●おわりに
「自分で造ってもいないのに、こちらの苦労も知らずに勝手なことを」と思われる方もいるであろう。確かに、自分でも一時は技術者たらんとしただけに、それを言われると個人レベルでは忸怩たる思いがするのは否定できない。
しかし、個人の立場を離れて、一大衆、というより、国民、納税者という立場であるなら、国民・納税者は文句をいう権利がある。我々の税金で造られた兵器であり、それに国と我々国民の命(安全、利権保護)を託しているからである。
民主国家における兵器の開発、生産、調達に責任がある人間は、それらが納税者の税金で賄われているという事実を決して忘れてはならない。それを忘れた時、あるいは故意に無視した時、民主主義の基盤は崩れる。
したがって、本来非生産的なものである兵器の生産、調達はできるだけ安く済むように心がけるのが義務である。数が少なければよいというものではなく、総合的な能力から、開発、生産、そして退役するまでの運用上の総合的経費、さらには退役後の廃棄処分の経費までも考えて、最も安く済むと考えられる方法を(ただしその時点で、確実なことを要求するのは無理というもので、最も安く済む可能性が高いものを)考えねばならない。
さらには、国産化する方式と輸入による方式の、数字では表わせない長所、短所も比較のうえ、安全保障という見地から最も効果的で安く済む方法を選択すべきであり、選択が難しい(どれを選ぶべきか、それぞれ長短があり、一概には決めかねる)場合には、国民にその選択を問うべきである。何も国民投票をしろというものではない、国民の代表である国会での討議に諮ればよい。
「素人には分からない。我々は専門家だ」と言うのは、傲慢という以前の話で、民主主義の根幹を履き違えた論である。専門家は国民に対して分かりやすく説明する義務がある。それが仕事である。
その際、誤魔化したり、隠したり、嘘をついてはならない。数字にできない分野では誤魔化しやすいが、ならなおのことそれを利用してはならない。数字にできる分野でも、意味のない数字を上げて誤魔化してはならない。
例えば航空自衛隊のF・15戦闘機選定の結果を説明する時、防衛庁はソ連の防空戦闘機MiG・25との上昇力や、最高速度などの性能比較をして説明した。MiG・25はソ連防空軍の戦闘機で、日本に亡命してくることはあっても、日本本土の上空まで進出して制空戦闘をすることはない(航続力が足りない)。飛行機マニアの間の話ではないのだから、そんな戦闘機と比較しても意味がない。
国民は果たしてF・15が、日本の安全に脅威を与えるような(ソ連の)爆撃機や攻撃機を十分に阻止でき、日本上空の航空優勢を確保しようと飛来してくる(ソ連の)戦闘機に十分対抗でき、排除できるだけの能力があり、その能力を持つことによって十分な抑止力を発揮できるのかを知る必要がある。
大衆は(個々の専門的知識においては)無知かもしれないが、決して馬鹿ではない。分かりやすく説明し、情報を与えてくれれば、自分で判断できる。もしそこになんらかの誤魔化しや嘘、隠しごとがあると、大衆は何とはなし、それを感じ取るものである。民主主義とは民が主である政治システムをいう。「民を導く」などとは傲慢以外の何物でもない。
民に嘘をついてはならないとともに、技術者は技術に対して嘘をついてはならない。兵器技術者はそれが、国民の生命と利益とを担うものであるという見地を忘れてはならない。嘘をついたことによる結果は重大であり、一国の国民の存亡を左右する可能性もある。
繰り返すが、技術者は嘘をつくことがあるが、技術は嘘をつかない。強度に不足がある橋を造れば、必ず壊れる。そこに人の命が犠牲になる可能性がある事実は、阪神淡路大震災の高速自動車道が証明して見せた。
人間がその危険を感知できるセンサー機能を持たない放射線を扱う核エネルギー技術では、技術者はなおのこと一層、謙虚で、慎重で、正直な姿勢が求められる。しかるに、技術者集団である動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が何をしたかは、今さらここで繰り返して説明する必要もないであろう。
動燃は国民に核エネルギー技術の実用化に対する不安と不信を覚えさせただけではない、天然のエネルギー資源を十分に持たない日本の、長期的なエネルギー確保に関して、きわめて脆弱な方向に世論を向かわせてしまうという、安全保障上重大な結果をも、もたらしてしまったのである。
心情的核エネルギー反対者の論はともかュとして、現在、核エネルギーに代り得るに十分な代替エネルギーは見つかっていない。太陽発電や風力発電が、効率はもとより、その大量利用による自然破壊と資源消耗から、核エネルギーに代り得ないのは明白である。
