●はじめに――世界は変わっている
一九八九年にベルリンの壁が崩れてから、本書執筆時点で一〇年が経過しようとしている。東西ベルリンを分断していた壁が取り崩された時点をもって冷戦の終結とするなら、世界はすでに一時代に相当する変化の時間を経験したことになる。
この間に世界は大きく変化した。一言で言えばあらゆる分野、あらゆる面で、従来の(冷戦時代の)境界が曖昧になってきた。そのため従来の価値観や世界観、あるいは常識では何が起こるか予想ができにくくなってきた世界とも言える。
当然、安全保障の概念も変わった。
冷戦時代には安全保障というと、ほとんど軍事が中心であった。世界は東西の二大ブロックに分かれ、その間にあって非同盟中立を標榜した国々も、米国かソ連寄りのどちらかであって、完全な中立的立場をとった国はなかった。東西ブロックの間の経済や文化交流は、全くなかったとは言えないが、非常に限られたものであった。どちらか一方のブロックの立場から見れば相手方は悪であり、その点で善悪の価値観がはっきりしていた。安全保障とは相手ブロックとの間の武力衝突において、勝つか負けるかという一点に集約されていた。
それが冷戦の終結によってブロックが消滅し、世界の経済、文化交流が飛躍的に自由に行なえるようになると、安全保障の中心として躍り出てきたのが経済的要素である。
まずブロックの消滅は、そのブロックに属するための国家という単位の概念を希薄化させ、代わりに民族、宗教、言語、あるいは経済共同体が価値観、世界観、さらには宇宙観の基本となってきた。
逆に言えば、東西ブロック体制を維持するための基本単位である国家という機構を確固とする目的から、それまで抑圧されてきた民族や宗教、あるいは言語共同体などの集団とその価値観が、表面に出てきたのである。ソ連邦の崩壊に代表されるように、それまで信じてきたシステムの崩壊は、社会や価値観の新しい基盤として既存の、あるいは新しい宗教の大きな発展をもたらしている。
自由な交流の促進は、従来の国境や、それに伴う制度という境界の概念を曖昧にした。EU(欧州連合)は国境の壁を大きく引き下げ、通貨すら統一に動き出した。NAFTA(北米自由貿易協定)やASEAN(東南アジア諸国連合)のように、その域内での自由貿易を促進し、安定した力強い経済の発展を意図した共同体構想が、今後も増えていくだろう。
こうして、冷戦後の世界は従来の国家よりも、民族、宗教、言語、経済共同体が考え方の基本となり、「安定した繁栄」を追求することが安全保障の最大の目的となっている。つまり広い意味での経済(単に金が得られるというだけではなく、教育、医療などの社会インフラが充実し、精神的にも安定した豊かな生活が送れるようにすること)が安全保障の基本となってきた。従来の軍事的要素は、その目的を達成するための、何本もある柱の一本に過ぎない。
他の柱とは、領土・領海、資源の確保、通商ルートの保全、それに伴うところの山賊・海賊問題の解決、密輸・麻薬対策、国際テロリズムの防止、環境汚染・破壊問題、エイズを始めとする伝染病の防止(例えばエイズの蔓延は、その共同体の労働人口を激減させ、医療負担を急増させ、社会を不安定化させる)、さらには文化侵略(インターネットや衛星放送の普及により、従来の価値観、宗教基盤がゆさぶられる)、民族問題、宗教対立なども、その共同体の安全保障にとって、軍事と同様に重要な要素となっている。これらの要素を総合的に考え、対処するのが冷戦後の安全保障である。
