裏を書いてみたものです。ここには若い方々が、いざという時、考えなければいけないものが含まれていると思うのです。
まさしく戦場は、死の環境であります。ナポレオンは兵士に対し「君たちは何十年生きようと思っているのか、君たちがもし死ぬ運命にあるならば、地下一○メートルに隠れても、敵弾は君たちを追っかけて来るであろう。生死は運である。諸君、勇敢に戦おうではないか」と激励しており、かの上杉謙信は、北条勢の大軍に包囲された佐野城の救援に来た時「死なんと思えば生き、生きんと思えば死す。生死を思うな」と叫んで、数十騎の部下とともに城に駈け入り、北条勢は唖然と見つめていたといいます。
とはいうものの兵士は生きていなければ戦えない。そこが指揮、統率する者の苦心を要するところであります。
私が参加したレイテの戦場などは、フィリピン群島七○○○の島の一島にすぎません。しかしこの静岡県ほどの戦場に日本軍八万五○○○、米軍二○万が投入され死闘をおこなったのです。それは国家的決戦であり、日本は特攻作戦まで開始しました。
英国のウェーベル元帥は、戦後ケンブリッジ大学の講話の中で、戦場の指揮官は、第一に糧食(パン、塩、水など)と資材(弾薬、医薬品など)を与えること、第二に実際感覚(環境変化の本質をつかむ)があること、第三に親切であり、かつきびしくあること、が必要だと述べていますが、実はこれはギリシアのソクラテスの訓えなのです。ところが思い出してみると、さきの戦争で、何とこの古くからの訓えが実行できなかったことか。陸軍も海軍もこれができなかったのです。
兵隊さんが生きて戦うためには、第一の糧食と資材が必要です。そのためには指揮官に第二の実際感覚がなければなりません。そしてそのためには第三の親切さが必要です。それはいわば愛情でありましょう。
幸い、私の所属したレイテにおける名連隊長宮内良夫大佐は、「多流汗、少流血」をモットーにしていました。あの激戦場のことでしたから流血を少なくすることはできませんでしたけれども、米軍二個師団を相手にして、約四○日間ねばり抜き、米軍参謀総長マーシャル元帥をして「日本軍最強の部隊」と賞讃せしめました。その意味において、私自身は「われ後悔せず」の気持を持ち続けております。
自画自賛になりましたが、もちろん私は、戦争を正当化し賛美するつもりはありません。しかし、個人に「運命」があるように、国家にも「運命」のようなものがまといついているのでないか……と昨今考えるようになりました。第二次大戦後五○年の世界情勢の推移を冷静に客観視すれば、あの大戦で勝った国は本当にあったのでしょうか。おのずから一種の運命論者にならざるを得ないでしょう。
二一世紀を数年後にひかえた日本の若い方々に、本書のような前世紀的な戦場記録など、なんの役に立つものか、という自嘲の思いがないでもありません。しかし、どのように時代環境が変わっても、個人は存在し、生き続けるでしょうし、個人が生きているかぎり、「人生の修羅場」というものは存在するでありましょう。そんな時、この拙い戦場物語の一つ二つでも参考になるかもしれない……というささやかな願いを込めて本書をまとめた次第です。
●あとがき
この随筆集は、陸上自衛隊幹部学校長であった今田敏之氏のおすすめがあり、同校の『陸戦研究』誌に丸二年間、毎月連載したものです。
本書は大先輩の桜井忠温氏の短編集『銃後』にヒントを得たものです。大正二年発行の同書は、日露戦争を偲んで実に公平で美しい名文です。それに較べれば本書などは、省みて忸怩たるものがあることは十分承知しております。
しかし「はじめに」に書きましたように、私はフィリピン・レイテ決戦で一○○○名近い部下を失った生き残りの大隊長です。乏しいながら、長かった戦場の経験を書き残すことは、戦友の慰霊につながり、また若い人の参考になれば、という気持が、そうさせたものです。いかがでしょうか。読者諸氏のご感想をお聞かせいただければ幸いです。
終わりに、このささやかな随筆集は、並木書房の奈須田さん父子の共感と激励を受け、若干の稿を追加して上梓にいたったものです。そのご尽力に深く感謝します。
●長嶺秀雄(ながみね・ひでお)
大正6年4月福岡市に生まれる。昭和7年4月東京陸軍幼年学校に入校。10年4月陸士予科入校。51期生。12年4月歩兵第8連隊士官候補生となり、満州に駐屯。14年3月独立小隊長として討匪(対ゲリラ)戦に従事(少尉)、8月ノモンハン事件に連隊旗手として参加。15年3月連隊乙副官、7月中国に移駐。16年7月まで中国武漢地区で作戦(中尉)。同年8月陸士区隊長。18年7月東京陸軍幼年学校生徒監(大尉)。19年10月フィリピンに出征(少佐)し、レイテ作戦に参加。第1師団歩兵第57連隊の第2大隊長。20年1月セブ島に転進後、持久戦に入り、8月終戦を迎える。21年3月帰国。大隊663名のうち日本に戻ることができたのはわずか18名。26年〜47年陸上自衛隊に勤務。47年4月防衛大学校講師、引き続き教授。58年3月同大を退官し、現在に至る。茅ヶ崎在住。
Vietnam Cross of Gal1antry W/Pa1m,Combat Infantry Badge,
Master Parachute Badge,Pathfinder Badge,Scuba Diver Badge
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