効率という点を考えるなら(それは限られた資源、土地などの保存のうえからも、きわめて重要な条件である)太陽発電、風力発電、あるいは地熱発電の大量利用は、より激しい自然破壊をもたらしかねないであろう。
そんな誤った選択をしかねない大衆に、「だから任せておけないのだ」というのでは、これも完全に民主主義を誤解している。
軍人も国民に嘘をついてはならない。海上自衛隊の潜水艦「なだしお」が釣り船と衝突する事件が起こった時、世間、とくにメディアはここぞとばかりに海上自衛隊を批難するような論を展開した。助けてくれと叫んでいるのに助けなかったとか、だいたい東京湾に潜水艦が出入りするのが間違っているなどと、事実誤認、実際を知らない、あるいは本質を外れた感情論が飛び交った。そのマスメディアの態度と、そこで論評した人達は、大衆に真実を伝えるという基本的役割を踏まずに、一気に飛び超えて批判論を展開したという点で、無責任であった。
だが、批難された海上自衛隊の方もどうであったか。こともあろうに航海日誌を隠し、改竄したのである。航海日誌とは船におけるバイブルと呼んでよい。ここに嘘を記入したのでは、最低の基本が守られなかったことになる。
この改竄が明らかになった時、海上自衛隊、そして防衛庁は、大衆の支持を完全に失ってしまった。国家と国民を守るべき軍隊(自衛隊)が、国民から背を向けられたなら、その存在意義は消失してしまう。
人間はかくも不完全で弱い動物である。だからこそ戦争がなくならず、その道具である兵器が生み出されるのであろう。
「兵器があるから戦争が起こる」という議論がある。耳に優しいが、では仮にいまこの瞬間に世界の兵器が完全になくなってしまったとして、果たして争いごと、戦争もなくなるであろうか。
きわめて卑近な例を考えてみるなら、もし隣の家と境界線の位置をめぐって対立関係にあるなら、隣の家の人が絶対にナイフを持ち出さないと言い切れるだろうか。隣の庭でナイフを研ぎ始めたのを見るなら、こちらはより大きな刃を持つ刀を研ぎ始めるだろう。それを見た隣の人は弓矢を造ろうとし、仰天したこちらは何とか銃に類するものを造りだそうとするだろう。
技術はひとたび生み出されてしまうと、その記憶を消すことができない。兵器や刀をなくしても、それを造る技術の知識がある以上、必ずそれを造りだそうとする人間が出てくる。しかも刀は人も殺せるが、木を伐り、動物の皮を剥ぐのにも必要なのである。
結局、人間が人間である以上、争いごと、戦いはなくならないであろうし、したがって好むと好まざるとにかかわらず、兵器もなくならない。それゆえ、我々は兵器と正面から向き合い、それが少しでも少なく、安い経費で済み、戦いに勝つためではなく、戦いを起こさないようにするために、最大の効果を上げられるような方法を考えて行かねばならない。
兵器の論議では、この本質論を忘れてはならない。ともすると軍や政治家の責任を追及せんがためだけの、あるいはただ兵器が悪だ、嫌いだという感情から、とにかく悪しざまに言うための、重箱の隅をほじくるような本質を外れた議論になりがちであるが、それは結果的に、国民にとって害にこそなれ、役には立たない。
人間が不完全なものであるため、なるべく誤りを犯さないようにするには、過去の教訓に学ぶのが最上な方法なのであろうが、本書にも述べたように、人間は過去の失敗、あるいは他人の教訓を自分のものとして生かす能力には欠けているようである。
結局、同じ過ちを繰り返して、本人が思っているほど進歩しては(賢くなっては)いないのが人間なのだろう。
私事の記述で恐縮であるが、本書の執筆に当たっては資料の検索、調査、整理、図版の製作、選定などで妻の裕美子の助けを多く借りた。末尾を借りて、彼女に感謝の意を表したいと思う。
●江畑謙介(えばた・けんすけ)
1949年生まれ。上智大学大学院理工学研究科機械工学専攻博士課程修了。現在、英国の防衛専門誌『ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー』日本特派員。著書に『兵器と戦略』(朝日選書)、『ロシア・迷走する技術帝国』(NTT出版)、『兵器マフィア』『殺さない兵器』(光文社)、『中国が空母を持つ日』『日本が軍事大国になる日』(徳間書店)、『世界軍事ウオッチング』(時事通信社)、『インフォメーション・ウォー』(東洋経済)、『日本の安全保障』(講談社現代新書)、『情報テロ』(日経BP社)、『使える兵器、使えない兵器 上下』『兵器の常識・非常識 上下』『こうも使える自衛隊の装備』(共に並木書房)他多数。 |