当然、軍隊もこの安全保障概念と要素の変化に対応した役割を果たさねばならないし、その装備も、冷戦後の役割に対応できるものでなければならない。軍隊の任務は、冷戦時代の国家とその権益の防衛だけではなく、海賊の取り締まりから密輸、麻薬の流入阻止、大量破壊兵器を使用するテロ攻撃を受けた際の対応など、警察・沿岸警備隊(日本では海上保安庁)、さらには消防といった機関の任務と重複するものが多くなってきた。装備の面では、戦闘機や駆逐艦、戦車などの価値がなくなったわけではないが、相対的に輸送機、輸送艦、装輪装甲車などの利用価値が増大してきた。潜水艦は敵の潜水艦だけを相手に考えてきた任務から、偵察・情報収集活動、特殊部隊の投入、機雷の敷設と探知といった多目的任務が要求されるようになってきている。
しかるに、日本はどうであろうか。
確かに金融や流通などの分野で「規制緩和」(世界で通用する言葉を使うならばディレギュレーションとは「規制撤廃」の意味である)が行なわれ、それまで絶対と信じ、あるいは疑うことがなかった終身雇用制が崩れ、土地神話が崩壊し、銀行が倒産したあげく、日本の牽引車と考えられてきた官僚システムに対する大きな不信感が生まれてきてはいるが、こと安全保障となると、まだ「=
軍事」という概念に囚われてはいないだろうか。
囚われているのは日本人の一般大衆だけではない。世界の現実を知って、それを伝え、行動せねばならないはずの政治家、官僚、そしてメディアまでが、この世界の安全保障概念の変化に気づいていないように思える。
その一つの例が、日米防衛協力における指針、いわゆる「ガイドライン」の内容に関する論議である。「周辺有事」に際して公海上で米軍艦艇に燃料は補給できるが弾薬の補給はだめだ、などという議論をしている。軍事行動において燃料の補給も弾薬の補給も同じ次元である。日本が米軍艦艇に燃料を補給すると決めたなら、弾薬を補給したところで世界は気にしない。それは外交目的から日本が弾薬を供給する方針を非難する国や勢力はあるだろうが、世界の常識からするなら燃料も弾薬も同じ分野の問題であって、それを区別することに意味はない。
世界の関心は日本が米国といっしょに、アジア太平洋地域の安定にどこまで貢献、ないしは協力するつもりがあるかという点であり、ここまでは(「地理的概念」ではなく、行動の内容としての範囲で)日本単独でも、そして、ここまでは米国と協力して行なう、という点を明確にすることを求めている。それが日本国内では、台湾海峡の問題はガイドラインに含むの含まないだのと論じて時間をつぶしている。
台湾海峡に軍事的衝突が起これば、米国は沖縄の米軍基地から直接発進して軍事行動を起こすのは明らかだし、南西諸島の宮古島、石垣島、西表島などは台北よりも南にある。西表島と台北との距離は一六〇キロに過ぎない。台湾海峡で何かあれば、日本は好むと好まざるとにかかわらず、紛争に巻き込まれるのは地図を見れば一目瞭然である。
中華人民共和国政府が台湾海峡の問題は内政干渉だと言おうが、中華人民共和国が台湾に武力を指向するとなれば、米国が中華民国(台湾)を支援するだろうことは、一九九六年三月の中華民国総統選挙時における米国の軍事力動員を見ても分かる。米議会ははっきりと中華民国支持を打ち出している。
台湾海峡で何かがあったら日本が巻き込まれるのが嫌だから、沖縄から米軍基地を撤去せよとか、日米安保条約を廃止すべきだと言うつもりはない。台湾海峡はガイドラインの対象外とするのが、いかに非現実的な論議だと言いたいのである。世界はその日本の非現実的な論議を聞いて、どう思うだろうか。
いまだにこのような議論をおおまじめにしているくらいだから、自衛隊の運用や装備が世界の現実に即していないのは言うまでもない。冷戦後の世界の変化に対応できる装備が全く存在しないわけではないが、その運用思想のほとんどは依然として冷戦時代の軍隊のままであり、したがってせっかくの装備が活用できていない。
「法的に未整備だから、現実の世界に対応した使い方をしたくてもできないのだ」という反論もあろう。それは否定しない。冷戦思想に囚われ続けている政治家や官僚、メディアの責任もある。自衛隊が冷戦時代の運用思想を超えた使い方をしようとすると、どうした訳かそれを非難するのである。
