●あとがき
一九七五年四月三〇日、南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、この日を期してアメリカ合衆国は、ベトナムから撤退する。私が、この忌まわしいニュースを聞いたのは、米国防総省地下の統合参謀室の一角にある非正規作戦ルームだった。通常は一介の下士官が訪問できる場所ではないのだが、私を誘ってくれたのが、グリンベレーの草分けの一人チャールス・N大佐であった。
大佐と私は、七四年後半から国務省直轄の外国語学校(ぺンタゴンから徒歩で約一〇分)でフィンランド語を習得中だった。
先着のメンバーの中には見慣れた顔も多く、みな握手を求めてくるのだが、声を発するものはいない。重々しい雰囲気の下で戦争終結のブリーフィングが終わって、大佐と階上のスナックバーに立ち寄る。コーヒーを飲み始める前に、大佐がポツリと一言、「おいスキー、これからどうする」と、自問自答するように尋ねる。
私は胸が詰まってうまく答えられない。ただ「もう一度、戦うチャンスを与えてくれ」と心の中で叫んでいた。
このとき不思議と死んでいった戦友のことは頭に浮ばなかった。興奮していたのだろうか。
建国以来二百有余年、アメリカ合衆国が自由陣営の重鎮として幾多の戦争を体験してきたことは、歴史の証明するところである。ところが、この長い歴史のなかで、ベトナム戦争ほど評価の定まらない戦争はこれまで例がなかった。
戦後一〇年以上たった今も賛否両論入り乱れて世論をにぎあわせ、ベトナム戦争を誹誇、誇張した映画や書籍は、それこそ「雨後の筍」のように街にあふれている。
私は、ただ一人の日本人としてアメリカ陸軍最精鋭の特殊部隊(通称グリンベレー)に、一九五九年から一九八○年まで二一年間在隊し、ベトナム戦争の始めから終わりまで見届けた。
退役後は、これらの映画や書籍に憤りを感じながらも、それを胸に抑え、一介のアメリカ市民として生きてきた。遅ればせながら人並みに家庭も持ち、二年前一人娘を授かった。そして、そのころから、いずれは自分の体験をまとめたいという気持ちが強くなった。将来、娘から父親は若いときに何をしたのかと尋ねられたら、胸を張って「お父さんはアメリカ陸軍軍人だった」と即答できるためにも、本のかたちで残したかった。
同時に映画や書籍を通じて誇張されたベトナム戦争しか知らない日本人、とくに若い世代に、もう一つの真実があることを伝えたかった。
古今東西、戦争は、国の運営を任された政治家たちが、最良の情勢判断に基づいて、国家の繁栄と名誉のために始めるが、直接武器を持って戦うのは軍人であり、徴兵された若者である。そして戦いが終われば、彼らはまた元の普通の生活にもどっていく。彼らには、民間人から軍人へ、軍人から一般市民へと、スムーズな心の切り換えが要求される。
ベトナム戦争に参加した多くの人々は、任期を終えて本国に帰り、第一次大戦、太平洋戦争、そして朝鮮戦争体験者と協力しあって、ごく普通の市民生活を送っている。
よく言われるように、ベトナム戦争に参加した将兵が全員、麻薬患者や精神異常者になったわけでも、婦女子に乱暴を働いたわけでもない。全体からみればその割合は、世間一般で思われているよりは、はるかに低いだろう。
だから、「ベトナムに行ったから麻薬患者になった」「ベトナム帰りだから犯罪を犯しても無罪あるいは減刑になって当たり前」と、本気で考える甘ったれた連中を見ると腹立たしくて仕方がない。
男たちが命をかける戦場には、貧富、人種、宗教などの違いを超越して育まれた美しい花が咲き香るものだ。寝食をともにし、戦場で助け合いながら任務を達成したあとに決まって残るものは、終生変わらぬ友情、尊敬、そして信頼である。
我々の部隊でも年に一度、退役隊員が一同に会して、戦死した仲間の冥福を祈り、未だ還らぬ二一六名の戦友の安否を気づかう。
昨年はノースカロライナ州にあるアメリカ陸軍の総本山フォート・ブラッグに、全米から家族同伴で約五〇〇人集まり、四日間の楽しい日々をすごした。長年、音沙汰のなかった戦友たちが抱き合って涙を流したり、ビール片手に「お前の名前は忘れたけど、顔は憶えているぞ」という懐かしい声が聞こえる。かつての歴戦の勇士から子供や孫の写真を見せられたり、当日参加できなかった仲間の近況を交換し合う。
生死をともにした仲間たちの大きな渦にもまれながら、私は本当にこの部隊にいてよかったと、しみじみ思う。
特殊部隊グリンベレーは、一九五七年一〇月にベトナム戦争第一号の犠牲者と狂ったハリー・クレイマー大尉から、最後の犠牲者となって殉じたフレッド・ミック軍曹(一九七二年一〇月一二日戦死)まで、文字通り最初から最後までベトナム戦争を戦い抜いた。
しかも一人の脱走兵も、不名誉除隊者も出さずに赫々たる戦果を挙げて凱旋し、アメリカ陸軍最強の部隊の異名をとるまでになった。