だが、これは一般国民、納税者にとっては、せっかく我々の税金で、したがって我々の資産として存在する装備を、むざむざ有効に使わずにいるという結果を意味する。我々の税金は最大限有効に使ってもらいたいと思うし、そうするのが為政者の義務というものだろう。
もはや戦車も戦闘機も要らないというのではない。それらの「抑止力」としての存在価値を認めた上で、なおそれ以外の装備でも従来とは違ういろいろな使い方ができるし、冷戦後の世界ではそれが求められている。
そのようないくつかの例を挙げることにより、読者の方が、すなわち日本国民、納税者の方々が、冷戦後の自衛隊とその装備の活用方法についてご自分の意見をまとめられるに当たり、何らかのお役に立てればと思う。
●おわりに
軍隊は、たとえそれが軍隊とは認められていない「自衛のための組織」であっても、世界の動きと技術の趨勢に合わせて変化していかなければならない。
なんとなれば、国(あるいは民族や集団でもよい)を守るというのは対外的な行為であり、世界の動きに対応せねばならないものだからである。そして、技術や戦術の変化を先読みできなければ、少なくとも世界から見て後れをとらないようにしなければ、抑止力は機能しなくなり、戦えば必ず破れる。
相手が戦車を持ってくるのに、竹槍では勝てないし、全く抑止力は生まれないだろう。航空機の脅威に対抗するために高射機関砲を装備していても、相手は一〇〇キロ以上先から空対地ミサイルを撃ち込んでくるなら、有効射程が二キロ程度の機関砲では話にならない。
より身近で可能性が高い脅威が、正規軍による上陸作戦よりも小規模部隊によるゲリラ攻撃であったり、国家ではない武装勢力によるテロ攻撃であるのに、大型の潜水艦や戦闘機をそろえる行為に汲々として、この種の脅威に対応できる能力を整えておかなければ、実際に発生する非常事態に全く対応できないだろう。
冷戦後、世界は大きく変わっている。安全保障環境も、軍事的脅威も、そして軍隊の役割と性格も、それに応じて大きく変化した。島国日本でも、この世界の変化を無視はできないはずである。それは、日本が世界と大変な量と額の交易を行なっているという一点だけを見ても、明白であろう。
それゆえ、自衛隊の装備とその使い方も、現実の世界の変化に合わせたものでなければならない。平和維持、人道支援を始めとする国際貢献を積極的に行なっていくという国民の意思を反映した外交政策をとるなら、自衛隊の装備も、その任務に適したものをそろえなければならないだろう。たとえそのために、戦闘機や戦車の調達数を削るとしてもである。
だが、自衛隊、すなわち国防軍としての本質は、あくまでも日本という国(国家という概念よりも、国民とその領土、財産)を守る点にある。その第一は、日本の正当な(と、国民が考える)利権に対して、外部勢力が侵害する気を起こさせない抑止力である。すなわち、外部勢力に与し易い、武力による脅しに簡単に屈するだろうと思わせてはならない。
それには、四周を海に囲まれた日本という地理的条件と、海上交通に生命線を依存しているという現実的条件から、抑止力の基本はやはり正規軍としての武力である。海を渡って来襲し、海上交通路を脅かせる軍事的能力は、国家規模での正規軍でしか得られないものだからである。したがって、日本に対するもっとも大きな軍事的脅威は正規軍の正規戦としての形をとるはずで、自衛隊はまずその脅威に対応できる能力を維持せねばならない。
しかし、それだけでは変化する世界と、それに伴って発生する新しい脅威には対応できないし、新しい自衛隊の役割にも応えられない。そこから従来の(冷戦当時の)装備形態と、新たな任務への装備との調和をどのようにとったらよいかという問題が生まれる。何となれば、防衛費と防衛に投じられる資源は限られているからである。
よく自衛隊を災害支援専門部隊に改編しろとか、平和維持活動専門組織にせよという主張がある。これは世界の現実から見て、間違っていると断言できる。
確かに自衛隊は災害救援活動に派遣され、大きな力となっている。陸上自衛隊の施設科部隊は土木建設機材を持ち、カンボジアのPKOでも道路建設に活躍した。だが、それらは現代の戦闘組織として必要とされる機能と装備だから、災害救援や平和維持・復興活動にも応用できたもので、土木建築専門集団ではない。
もし、陸上自衛隊を土木建築を専門とする組織に改編したらどうなるだろうか。このような組織は、その技術を維持し、隊員を訓練しておくために、常に何らかの土木建築作業を行なっていなければならない。それは民間土木建築産業を圧迫するだけではなく、その能力が必要な場合は、ただちにそれまで行なってきた作業を中止して、いつ戻れるか分からないままに、災害地や平和復興を必要としている場所に派遣されてしまう。道路を造っていたら、その工事は中止になったままである。逆に堤防工事を行なっている時には、すぐに別の場所に行けと言われても、ある程度作業を完成させなければ、その場所が洪水の危険に見舞われる場合もあるだろう。そのような部隊を保有するのは不可能である。
平和維持活動専門部隊でも、いつどれだけの規模でどのような任務に派遣されるか分からないのに、常に隊員を訓練し、装備を整えておかねばならない。平和維持・復興活動といってもいろいろで、その国や場所によって平和維持・復興活動に派遣される部隊の規模、能力などに差が生まれる。およそあらゆる非常事態を予想して、それに対応できる能力を持っているのは軍隊であり、そのような組織を「実際に使わないために」平時から維持するのが正当化されるのは、国防軍だけである。
「実際に使わないため」が基本的役割であっても、必要な時には使える能力がない限り、抑止力は生まれない。それゆえ、突発する災害や平和維持活動のような任務にも対応できる能力がある。
だから平和維持活動には、各国が、その軍隊から、国家安全保障が大きく阻害されない範囲で供出するのであって、軍隊を廃止して平和維持活動専門の部隊や、災害派遣専門組織にした国は、世界のどこにもない。にもかかわらず、日本では災害救援専門部隊だの、平和維持活動専門部隊だのの構想が、何の疑問も持たれず、あたかも現実的な案のように論じられてきた。
自衛隊の装備形態は変わらねばならないだろうし、既存の装備も多様な使い方をされる必要があるだろう。だが、それは国家防衛の武装組織としての自衛隊の本質を変えなければならないというものではないし、戦車やミサイルをなくせというものでもない。それを踏まえた上でも、なお自衛隊の装備とその使い方には、現実の世界の変化に則した変化をする余地があるだろうと思われる。
そのような議論をするにあたり、本書が何らかのご参考になれば、筆者としてこれに勝る喜びはない。
なお、本書執筆にあたり、資料の整理・参照、写真および図表の整理・作成に、妻の裕美子の大きな助力を得た。本書は彼女との共著とも呼べるものである。末尾を借りて感謝の意を表したいと思う。
●江畑謙介(えばた・けんすけ)
1949年生まれ。上智大学大学院理工学研究科機械工学専攻博士課程修了。現在、英国の防衛専門誌『ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー』日本特派員。著書に『兵器と戦略』(朝日選書)、『ロシア・迷走する技術帝国』(NTT出版)、『兵器マフィア』『殺さない兵器』(光文社)、『中国が空母を持つ日』『日本が軍事大国になる日』(徳間書店)、『世界軍事ウオッチング』(時事通信社)、『インフォメーション・ウォー』(東洋経済)、『日本の安全保障』(講談社現代新書)、『情報テロ』(日経BP社)、『使える兵器、使えない兵器 上下』『兵器の常識・非常識 上下』『こうも使える自衛隊の装備』(共に並木書房)他多数。 |