その後、東南アジア、中近東、中南米、アフリカなどの開発途上国への軍事援助、NATO各国特殊部隊との合同訓練等々、多種多彩な任務を遂行して現在に到っている。
私自身は、一九八○年四月に現隊を退き、現在は個人即時予備兵として現役特殊部隊との交流を続けている。
いま私の手元には一枚のカードがある。その金色に輝くカードの表面には、『D446』と刻印されている。Dはグリソベレー在隊一〇年以上の隊員だけが取得できるイニシャルで、私はその四四六人目ということだ。
五〇年代アメリカに渡り、財をつくるために汗を流して成功した日本人とは逆に軍隊に入り、職業軍人として二一年間を過ごした私は、いわゆる財産というものを全く残せなかった。唯一あるとすれば、日本人として、勲功あるこの特殊部隊に属し、軍令のおもむくままに常に任務を忠実に果たしてきたという誇りだけである。
小躯を駆って大男たちの中にまじって二一年間一歩も引けをとらずに頑張ってきた筆者の意気を、この本を読んだ日本の若者たちに少しでも分かってもらえたら、そして彼らのエネルギー源になることができたら、これに勝る喜びはない。
本を書くということが、これほど難しい作業とは思ってもみなかった。自分の体験をありのままに書けばいいのだからと、編集部に促され、それたらばと安請げ合いしてしまったが、思いのほか時間がかかってしまった。
企画から約二年、ようやく脱稿し、いま校正刷りを一通り見終わって一息ついたところだ。いろいろと書き足りない点は目につくが、ぽぽ満足のいくものが書けたと思って喜んでいる。
おそらく、この本を読んだ読者の方がたから、質問や感想が寄せられると思うが遠慮なく聞かせてほしい。この一冊で、二一年間の軍隊生活を語りつくせたわけではないし、日本の若者が何を知りたいのか、今後の参考にさせてもらうつもりだ。
さて、この本の完成にあたって一番の働きをしてくれたのは、読みにくい私の原稿を根気よく読んで、アドバイスをしてくれた並木書房編集部の奈須田若仁氏である。彼の再度にわたる励ましがなかったら、その完成は覚束なかっただろう。
また、退役直後にロスアンジェルスで『週刊プレイボーイ』誌のインタビュー記事を担当してくれた集英杜の岡野豊氏にも併せて感謝している。元をただせば、九年前のこの記事が、本書誕生のきっかけとなったのである。それ以後、同氏はアメリカ国内の数少ない日本の友人として公私ともにお世話になっている。
最後に、この本の執筆にあたって終始傍らにいて、私を励まし、援助してくれた妻に、心より感謝している。
●三島瑞穂(みしま・みずほ)
1938年、鹿児島に生まれる。48年,母親が米軍属と再婚,ボブロスキーを名乗る。58年、沖縄県立那覇高校を経てアメリカン・ハイスクールを卒業。同年、家族とともに渡米。59年、米陸軍に志願入隊。1960〜65年、特殊部隊Aチーム(破壊作業担当)軍曹としてベトナム在第5特殊部隊および沖縄在第1特殊部隊に在隊。65〜72年、長距離偵察中隊隊長。敵陣後方での待ち伏せ、捕虜捕獲など、対ゲリラ作戦に従事。72〜74年、在日米軍連絡官および通訳主任。沖縄返還時の業務引き継ぎに関する諸事項を担当。74〜76年、特殊部隊情報・作戦主任として、戦略・戦術情報の収集、判定、作戦立案を隊員に訓練。また新入隊員のセキュリティ・クリアランスのチェック、取り扱い業務を担当する。76〜80年、特殊部隊水中作戦(潜水)隊の隊長。水中・陸上作戦の計画・指揮を担当。米特殊部隊のみならず、NAT0、友好各国の特殊部隊を訓練する。80年4月退役。現在、ロスアンジェルス在住。アメリカ国籍。本名、瑞穂・ボブロスキー(Bobroskie)。〈教育課程と勲功章〉1962年セキュリティ・クリアランス(ファイナル・トップ・シークレット)を取得。63年、特殊部隊「爆破」コース、66年、「HAL0」コース、75年、「水中作戦」コースを卒業。国防省言語学校「ベトナム語」「ロシア語」「ノルウェー語」コースおよび外国語研修所「フィンランド語」コースを卒業。在隊中、授与されたメダルは次のとおり。
Meritorious Service Meda1,Bronz Star Meda1,Air Meda1,
Army Commendation Meda1,Good Conduct Medal,
Armed Forces Expeditionary Medal,
Phi11ipines Presidentia1 Unit Citation,Vietnam Service Medal,
Vietnam Campaign W/60 Device,
Vietnam Cross of Gal1antry W/Pa1m,Combat Infantry Badge,
Master Parachute Badge,Pathfinder Badge,Scuba Diver Badge
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